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2012年7月15日 主日礼拝説教
「このお方こそまことの神の子」(マタイの福音書27章45節〜54節)
イエス様は、午前9時に十字架につけられました。
マルコの福音書15:25「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」
十字架の下では兵士たちが、イエス様の着物を分けるためにくじをひいていました。人々はイエス様をあざ笑っていました。道行く人々の声でした。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」祭司長・長老たちの声でした。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」いっしょに十字架につけられた犯罪人も、イエス様をののしりました。
イエス様が十字架につけられて、3時間がたちました。
45さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
あたりは暗くなり、午後3時まで続きました。神のひとり子であられるイエス様、「わたしは世の光です」と言われたイエス様が死に赴こうとしていました。暗闇は神様によるものでした。神様の怒りとさばき、また全世界の悲しみを現しているようでした。
46三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
暗闇に立つ真ん中の十字架から、イエス様の嘆きの叫びが上がりました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
イエス様は十字架で7つのことばを語っていますが、マタイでは一回のみ、このイエス様の叫びを記しています。これは詩篇22篇の冒頭のことばでした。
詩篇22:1「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」
この詩篇のことばは、イエス様のこの時のお気持ちをよく表していました。絶望的な叫び、助けを求めてもかなえられなかったイエス様の叫び、イエス様の祈りでした。
イエス様の地上での歩みは、神のひとり子として父なる神様との親しい交わりの中を歩んでこられました。イエス様は、その父と子の関係がこの時切り離されたことを、父なる神が遠くに行ってしまわれたことを感じられたのでした。
イエス様は、生まれながらの罪を持たずに誕生されたお方でした。イエス様は、人として罪のない生涯を送られました。しかもそのお方は神の御子であられ、神ご自身であられました。この時、神様は十字架にかかられたイエス様の上に、人のすべての罪を負わせました。イエス様はこの時、人のすべての罪の重荷を背負って、父なる神様に見捨てられるという初めての経験をなさいました。その叫び、苦しみが、この「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」でした。
私たち人間は、皆、罪を持って生まれてきました。神様が言う罪とは、神様から離れて自分勝手に生きようとすることです。
伝道者の書7:29「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」
私たちこそ罪のために神様から見捨てられ、さばかれて当然であるのに、イエス様が私たちの罪を負って、その罪によってさばかれ、神様に見捨てられるという経験をしてくださったのです。
それでもイエス様は、「わが神、わが神」と呼びかけ、最後の最後まで神様を求め、神様に呼び続け、信頼し続けたのでした。
47すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。48また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。49ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。
イエス様が苦しみの中から叫んだことばを聞いた人々は、「エリ、エリ」ということばをはっきりと理解できなかったのでしょう。それを「エリヤを呼んでいる」と聞いて、長い棒のようなものの先に海綿を取り付け、酸っぱいぶどう酒を含ませ、イエス様に差し出しました。これは渇きをいやすためと、痛みを和らげ正気にさせる効果がありました。
しかしそれとても、イエス様を生き延びさせて、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」というあざけりの思いをこめた人々の行為だったのです。
50そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。51すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
イエス様は大声をあげて息を引き取られました。ルカはその最後のことばを記しています。
ルカの福音書23:46「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」
イエス様がその霊を神様にゆだねられました。死に勝利した者のように死んでゆかれました。イエス様は、すべて神様がご計画しておられたみわざ、人々の罪を代わりに負って死に、そのことによって人々に罪の赦しを与えるという神様のみわざを成し遂げて、父なる神様に霊をゆだね、息を引き取られたのでした。そのことをヨハネはこう記しました。
ヨハネの福音書19:30「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」
この時3つの不思議な出来事が起こりました。
第1は神殿の幕が真っ二つに裂けたことでした。上から下にという表現で、神様ご自身が裂かれたことを示しています。それがイエス様の十字架の死と同時刻であったことをあとで知り、弟子たちは十字架が罪の赦しをもたらしたことと、さらにもう一つの意味があったことを教えられたのでした。
神殿の幕は年に一度、大祭司が動物のいけにえを携えて民全体の罪の赦し願い、神様に礼拝をささげるためにあけられる幕でした。この幕が破れたということは、イエス様を通して、ユダヤの人々だけではない、すべての人が神様の前に出られる道が開かれたことを表していました。
へブル人への手紙10:19−20「19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」
第2に地震が起こりました。「地が揺れ動き、岩が裂けた。」地が揺れ動くことは、神のさばきを示しています。
そして第3の出来事です。
52また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。53そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。
これはマタイのみが記しているしるしですが、どういうことが起こったのかよくわかっていません。聖徒とはだれなのか。生き返ったのはいつなのか。墓の中で生き返って、イエス様が復活されてからエルサレムに現れたのか。いろいろ言われています。文字通り起こったことなのか、あるいは終末に起こる出来事を語ったのか、それも分かれるところです。
いずれにしても、これらの人たちが復活したことは、人は死で終わりではなく、イエス様の死と復活によって、確かにイエス様を信じる者たちが永遠のいのちへよみがえることを示していたのでした。
54百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。
ここに十字架刑に立ち会い、兵士たちを指揮していたローマの百人隊長とその兵士たちがいました。彼らは、十字架にかかったイエス様を正面から見ていました。イエス様がしっかりと意識を保ったまま最期を迎えたのを見ていました。
一部始終を見ていた彼らは、イエス様に対して「この方はまことに神の子であった」と認めました。イエス様が死んでいかれた様子を見て、死を勝利されたお方として、イエス様が神の子であると告白できたのでした。
イエス様の生涯を見る時に、イエス様の十字架の前に立つ時にイエス様の死を見る時に、すべての人が、「イエス様はまことに神の子である」「救い主である」と言うことができるのです。
ペテロもかつてそう告白しました。
マタイの福音書16:16「シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」」
パウロも神の御子を信じる信仰を伝えました。
ガラテヤ人への手紙2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
イエス様は神の子であられました。そのお方が私たちの罪を負い、代わりに死んでくださったのでした。
ヨハネの手紙第1、4:15「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」
イエス様を神の子と信じて、これからも歩みたいと思います。
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