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2014年2月2日 主日礼拝説教
「新しく造られた者」(コリント人への手紙第二 5章16節〜17節)
私たちは「神様の下さる天にある永遠の家」を待ち望んでいること、そして「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいる」こと、さらに先回は、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」ことを15節まで見てきました。
16ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
「人間的な標準で」は、原文では「だれも肉によっては知りません」です。「肉によって」です。そのことが、新改訳聖書の欄外に「直訳・肉によって」と書かれています。これは「生まれながらの人間、生まれ変わっていない人間の考えによって」という意味です。
「肉によって」に対比されるのが、「御霊によって」ということになります。
ローマ人への手紙8:13「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
「人間的な標準」とは、うわべのことや外側によって人を判断することです。「人間的な標準」で判断することは、コリント教会の指導者たちがパウロに対して下した基準でした。12節に「心においてではなく、うわべのことで誇る人たち」と言っているとおりです。
さてパウロは、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしない」と言いました。それは、14節「キリストの愛が私たち取り囲んでいるから」でした。そしてキリストを信じる者は、15節「もはや自分のためにではなく、死んでよみがえった方(キリスト)のために」生きているからでした。
このことを知ったならば、「人間的な標準で人を」知るのではなく、これからはただキリストを見上げて生きるようになるというのです。自分を見て、自慢したり、あるいはくよくよしたり、また人を見てうらやんだりすることはなくなります。また右往左往したり、人を傷つけたり、傷つけられたりすることもなくなるのです。それは、すべて神様を見上げ、「人間的な標準で人を知ろうとはしない」歩みから出てくる祝福です。
16節後半「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」。それは、パウロ自身の深い反省から出たことばです。パウロ自身は、ヘブル人の中のヘブル人、ベニヤミン族の出身であり、律法を守ることにおいては名門ガブリエルのもとで学んだ律法学者でした。かつてのパウロには、そのような意識と誇りがありました。
パウロにとっては、人間イエスはガリラヤ出身のただの男でした。ところが弟子たちが、イエスが死からよみがえり、このお方こそ私たちの救い主キリストであると言い広め始めました。それでパウロは怒りを覚え、キリストの弟子たちを迫害したのでした。
しかし、よみがえられたイエス様ご自身がパウロに現れてくださいました。自分こそ、自分こそと誇っていた自我が砕かれ、パウロはまことの悔い改めに導かれたのでした。
自分は正しいことを行っている、自分ほど正しい者はいない、と信じて疑わなかったパウロが、「自分は罪人のかしらである」と告白する人に変えられました。
パウロは、「今はもうそのような知り方はしません」と言いました。これからは、私のために死んで復活したお方としてキリストを見るというのです。そのようにされたのはどうしてであったかを、パウロは17節で語ります。
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
「キリストのうちにある」とは、イエス・キリストを信じてキリストのものになるということです。キリストがその人のうちにおられ、また、その人がキリストの救いと導きのうちにいるということです。そして、だれでも、そのような者は「新しく造られた者」なのです。
私たち人間は罪を持って生まれ、神に向かって罪を犯し続けています。そのような私たちを神様は愛し、あわれみ、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、神のひとり子であるイエス・キリストの上に私たちすべての罪のさばきを置いて、これを私たちの罪の身代わりとし、十字架で死に渡されたのです。そして十字架の死が私たちの罪のさばきの身代わりであったと信じる者には、赦しと救いを与えると約束されました。イエス・キリストの十字架の意味を信じ、受け入れた人が「新しく造られた者」と呼ばれるのです。
イエス・キリストを信じた人は、生まれながらに持っている罪の性質と、自分が犯した罪のゆえには、もはや神様からさばかれません。「新しく造られた者」だからです。それは、やがてこの地上を去る時、この体を脱ぎ捨て、天上の栄光の体を着る時、この新しい創造は完成するのです。
新しくされることは、この地上にあってはどのようなことが起きるのでしょうか。それは、私たちの生きる目的が新しくされるということです。「生きる目的はキリスト」とはっきり言えるようになるのです。
コリント人への手紙第2、5:15「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
そして2つ目に、私たちの生活が新しくなります。もはや人間的な標準で周りを見るのではなく、私を造り、私を愛し、私を救ってくださった神様にゆだねた生活、思い煩いのない生活が始まるのです。
マタイの福音書6:25,33「25だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。……33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」
3つ目に、神様との関係が新しくされます。私たちは神様の子どもとされ、神様をお父さんと呼べる関係になれるのです。
ガラテヤ人への手紙4:6「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」
17節後半「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。これは、イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で誕生され、地上を歩まれ、十字架にかかられ、復活されたことによって成就した救いの完成を言います。
イエス・キリストによって新しくされたことは、律法の支配の終わりです。律法の行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる者は、その信仰によって義と認められるという、新しい福音です。
私たちが救われたのはキリストの恵みに生きるためです。キリストにあることによって不自由さを感じたり、恐れたり、何かをしなければというような圧迫を感じるためではありません。信仰者としてもっと自由に生きられるのに、自分の力でがんばり続けてしまいます。神様は、そのようなクリスチャン生活を望んでおられるのではありません。そのようにできない私たちのために、キリストが十字架にかかってくださったのです。私たちはそのことを忘れてしまうのです。
キリストが私たちの生き方を根底から変えてくださいました。ただキリストの恵みによって生きるように教えてくださったのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」だれでもです。すでにキリストにある者は、その時に新しく造られたのです。あとは神様にゆだねればいいのです。なぜなら、イエス様が来られた時に、古い律法が廃棄され、新しい恵みの時代が始まったからです。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しく」なったのです。イエス様が、私たちにしてくださった大きな恵みを覚えて、神様におゆだねして、これからも信仰生活を歩みたいと思います。
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