ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2014年6月1日
2014年6月1日 主日礼拝説教
「神を恐れかしこんで」(コリント人への手紙第二 6章14節〜7章1節)
パウロは、キリストのしもべの姿を語り、また福音を宣べ伝えるためにどのような苦難の中にあったかを、しかし、その中でも神様の恵みがいつもあふれていたことを、4節から10節で語りました。10節で「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」と、神様への感謝をささげました。
11節から13節で、パウロはコリント教会の人々に対して、「私たちの心は広く開かれています」と語りました。
パウロはここまで語って来た時に、コリントの教会の問題について話しておかなければと思ったのでしょう。突然14節から、きよくないものから離れることについて語り始めます。
14不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
「くびき」とは、二頭の牛や馬の首のところを横木でつなぎ、畑を耕させたり荷物を運ばせたりするための道具です。
コリントの町は道徳的に退廃していました。ですから洗礼を受けたクリスチャンたちが、キリストを知る以前の不品行や偶像礼拝の生活に逆戻りしてしまうことがありました。パウロはコリント人への手紙第1で書きました。
コリント人への手紙第1、5:9−11「9私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。10それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。11私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」
パウロが「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけない」と言った背景には、コリントのクリスチャンたちが、著しく不道徳にまみれていたコリントに住み続けることによって、信仰を守り通すことが困難になっていったという事情がありました。ですからパウロは、この世の汚れから離れなければならないと迫ったのでした。
コリントでクリスチャンになることは、それほど厳しい選択でした。そのような厳しい覚悟を持たなければ、彼らの信仰を純粋に守ることができなかったのです。そういう時代でした。
このことばを、今の私たちに当てはめるとどういうことになるでしょうか。これは信仰を持たない人たちの中にあって、クリスチャンが純粋な信仰を守って生活することを教えています。この世と隔離して生活するのではなく、むしろこの世にあって闇の中に輝く光として、地の塩としての生き方が求められています。
さて14節後半から、二つのことばを対比させながら、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけない」ことを説明します。
14不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。15キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。16神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。
「正義と不法」「光と暗やみ」そして、15節の「キリストとベリアル」(「キリストとサタン」)、「信者と不信者」、さらに16節の「神の宮と偶像」と語ります。パウロの口調はしだいに強くなり、そこから、いかにコリントの信徒が大きなあわれみを受けたかを思い出させます。
私たちもキリストを信じるまで、義に飢え渇き、罪の暗闇の中をさまよっている者でした。サタンの言うなりになり、信仰もなく、神も知らず、神以外のものを信じ、より頼む者でした。それが今や、キリストにふれ、キリストの十字架によって罪を赦され、キリストの光の中を歩む者とされました。神様を信じ、神様だけを頼って歩むようにされたのです。この方以外には救いがないことを知りました。
このように、以前の生活から全く切り離された者とされた以上、もはや私たちはこの世にありながら、この世の者ではない状態に移されているのです。そこでパウロは声高らかに、「私たちは生ける神の宮なのです」(16節)と宣言します。
16神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
私たちは、生ける神の宮となりました。神の御霊が私たちに宿っているのです。
コリント人への手紙第1、3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」
16節後半からパウロは、旧約聖書の出エジプト記、イザヤ書などを引用します。モーセがイスラエルの民を率いて出エジプトした時、荒野で幕屋を作り、そこで神様を礼拝しました。そのところで神様はイスラエルと共にいてくださり、イスラエルの神となってくださいました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」これは、生ける神の宮である私たちの中に神様が住んでくださるという約束です。
ところがイスラエルが国としてまとまり力をつけてくると、いつも問題になったのは神の民が偶像礼拝に逆戻りしてしまうことでした。その時、預言者たちは、「汚れたものから去りなさい、触れてはならない」と警告を与えました。
17それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
「出て行き、分離する」ということは厳しいことかもしれませんが、そのあとに神様との深い交わりが与えられるのです。そうすれば、
18わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
のです。パウロはクリスチャン生活を次のように書いています。
テサロニケ人への手紙第1、4:7「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。」
それが次の7章1節のことばになって現れています。
1愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
「神を恐れかしこんで聖きを全うする」生涯、それは自分一人ではとうてい成し遂げられるものではありません。私たちは、「くびき」から思い出す聖句があります。それは、私たちにはくびきをいっしょにつけてくださるお方がいるということです。
マタイの福音書11:28−30「28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
私たちは疲れやすく、重荷を負いきれずにあえいでしまいます。イエス様のほうで歩調を合わせてくださることもあるでしょう。ある時は、イエス様が背負ってくださることもあるでしょう。イエス様がいっしょに歩んでくださるから、イエス様と一歩一歩、歩むことによって、私たちは聖きを全うすることができるのです。
私たちは疲れやすく、重荷を負いきれずにあえいでしまいます。イエス様のほうで歩調を合わせてくださることもあるでしょう。ある時は、イエス様が背負ってくださることもあるでしょう。イエス様がいっしょに歩んでくださるから、イエス様と一歩一歩、歩むことによって、私たちは聖きを全うすることができるのです。
私たちと共にくびきを負ってくださるイエス様を覚え、イエス様から離れないで、また一歩、歩みを進めていきたいと思います。
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