ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年9月23日


2012年9月23日 主日礼拝説教
「主は私を喜びで満たしてくださる」(使徒の働き2章22節〜32節)

■はじめに

 ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降るのを見た人たちが、その物音や炎のような舌、また自分たちの国のことばが語られるのを聞いて集まってきました。反応は、これは何なのか、知りたいという肯定的な人たちと、「ぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人たちでした。それに対してペテロは立ち上がり、きょう起こったことは旧約聖書のヨエル書3章に預言されていたことであり、その預言のとおり聖霊が降られたと説明しました。
 続いて、ペテロはイエス様が復活されたこと、そして昇天され、神様の右の座に着かれたことを語っていきます。

■あなたがたが十字架につけた

22イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。

 ペテロはもう一度「イスラエルの人たち」と語りかけ、「ナザレ人イエス」について話し始めます。ナザレは、イエス様が30歳まで生活されたガリラヤの町です。イエス様がご自分のことを「ナザレ人」と言ったことはありませんが、使徒たちはイエス様を紹介するときに、この「ナザレ人イエス」という肩書を使うようになります。後になると、イエス様を信じる人たちがクリスチャン(キリストのもの)と呼ばれるようになりますが、軽蔑して「あのナザレ人という一派」とも言われるようにもなるのでした。
 この「ナザレ人イエス」が「力あるわざと不思議としるし」を行われました。そのことはここにいる皆さんも知っていることです、と聴衆に語りかけたのでした。

23あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。

 ところが、このイエス様を神の子と認めず、「不法な者の手」、律法を信じないローマ人のピラトやローマ兵の手に渡し、十字架にかけて殺してしまいました。しかし、これも神様のご計画、神様の予定によることだったのでした。イスラエルの人たちがイエス様を殺したことは、神様の定めのなかにあったことでした。
 イエス様の十字架の死によって人間の罪が赦され救われるという神様のみこころは、人間が自ら選び取った罪深い行為によって成し遂げられたのでした。

■復活されたイエス様

24しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

 しかし神様は、イエス様を死からよみがえらされました。神の子であるイエス様が死の状態のままでいることはありえなかったのでした。それは、イエス様ご自身がいのちであったからでした。

ヨハネの福音書11:25「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

 それほど復活は、イエス様にとって当然の出来事であったのでした。
 次にペテロは詩篇のことばを引いて、イエス様の復活が聖書に預言されていたことを語りました。

25ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。26それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。27あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。28あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』

 これは、詩篇16:8−11からでした。私(ダビデ)は今、神様と共にいて、心も体も喜び、楽しみ、望みの中で歩んでいます。いつか迎える死の時も、「私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである」。私は肉体も朽ち果てることなく、たましいも、神様のもとに行くことができる。神様の御顔を仰ぎ見、喜びで満たしてくださる。死んだ後も永遠のいのちがある、と歌った詩篇でした。
 しかし実際、そう歌ったダビデは、死んで葬られ、その墓がエルサレムにあったのでした。

29兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。

 ダビデのたましいは、神様のもとで憩うことができたでしょうが、肉体は朽ち果ててしまいました。この詩篇には預言のことばが隠されていたのでした。
 ダビデはユダヤの王様でしたが、詩篇などをとおして救い主キリストを指し示した預言者でもあったので、とペテロは続けて語ります。

30彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。

 ダビデは、自分の子孫から永遠の王座に着く者が出ることを神様から知らされていました。ダビデはそのお方のことを預言したのでした。

31それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。

 ペテロは、ダビデはこの詩篇で、彼の子孫から出る永遠の王、救い主キリストが復活されることを預言したと語りました。そのとおり、救い主キリストは、「ハデスに捨てて置かれ」ず、「その肉体は朽ち果て」なかったのでした。ダビデの預言はイエス様が復活されたことにおいて実現しました。

■証人です

32神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

 ペテロは、ダビデの詩篇からイエス様の復活が確かなことであることを論証してきました。しかし、それよりももっと、ペテロたちはその復活されたイエス様を目撃し、実際にお会いしたのです。その体に触り、話をし、いっしょに食事をしました。これよりも確かな証人はありませんでした。
 イエス様は復活され、今も生きていて、私たちに永遠のいのちへの希望を与えてくださいます。イエス様のよみがえりのいのちが私たちにいのちへの道を知らせ、天国が確かなものであることを悟らせ、私たちの生涯を喜びで満たしてくださいます。私たちは今日も、この喜びに満たしてくださいと、感謝して歩み出したいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年9月23日