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2012年11月25日 主日礼拝説教
「心と思いを一つにして」(使徒の働き4章32節〜5章11節)
教会の働きが聖霊の働きによってだんだんと増え広がって行き、整えられていく様子を学んでいます。前回は、議会からペテロが、今後「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と命じられたのですが、ペテロの答えは「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」でした。釈放されたペテロたちは、教会の仲間のところに戻っていきました。
そのころ教会の内部ではどのようなことが行われていたのかを語っているのが、今日の箇所です。
32信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
教会はしだいに大きくなっていきました。しかし、その「信じた者の群れ」は、同じ思いと同じ目標を持っていました。「心と思い」が一つでした。神様への思いと、この群れに加わる人が起こされるようにという願いを持ちながら、また互いに愛し合いなさい、仕え合いなさいというイエス様の教えを守り、実践していました。
彼らは、一つであるという思いによって、各自の持ち物を自分だけで独占することなく、自分の財産を群れのために用いようとしていました。そのようにしてささげられたものは、みなの共有財産となったのでした。
33使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
使徒たちは、ユダヤ議会から語ることを禁じられても、イエス様が復活されたことを「非常に力強くあかし」していました。使徒たちはそのためにイエス様によって選ばれ、証人となるように召されていたのでした。使徒たちは聖霊の導きと助けによって語っていました。そして神様の恵みが、始まったばかりの教会にありました。
34彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
財産を持っていた教会員は土地や家を売り、その代金を使徒たちに渡しました。まだ金銭の管理は使徒たちがしていました。後になると(6章)、そのような働きをする、今の執事の働きをする役員を選ぶようになります。
36キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、37畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
バルナバは、迫害者であったパウロをエルサレム教会に迎え入れた人であり、最初の異邦人教会であったアンテオケ教会の牧師としてパウロを招いたのもバルナバでした。
本名はヨセフで、これはユダヤ名です。バルナバ(慰めの子)は愛称、あだ名です。出身がキプロスであったので、後にパウロといっしょにキプロスに伝道旅行に向かいます(13章)。
「ところが」と始まって、バルナバの行ったこととは正反対の二人が出てきます。
1ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、2妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
「アナニヤと妻のサッピラ」もバルナバと同じように、彼らの持っていた土地を売りました。しかし教会にささげる前に、代金の一部を自分たちのために残しておきました。
3そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。4それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニヤの行ったことは、サタンに惑わされてしたことでした。アナニヤは、自分で決めた分だけを売っても、また全部を売ったとしても、自分の分を取っておくことに何ら差し支えありませんでした。教会にささげることは強制的な制度ではなく、あくまでもその人の自発的な、自由な行いでした。アナニヤはサタンに惑わされ、誘惑され、自ら企みました。アナニヤはささげた物が一部であったのに、全部であると言い張ったのでした。
ペテロの「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」ということばを聞いて、アナニヤは倒れ、死んでしまいました。ペテロは死の宣告はしませんでしたので、この死は神様のさばきでした。
この出来事は教会全体に大きな恐れが生じさせました。すぐに死体は布にくるまれ、墓に葬られました。それから3時間ほどたって、妻のサッピラは何も知らずに教会にやってきました。
8ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。
ペテロはサッピラに、アナニヤの死を告げる前に、教会にささげたものは土地を売った全額であるかを聞きました。罪を指摘し、サッピラが真実を語り、悔い改めの機会を与えるためでした。しかし、サッピラはペテロの問いに対して「そうです」と答えました。
9そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」10すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。11そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
アナニヤとサッピラの罪は何だったのでしょうか。聖霊を試みる罪でした。それは、うそをつくことによって行われました。
私たちもうそをつくことがあります。うそも方便というたぐいのものから、行き掛かり上、ついうっかり、あるいは身の危険が迫るから、ほかの人の迷惑になるからなどの理由でうそをつくことがあります。そのあるものは、あとで悔い改めと神様の赦しを願うことになるのですが、ここで問題になっているのは、神様の前でのことば、教会におけることばは真実でなければならない、うそがあってはならないことを教えているのです。
アナニヤとサッピラがうそをついたという罪は、ペテロが指摘したように「あなたがたは心を合わせて」、ふたりで示し合わせて意図的にしたことでした。そのうそに加えて、アナニヤとサッピラが属していた教会は、「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」、そのような教会でした。また恵みは、「心と思いを一つにして」いた教会にあったのでした。
金銭によってではない。共に罪を赦された者同士、互いに愛し合い、助け合う共同体の中から自発的なささげ物があったのでした。そのような教会に神様の恵みが与えられていたのでした。貧しさを貧しさと感じない、豊かな群れであったのでした。
どうしてそのような豊かさを得ることができたのでしょうか。自分たちは、イエス様の貧しさによって、豊かになったことを知ったからでした。イエス様が自分のために貧しいものとなってくださり、私たちの罪の代わりに十字架にかかってくださったことによって与えられた、心の豊かさでした。生きる喜びでした。
コリント人への手紙第2、6:10「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」
コリント人への手紙第2、8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
アナニヤとサッピラが企んでしたことは、教会の兄弟姉妹たちの「イエス様によって富むものとされた」という心とはかけ離れたものでした。教会と、「心と思いを一つにして」いなかったのでした。
またアナニヤとサッピラは、自分のささげ物によって教会が貧しさから救われるという思いがあったかもしれません。また知らず知らずに、物や自分の働きが、神様の恵みに代えられるという思いがあったかもしれません。そのような中から起こった、最初の教会の悲しい事件でした。
教会は聖霊なる神様が働いてくださり、導いてくださり、豊かな恵みにあふれているところです。アナニヤの罪は、その聖霊なる神様を欺く罪でした。
人はパンだけで生きるのではありません。クリスチャンは貧しさの中でも富んでいる道を知っています。私たちは、何ものにも代えられないこのような豊かさの中に生かされていることを覚え、また1週間を歩みたいと思います。
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