ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年6月29日


2014年6月29日 主日礼拝説教
「真理のことばを話しています」(使徒の働き26章19節〜32節)

■はじめに

 アグリッパ王の前での弁明は、パウロがイエス様に「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである』」(18節)と言われたところまで進みました。
 パウロはアグリッパ王に語りかけました。

■天からの啓示に背かず

19こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、20ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。

 こうしてパウロは、イエス様の命じられた使命を全うするため、その生涯を歩みだしました。パウロが福音を伝えることに熱心だったのは、「天からの啓示にそむかず」イエス様に従ったゆえでした。そのためにユダヤ人たちはパウロを神殿で捕らえ、殺そうとしました。

22こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。

 しかし、「私はこの日に至るまで神の助けを受け」、キリストの証人として歩むことができました。パウロは「預言者たちやモーセ」(聖書)が預言したことだけを語ってきたのであり、それはユダヤ人に当然受け入れられるべき内容でした。

23すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」

 パウロが伝えたことは、キリスト(救い主)は「苦しみを受けること」、死ななければならなかったこと、そして「死者の中からの復活」されたことでした。これはイザヤ書にある預言でした。苦しみを受けることは、

イザヤ書50:5−6「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」

 復活するということは、

イザヤ書52:13,15「13見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。…15そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」

 イエス様は光となり、救いをもたらしたことは、

イザヤ書49:6「主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」」

■気は狂っていません

 このように証ししたパウロに、突然フェストが割り込みました。

24パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と言った。25するとパウロは次のように言った。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。

 フェストが大声で「気が狂っているぞ。パウロ」と叫びました。「博学」とは、原文で「多くの学問」です。新共同訳は「お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」と訳しています。
 フェストにとって、パウロの弁明の結論部分が理解できなかったのでしょう。フェストはパウロの博学を認めましたが、それがある人にとって気が狂ったと思わせるようになる、と語ったのでした。
 パウロは、自分が決して気が狂っているのではなく、話したことは真理であり、作り話でもありませんと語りました。「私は率直に申し上げているのです」は、原文は「理性のあることばで」、新共同訳は「真実で理にかなったことを話しているのです」と訳します。私は迷信や偏見で語っているのではなく、これは真実な話であると総督フェストに答え、アグリッパ王に向かって語りかけました。

26王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。

 パウロがアグリッパに対して、最初に3節で「あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです」と言ったことと、さらにアグリッパ王に、これまでイエス様の身に起こったことと、その後の教会に起こったことを思い出させました。
 何千人もの人が一時に信仰を持って教会に加わったこと、彼らの生活がどうだったか、そしてそのクリスチャンたちがイエス様は死から復活したと信じていることなどでした。それらの情報は、ユダヤ人の王であるアグリッパ王にも、「そのうちの一つでも」届いていたはずでした。

■あなたは信じておられますか

27アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」

 アグリッパ王はこのような事実を知っているだけでなく、真実なユダヤ教徒であったならば、預言者たちの語ったことを信じていたはずです。預言者たちはキリストが来られることを預言していました。パウロは弁明によって預言書からイエスが救い主であり、人に捨てられ、十字架にかかり、よみがえることを語りました。だから、アグリッパ王よ。あなたはイエスをメシヤ、キリストと信じられるはずですと、信仰の決断を迫りました。

28するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。

 アグリッパ王は、パウロの「あなたは預言者を信じておられますか」に対して肯定してしまえば、自分もキリスト者になってしまうと気づきました。そのあと、パウロは「それでは王様、あなたはイエスをメシヤ、キリストと信じられると思いますが、どうですか」と聞くはずでした。
 しかし、アグリッパ王は預言者を信じていないとは言えなかったので、パウロの問いかけをはぐらかして、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と、追及を避けたのでした。
 パウロは、聴衆者すべてが自分と同じようにキリスト者になることを切望していると答えました。ここで、パウロの弁明は終わり、そこにいた人たちが退席しました。パウロの弁明を聞いた人たちは、パウロに有罪判決を下すことはできないと語り合いました。これは、すでに最初の裁判に立ち会った千人隊長のクラウデオ・ルシヤが総督ペリクスにあてた書簡にあったことであり、フェストも、パウロに具体的な罪は認められず、裁判は宗教のことであって、パウロはイエスが生きていると主張しているだけであり「死に当たることは何一つしていない」と断言していたのでした。
 そしてアグリッパ王も語りました。

32またアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と言った。

 ローマ総督たちはユダヤ人に気に入られようと、あえてパウロを釈放することを拒み、牢に入れたままにしてきました。アグリッパ王は、その総督たちの行ったことを知っていたでしょうが、あえてパウロの無罪と、早く釈放すべきであったことを語りました。
 しかしパウロは、それでも囚人としてローマに行くことを選びました。ローマでパウロが無罪になることは明らかでしたが、その裁判においてキリストを証しすることができ、キリスト教信者に対して、信仰のゆえに迫害しないようにという判決が出されることも期待したでしょう。

■真理のことばに対して

 アグリッパ王は、パウロの勧めに対して「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言ってクリスチャンになることを拒みました。簡単にクリスチャンになることを恥じたのでしょうか。王としての体面を気にしたのでしょうか。
 アグリッパ王はパウロに対して好意的でした。「もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と語りました。しかし、アグリッパ王は「キリスト教に好意を持っている人」、「もう少しでクリスチャンになる人」で終わってしまいました。
 信仰の決断は「真理のことば」に対する応答です。キリストの十字架と復活のことばは、今では誰もが知りうることであり、事実起こったこととして伝えられています。信仰の決断は、説明のことばが多いか少ないかで左右され、もっと勉強してから、まだ早すぎるといって伸ばすものではありません。飛び込むような決断がその人の人生を変えるのです。
 私たちの信仰の決断の時や、信仰告白をしよう、洗礼を受けようと思った時を思い出してください。みな最後の決断の一歩を「信じます」と言って飛び越えたはずです。そして今、私たちは恵みの日々を、感謝の日々を過ごしているのです。多くの人が信仰の決断の、最後の一歩を踏み出すことができるようにと願い、祈りながら今週は歩みたいと思います。


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