ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年6月17日


2012年6月17日 主日礼拝説教
「ユダの最期」(マタイの福音書27章1節〜10節)

■はじめに

 先回は、ペテロの裏切りと、そのペテロが鶏の鳴く声とイエス様のまなざしによって、涙とともに悔い改めたところを読みました。それに続いて、これも使徒であったユダの後悔と死が記されているのが今日の箇所です。
 ユダの最期に関する記述は他の福音書にはありません。マタイがこれを記したのは、ペテロの裏切りと対比させようとしただけでなく、ユダの死に至る経過と結果が聖書の預言の成就であったこと、またイエス様に何の罪もなかったことをユダが知っていたことを示して、イエス様の無罪性をさらに明らかにしようとしたからでした。

■ピラトに引き渡される

1さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。2それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。

 ユダヤ教の指導者たちはイエス様を、神を冒?した罪で死刑と宣告しました。しかし、彼らには死刑を執行する権限がなく、また冒?罪で処罰するのではなく、ローマへの反逆罪で処刑されることを望んだのでした。それで早朝に、正式にユダヤ議会を開いて協議し、改めて死刑判決を下し、ユダヤ人の王、メシヤと自称し、ユダヤに騒動を起こし、ローマに反逆している罪人として、イエス様をローマ総督ピラトのもとに送ったのでした。

■ユダの後悔

3そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、

 イエス様がユダヤ議会で死刑が宣せられ、ローマ総督ピラトのもとに送られてからのことです。ユダは、その時になって初めて、自分は大変なことをしたということに思い至ったのでした。ユダは「後悔した」のでした。
 この「後悔する」と、似たようなことばである「悔い改める」の両方を使ってある聖書の箇所があります。

Uコリント7:8−10「8あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、9今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

 「後悔する」は、してしまったことに後で悔やむこと、残念だと思う、良くなかったと考える、という意味です。「悔い改める」は、悔いた後に、内面の生き方、行動にまで変化が及ぶこと、心を改めることです。
 自分のしたことを後悔し、神様の前に祈って、赦され、新しい歩みを始めることが悔い改めですが、ユダはそのようにはしなかったのでした。
 ユダがしたことは、罪の赦しを与えてくれる神様の前に出るのではなく、「祭司長、長老たち」のところに行って、イエス様を裏切る時にもらった「銀貨三十枚」を返したことでした。

4「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。

 ユダは、イエス様が無罪であって、自分の行ったことは間違っていたことを、「祭司長、長老たち」に告白したのでした。ユダヤ議会の手引きをしたことを後悔しただけで、イエス様に対して罪を犯したとは考えず、ましてイエス様が罪を赦す権限を持っているお方であること、イエス様が自分の救い主であることを認めることができなかったのでした。
 しかしユダヤの指導者たちは、今となっては、イエス様が無罪であるという証言や、ユダがこれからどうするかなど、どうでもよかったのです。それで、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と冷たく突き放してしまうのでした。

5それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

 ユダは、銀貨30枚を神殿の中に投げ込んで去っていきました。このような行動しか自分の後悔を示すことができなかったのです。そして、ユダはエルサレムの外に行って、首をつって死んだのでした。

■血の畑

 マタイのみがユダの死について、このように詳しく記したのは、イエス様の無罪性と、ペテロの悔い改めとの違いを示そうとしただけではなく、聖書の預言の成就という、もっと重要なことを語りたかったからでした。

6祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。

 祭司長たちは、ユダが投げ入れた銀貨は不正な取引で得たお金であり、また殺人のために支払われた「血の代価」であったことを認めました。
 イエス様は、罪にないまま十字架にかかって死んでくださいました。その「血の代価」によって、私たちの罪が赦されたのでした。

7彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。8それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。

 「陶器師の畑」とは、ここから陶器にする粘土が出たことからつけられた名前と言われています。そこを「旅人たちの墓地」、ユダヤに来た外国人を葬る場所にしたのでした。その場所が今でも、イエス様が十字架で死んでよみがえられてからおよそ30年後の、マタイの福音書が書かれたころは、そこは「血の畑」と呼ばれていたのでした。
 それは、最初は血で汚れた土地であったものが、イエス様が罪の代価として血を流してくださったこと、ユダがイエス様の罪のない血を売り渡したこと、祭司長たちもそれを認め、そのイエス様の血の代価であった銀貨30枚で畑を買ったことなど、クリスチャンたちにとって、その「血の畑」はイエス様の十字架を覚える所となっていたのでした。
 それは預言の成就でした。マタイはエレミヤのことばとして引用します。

9そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。10彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」

 これは、実際には預言者エレミヤと預言者ゼカリヤの預言を組み合わせたことばです。それをより有名なエレミヤの預言としたのでした。

ゼカリヤ書11:12−13「12私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。13【主】は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。」

 マタイは、このゼカリヤのことばを少し変えて引用しています。

エレミヤ書32:25「神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手(バビロニヤ)に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ』と仰せられます。」

 エレミヤの時代、エルサレムはバビロニヤに包囲されていました。それなのに神様はエレミヤに、土地を買っておきなさいと命じられました。それは、ユダの民は滅ぼされ遠くバビロンへと引いていかれるが、神様がもう一度、このエルサレムに連れ戻してくださることを、エレミヤが畑を買うことで示そうとされたのでした。はたして捕囚から70年がたって、彼らは国に帰ることができ、エルサレムも自分たちの土地となったのでした。
 さらにエレミヤの時代から600年後、イエス様が来られた時に陶器師の畑が「血の畑」として買われました。エレミヤの預言がこの時成就した、とマタイは告げるのです。しかも、その畑は外国人たちのものとなったのでした。イエス様の救いが、ユダヤから外国に伝わっていくことをも示したのでした。

■預言の成就

 イエス様の十字架に至るまではさまざまな預言がありました。それがひとつひとつ成就していっていることを、ユダの最期にも見ることができました。そのように、イエス様が生まれる千年以上前から、40人からの人により、ばらばらに書かれたような旧約聖書が、イエス様の十字架による救いを指し示していたことを知るのです。
 その十字架、神様のご計画であった十字架によって私たちの罪が赦され、救われていることを今日も感謝したいと思います。


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