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2014年4月13日 主日礼拝説教
「天の御国の市民」(使徒の働き22章22節〜30節)
エルサレムに帰ってきたパウロがエルサレム神殿にいた時、アジヤ(エペソ)から来たユダヤ人に見られ、パウロが異邦人を引き連れ神殿を汚していると訴えられて大騒ぎになりました。これに対するパウロの弁明を先回見ました。それは、弁明というよりパウロの救われた証しでした。自分が迫害してきたイエスというお方が神の子であり、私はそのお方から救いを異邦人に伝える者とされました。そこまで民衆に話してきました。
22人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言った。
パウロの弁明はここでさえぎられ、群衆はもはやパウロのことばを聞こうとしませんでした。弁明の最後は、主がパウロを「異邦人に遣わす」と命じられたことでした。そのことがパウロの口から出たとたん、ユダヤ人たちは再び怒り狂い、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と叫びました。
23そして、人々がわめき立て、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らすので、
「着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らす」行為は、当時は何か意味があったでしょうが、なぜこのようなことをしたのか、今ではよくわからなくなっています。
イエス様は弟子たちに、もしキリストを拒絶するユダヤ人者があったなら、足のちりをはらい落とすように。それは、もうあなたがたとは関係ないことを示す仕草ですが、そうするようにお話しになりました。パウロも、そのような行為をしてきました。
使徒の働き13:50―51「50ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。51ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。」
そのように、パウロはわれらユダヤ人とは関係のない者という意味で、着物のちりをはらい落としたのではないかと言われています。あるいは、ユダヤ人は悲しみや呪いを表す時に衣を裂きました。このことを表したのではないかとも言われています。
24千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れるように命じ、人々がなぜこのようにパウロに向かって叫ぶのかを知ろうとして、彼をむち打って取り調べるようにと言った。
千人隊長は、すでに取り調べをしようとしていたのですが、途中でパウロが民衆に弁明をすることになったので、取り調べが中断した形になっていました。
千人隊長が「むち打って取り調べるように」と命じたことは、当時は普通のことでした。その鞭はローマの鞭でしたから、皮でできた鞭に骨とか釘が付けてあるもので、打たれると体の皮膚や肉が裂けて、骨まで達するほどになる鞭でした。
今週は受難週ですが、イエス様も十字架につけられる前に同じような鞭で打たれました。
ヨハネの福音書19:1「そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。」
25彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。」
パウロは縛られ(「縛られる」は両手を広げさせるという意味のことばなので、新共同訳は「両手を広げて縛る」と訳しています)、兵士たちが鞭打ちにしようとする時に、今まで言わないでいた「ローマ市民」という身分を明かしました。
ローマ市民の容疑者に対して、鞭を打って尋問することが禁じられていました。ピリピでのことでした。
使徒の働き16:37「ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」」
鞭打ちを命じられた「百人隊長」は鞭打ちを中止し、即座に「千人隊長」に報告しました。千人隊長自らパウロに尋問するためにやってきました。千人隊長は、お金さえ使えば「市民権」など誰でも得られるものであって、それほどたいしたものでもない。お前もその口であろうと問いただしたのでした。
市民権を2つ持つことは認められていました。市民権を買うとは賄賂に使うお金でした。それに対してパウロは、「私は生まれながらの市民です」と答えました。どのようにしてパウロが、生まれはタルソでありながら「生まれながらのローマ市民権」も持つことができたのか。いろいろ研究がなされていますが、決定的なことは手がかりが全くないのでわかっていません。
29このため、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。また千人隊長も、パウロがローマ市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れた。
パウロのことばを聞いて、千人隊長は取り調べを中止するように命じました。彼は、自分が取り調べの規則違反をしたことを上官に伝わることを心配し、恐れました。
千人隊長は、パウロがユダヤ人たちから嫌われていることはわかりましたが、なぜなのかは正確に把握できませんでした。それで「祭司長たちと全議会」を召集して、双方の言い分を聞いて真相を解明しようとしました。パウロは鎖を解かれ、取り調べの場に連れ出されました。
パウロが神殿に異邦人を連れこんだということで騒動が始まり、このような裁判に発展していきました。騒ぎを起こしたユダヤ人たちにとって、パウロが異邦人を連れこんだというのは口実でした。パウロが異邦人を神殿には入れてなかったのは明らかでした。彼らはでっち上げて、とにかくパウロを殺してしまおうとしていたのです。
イエス様もそうでした。ユダヤの指導者たちがイエス様を殺す機会を狙っていました。イエス様が自分は王であると言っている。イエス様は、自分の国はこの世のものではない、と言っておられたのですが、それをもって、ローマに反逆しようとしている。ローマ皇帝を王として認めていないという反逆罪に仕立て上げ、十字架刑に処せられてしまったのでした。
同じようにパウロも、千人隊長たちローマ兵がやってこなければ、かつてステパノがユダヤ人から石打ちにあったように、石で殺されていたかもしれません。彼らが「着物を放り投げ」たとあるのは、石打ちをするときに上着を脱ぐことを示したのかもしれません。それほどの憎しみをパウロに持っていました。
救いは律法によって救われる。これはユダヤ人に与えられた特権でしたが、それが否定され、異邦人にも救われる道が開かれました。それは、神様の側で示してくださったことで、律法を行うことによってではなく、イエス・キリストの十字架の死が私たちの罪を赦し、救われるという道でした。
さらにエルサレム神殿ではなく、どこででも霊とまことをもって礼拝することができるようになりました。もはや神殿での犠牲もいらない、それはイエス様ご自身が犠牲となってくださったからでした。割礼も必要ない、これからは洗礼を受けるように教えられました。それらのことをパウロが全世界に広め、それを異邦人たちが喜んで信じ、ユダヤ人が信じている同じ神様に従って歩み始めていたのでした。
パウロは、「私は生まれながらのローマ市民です」と明かしました。パウロは、イスラエル民族であり、タルソの市民であり、ローマの市民でもありました。しかしパウロはピリピ人への手紙の中で書きました。
ピリピ人への手紙3:20「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
パウロはまた、ガラテヤ人の手紙3章で、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、みなキリスト・イエスにあって一つですと書きました。
キリストを信じる者たちは、みな同じ天の御国の市民、天国を国籍とする者たちです。このみことばは、クリスチャンのお墓によく刻まれます。このみことばは、イエス様が「わたしの国はこの世のものではない」と言われたその天の御国の国籍を私たちが持つ者であることを、残されたまだ生きている人たちに伝えているのです。
私たちも天の御国の市民とされました。私たちは神様によって選ばれた者であることを考えれば、生まれながらの天の御国の市民、天国の国籍を持つ者です。イエス様の受難、今週の金曜日にあった十字架を覚え、今週は歩みたいと思います。
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