ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年7月1日


2012年7月1日 主日礼拝説教
「十字架を負って歩まれるお方」(マタイの福音書27章27節〜32節)

■はじめに

 イエス様は、ローマ総督ピラトの裁判を受けられました。ピラトはイエス様が無罪であることを知り、釈放したいと願ったのですが、ユダヤの指導者と群衆の「バラバを赦して、イエスを十字架につけろ」という声に負けて、イエス様を十字架につけるように決定しました。「そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。」
 そこまで見てきました。今日は、イエス様が十字架につけられるゴルゴタの丘に行くまでの出来事です。イエス様が十字架を負って歩まれた道は「悲しみの道」(ヴィア・ドロローサ)と言い、今もエルサレムに残っていて歩くことができます。

■兵士たちの手に

 イエス様はピラトによって十字架刑の判決が下され、刑を執行するローマ兵に引き渡されました。

27それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。

 全部隊とは、数百人ほどの兵士たちでした。そのうちのある兵士たちによって、イエス様に対するあざけりが行われました。

28そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。29それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

 イエス様は、ユダヤ議会による裁判の後でも、議員や役人たちからもあざけりを受けられました。今日の箇所はローマ兵による、イエス様が「ユダヤ人の王」と言ったことに対するあざけりでした。
 ローマ兵たちはイエス様に王の格好をさせました。そこには下級兵士たちの屈折した感情があります。兵士たちは、上官から理不尽な扱いを受けることがあります。それで、兵士たちはだれかに暴力を加え、それによって慰めを受け、喜びを得るのです。そのような兵士たちの中にイエス様が送り込まれました。

■王の格好をさせられ

 イエス様は、ピラトの判決の後にむち打たれていました。むちは先に金属片や鉛の塊や骨がついていて、肉を裂く厳しいものでした。兵士たちは、そのむち打ちの傷の上に「緋色の上着」を着せかけ、王のマントとしました。これは兵士が着ていたマントでした。
 2つ目は、「いばらで冠を編み、頭にかぶらせ」ました。そのとげが(とげが5〜10センチもあるいばらの木でした)額に突き刺さり、血が滴り落ちました。3つ目は、イエス様の右手に「葦」のぼうを持たせました。王が持つ笏です。
 王の衣、王の冠、王の笏とそろったところで、ちょうどローマ皇帝に拝するように、兵士たちは「ユダヤ人の王さま。ばんざい」とあいさつしたのです。そして、拝礼が終わると……

30また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。

 葦の棒はいばらの冠めがけてたたきつけたでしょう。いばらのとげがイエス様の額にさらに深く差し込まれました。兵士たちは、日頃のうっぷん晴らしを、この時とばかりイエス様に向けていったのです。その間、イエス様はじっと耐え黙っておられたました。

■苦難のイエス様

 イエス様はゲツセマネで祈られました。

マタイの福音書26:39「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」」

 イエス様が受けられる苦難は、十字架だけではありませんでした。十字架の前にも、このような苦しみがあり、それに耐えられたのでした。救い主がこのような目に会い、それを忍ばれることがイザヤによって預言されていました。

イザヤ書53:7、10「7彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。…10しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。」

 兵士たちによって王の姿にされ、黙って耐えられたたイエス様こそ、私たちの救い主、私たちの王であられました。

イザヤ書33:22「まことに、【主】は私たちをさばく方、【主】は私たちの立法者、【主】は私たちの王、この方が私たちを救われる。」

 このお方が私たちの罪を負って、代わりに死んでくださろうとしていたのでした。

■十字架を負われるイエス様

31こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。

 イエス様は、十字架刑に処せられるために、ご自分がかかられる十字架を背負って刑場に向かわされました。ローマ兵は、イエス様を見せしめのため、十字架を背負わせてゴルゴタの丘まで歩かせたのでした。
 この十字架とは十字架の横棒であり、2メートルほどであったと言われています。すでに縦棒は刑場に運ばれており、そこで十字架に組み合わされました。

32そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。

 イエス様は昨夜から朝まで、弟子たちと最後の晩餐を行い、終わってゲツセマネの園に行き、そこで捕らえられ、さらに6か所の裁判へと引き回されました。イエス様はほとんど寝ていない、何も食べていない状態でした。そのような疲れ切ったイエス様でした。いばらの冠をかぶせられ、むち打たれた後の傷が痛みと十字架の重さに耐え切れず、何度もころび倒れたことでしょう。
 時間がかかるのと、イエス様がこのまま死んでしまうことを恐れて、兵士はたまたま過越の祭りにやってきた男をつかまえ、無理やりイエス様の十字架を負わせたのでした。その人の名前は「シモンというクレネ人」、アフリカ北海岸に住む人でした。

マルコの福音書15:21「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」

 「アレキサンデルとルポス」は、マルコの福音書が書かれた当時、ローマの教会で知られていた兄弟と思われます。無理やり負わされた十字架を機に、何もわからなかったシモンは刑場までついて行き、イエス様の死の様子を見ていたでしょう。その後、シモンはイエス様を救い主として信じ、その信仰が子供たちに引き継がれたのでした。
 シモンは偶然のようにローマ兵に引き出され、イエス様の十字架を負わせられました。しかし、それがイエス様を信じるきっかけとなったのです。そこに神様の導き、神様の選びのみわざを見ることができます。
 こうしてイエス様はゴルゴタの丘まで、悲しみの道を歩まれたのです。

■十字架による救い

 イエス様は、十字架にかかられる前にも、このような恥辱、苦しみがあったことを今日は覚えたいと思います。
 私たちの罪のためにイエス様が十字架で死んでくださったことにより、私たちの罪がゆるされ、救いの道、天国への道が開かれたのです。

ヨハネの福音書10:10−11「10わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。11わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

 私たちは、いま良い牧者であられるイエス様のもとに集められた羊であることを、そして天国への道をいま歩んでいることを感謝いたします。またイエス様が私たちの罪のために与えてくださった大きな愛を、聖餐式を通して覚え、感謝をささげたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年7月1日