ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年7月6日


2014年7月6日 主日礼拝説教
「慰めに満たされて」(コリント人への手紙第二 7章2節〜4節)

■はじめに

 パウロは、6章11節で「私たちの心は広く開かれています」と語り、13節で「あなたがたのほうでも心を広くしてください」と語りました。そのあと14節から7章1節までは、話が変わって「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」(14節)、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか」(1節)と、私たちが歩む聖さについて語りました。
 そして今日の7章2節のところで、また「私たちに対して心を開いてください」と語りかけます。6章13節の「あなたがたのほうでも心を広くしてください」から、今日の7章2節に流れがつながっていることがわかります。このような展開は、コリント人への手紙第2に見られる特徴の一つとも言えます。

■心を開く

2私たちに対して心を開いてください。私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません。

 「私たちに対して心を開いてください」とパウロは語りました。「心を開く」ということばは、「場所をあける」という意味のことばです。「私たちのために、あなたがたの心の場所をあけてください。」
 このようにパウロが語る背景にはどんなことがあったでしょうか。パウロとコリントの教会の間には何があったのでしょうか。コリント教会は、パウロがキリストにあって建て上げた教会でした。コリント人への手紙第1、4章15節で、「この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです」と言い切るほど、パウロはコリント教会を我が子のように愛していました。
 しかしパウロが教会を去ってからパウロに反対する指導者が現れ、それによって分派が生じ、パウロとコリントの教会との信頼関係が悪化しました。そのためパウロはコリント人への手紙第1と、そのあと2章3節に出てきた「涙の手紙」と言われる手紙を書き、テトスに持たせました。
 パウロは、コリントの教会の人たちに自分たちの潔白を証しするため言いました。「私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません。」私たちは誠心誠意あなたがたに仕え、何一つ悪いことをしていません。どうか、そのことを思い出してください。
 そのような思いの中から、パウロはコリントの教会の人たちに「私たちに対して心を開いてください」と呼びかけます。私のことを受け入れてくれる心の場所をあけてください、と言っているのです。

■ともに死に、ともに生きる

3責めるためにこう言うのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。

 パウロは、あなたがたコリント教会を責めているのではありません、と語りました。パウロの細かい心遣いがにじみ出ています。「前にも言ったように」とありますが、これは以前、実際にコリントの教会に行った時に語ったことを言っているのでしょう。そして、次のことばはすばらしいことばです。「あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。」
 「ともに生きる」ということばはよく使われますが、「ともに死ぬ」ということばはあまり使われません。この「ともに死ぬ」と同じ原語を、聖書のほかの箇所を見ると、一つは、ペテロがイエス様に語ることばの中に出てきます。

マルコの福音書14:31「ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。」

 この、「ごいっしょに死ななければならないとしても」ということばです。テモテへの手紙第2、2章にも出てきます。

テモテへの手紙第2、2:11「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」

 これらのことばは、「キリストとともに死ぬ」ということばで使われています。
 一方、「ともに生きる」も調べてみると、1つは先ほど見たUテモテ2章11節にあります。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」という箇所です。ほかにローマ人への手紙の6章です。

ローマ人への手紙6:8「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」

 これらのことばが、「キリストとともに生きる」という時に使われています。ですからパウロが、「私たちとともに死ぬ」と言ったのは、キリストとともに死ぬことであり、「ともに生きる」と言ったのも、キリストとともに生きることを意味していました。
 キリストが私たちの罪のために死んでくださいました。そのキリストとともに私たちは罪に対して死にました。そして、キリストが3日目によみがえり、復活の新しいいのちを受けてくださいました。そのキリストとともに私たちは復活の新しいいのちに生きているのです。パウロは5章でこのように語りました。

コリント人への手紙第2、5:14−15「14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」

 3節の最後の「私たちの心のうちにある」ということばは、いつも相手のことを祈りのうちに覚えているということです。パウロは、コリント教会のために祈っていました。コリントの教会が、キリストの死と、そのいのちにあずかる者となるようにという願いでした。

■慰めに満たされる

4私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。

 パウロはテトスからの報告によって、コリント教会の様子を聞きました(テトスからの報告については次回くわしく触れることにします)。そのことを聞いて、パウロはコリントの教会が悔い改め、神様の教えに従って歩み出していることを知って大いに喜びました。
 コリント教会に対する大きな信頼がパウロの誇りでした。コリント教会に対する信頼と誇りによって、パウロは慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれていたのです。
 私は、ゆりのきキリスト教会において、慰めに満たされるという体験をさせていただいています。神様からの慰めもそうですけれども、私を支えてくださっている教会の方々から与えられる慰めも、数え出すと切りがありません。そのような慰めに満たされる体験を通して、一歩また一歩と進ませていただいています。
 私たちは、これからも心を広くし、キリストとともに生かされている者として互いに祈り合い、慰めを与え合いながら歩みたいと思います。最後に1章4節のみことばを読みましょう。

コリント人への手紙第2、1:4−5「4神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。5それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年7月6日