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2014年3月2日 主日礼拝説教
「神の和解を受け入れなさい」(コリント人への手紙第二 5章18節〜21節)
コリント教会にいたパウロの反対者たちは、パウロのしていることをどうしても理解できませんでした。それに対してパウロは、それに答えるかのように、14節「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」のです、と語りました。そして自分は、15節「自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きている」のだ、と宣言しました。ですから、私たちはもう、16節「人間的な標準で人を判断する」ことはない。17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と語ってきました。
今日の箇所で、パウロは5回も「和解」ということばが使って、和解のメッセージを伝えます。
18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
パウロは「新しく造られる」という経験をしました。クリスチャンたちを迫害するため、ダマスコという町へ向かっていた時、復活のイエス様に出会い、それが起こりました。「新しくされること」は、18節で「神様から出ている」ことであると語りました。それはまた神様の恵みの現れでした。
さらに、「神様が私たちをご自分と和解させてくださった」と語りました。神様は、私たちをご自分と和解させるために、キリストを遣わしてくださいました。
私たち人間は、生まれながらにして罪人です。神様に背を向け、神様に敵対して歩んでいます。これは、最初の人アダムが神様との契約を破ったことに由来するのであって、その結果、人間は永遠のさばきに値する者となりました。
アダムの罪と自分はどうして関係があるのですか、と言われるかもしれません。アダムは人類の代表として造られたのであり、その代表者であるアダムの犯した罪は、私たちの中に受け継がれて、今も「原罪」として残っているのです。
神様との最初の契約を人間の側で破ってしまいました。ですから、神と和解する責任は人間にあるのです。しかし、人間には神様と和解する力がありません。それでも神様は人間を愛してくださいました。神様は、だれ一人として滅びることを望まれませんでした。その神の愛と、神の義を全うするために、驚くことに神様の側から手を差し伸べてくださいました。それが神の御子イエス・キリストの誕生でした。
キリストは罪のないお方として地上を歩まれましたが、捕らえられ、十字架にかけられてしまいました。
21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
確かにキリストは「罪を知らない方」でした。キリストは地上の生涯で、全く罪を犯されませんでした。キリストは人となられたにもかかわらず、罪に染まらなかったのです。
ペテロの手紙第1、2:22−23「22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
神様は、その「罪を知らないお方」を私たちの代わりに「罪とされ」ました。
旧約聖書の時代、イスラエルの人々は、傷のない家畜を連れてきて、その家畜の頭に手を置きました。そして、自分の罪をその家畜に負わせ、罪のためのいけにえとしてその家畜を殺し、罪の赦しをいただきました。
レビ記4:23−24「23または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼はささげ物として、傷のない雄やぎを連れて来て、24そのやぎの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、主の前にそれをほふりなさい。これは罪のためのいけにえである。」
キリストは、傷のない家畜のように罪のためのいけにえとされました。神様が、罪のない神の御子キリストを私たちの身代わりとして、私たちの罪を負わせました。私たちの罪のためにキリストが罪とされ、その罪の刑罰として十字架でいけにえとされました。それは「私たちが、キリストにあって、神の義となるためでした」
私たちは、実際に義なる者ではありません。あたかも義であるかのように見なしていただけるのです。私たちは、キリストの義によって無罪とされ、罪が赦されるのです。これが神様のみこころでした。これほどまでの愛をもって、神様は私たちを救ってくださろうとしておられるのです。
このキリストの死によって、神様は「私たちをご自分と和解させた」のでした。パウロはこの和解の恵みを受け、新しくされました。もう一度18節を読みます。
18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
そして、さらにパウロに与えられた任務は「和解の務め」でした。このキリストの十字架の福音を人々に伝え、神の和解を人々に伝えることでした。そして、19、20節で、このことをさらに押し広げて語ります。
19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」キリストの使節とは、キリストの大使と言ってもいいでしょう。同じことばがエペソ人への手紙では「大使」と訳されています(欄外注、エペソ6:20)。
大使とは、その国の元首から全権をゆだねられた者です。パウロは、「キリストからゆだねられて、神の大使として行動している」と言うのです。キリストは、パウロを通して語られます。パウロの背後にはキリストがおられます。パウロは、キリストの意思をそのまま伝達するキリストの使者、大使なのです。
パウロは「神の和解を受け入れなさい」と勧めました。それは、キリストご自身の切なる願いです。
ここに、「神が私たちを通して懇願しておられるように」とあります。この「懇願する」ということばは、百人隊長が自分のしもべをいやしていただくために、キリストにいやしを求めるときに使われていることばです。また、ヤイロという会堂管理者が、自分の12歳になる娘のために「どうぞ直してください」と願ったことばです。また、ツァラアトに冒された人がイエス様の前にひざまずいて、「お心、一つで私をきよくしていただけます」と願ったことばです。
「懇願する」ということは、「神様が熱心に願っておられるように」です。神様は、私たちと和解するために必要なことのすべてを神様の側で一方的にしてくださいました。そして、その和解を受けるようにと、神様は私たちに懇願しているのです。
私たちはただ感謝をもって、神様が与えてくださる恵みを受けとるだけでいいのです。神様が私たちのために手を差し伸べ、神様のほうから差し出してくださった「和解の福音」を受け入れなさいと、神様は懇願しておられるのです。
私たちはキリストにあって「和解の福音」を受け入れました。そのことを喜びをもって感謝したいと思います。そして、パウロの使命は教会の使命ともなりました。
テモテへの手紙第1、4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
これからも私たちは、礼拝を守り、「神の和解の福音」を聞き続けていきたいと思います。
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