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2014年7月27日 主日礼拝説教
「神に感謝し、勇気づけられた」(使徒の働き28章1節〜16節)
使徒の働き最後の章に入りました。今日の箇所は、難破して上陸したマルタ島での3か月間の出来事と、ローマへ到着するまでです。
パウロたちは島に上陸してから、その島がマルタ島であることを知りました。マルタ島は地中海のほぼ中央、イタリヤ半島の先にあるシシリー島の南にあります。海洋民族であったギリシヤ人、フェニキヤ人が占領し植民した島で、その後ローマの支配に入った島でした。
2島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。おりから雨が降りだして寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなをもてなしてくれた。
「島の人々」、ギリシヤ語「バルバロイ」はギリシヤ語を解さない人たちの意味です。ギリシヤ人にとって外国の人、野蛮人を表すことばで、文語訳は「土人」と訳しています。彼らは何もかも失ってしまった人たちを、火をたいてもてなしました。この季節、この土地では10度くらいの気温ですが、船が壊れ、びしょ濡れで、早朝でもあり一層寒かったでしょう。276人の人たちが入れ替わり立ち替わり焚火(単数)にあたって体を温めました。
パウロが焚火のために集めてきた柴を火にくべると、その中から1匹の「まむし」が冬眠中だったのか、はい出てきました。まむしが「彼の手に取りついた」のでした。新共同訳は「手に絡みついた」とあります。そのあと、パウロの手をかんだのでしょう。
4島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と互いに話し合った。
島の人たちは、かつてこれと同じような状況があったことを知っていたと思われます。アフリカのリビヤ海岸に漂着した殺人犯が、まむしにかまれて殺された詩が残っています。マルタの人たちは、パウロが殺人犯であるなら船でおぼれ死ぬことは免れたが、いま正義の女神が(島の人たちが信仰していた神でしょう)毒蛇を使ってパウロを殺すと思ったのでした。
しかしパウロはこの蛇をはらい落としました。
マルコの福音書16:18「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
マルタ島の人たちは、パウロを観察し続けました。かまれて腫れてくるか、また突然死んでしまうか考えていましたが、何も起こらなかったので、彼らはパウロを全く逆の「神さま」に違いないと信じるようになりました。
かつて第1回伝道旅行で、ルステラで同じようなことがパウロに起こりました。生まれつき歩けない人をいやして、歩けるようにしたのを見たルステラの人たちが、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」(14:11)と言って、パウロとバルナバにいけにえをささげようとしたことがありました。
7さて、その場所の近くに、島の首長でポプリオという人の領地があった。彼はそこに私たちを招待して、三日間手厚くもてなしてくれた。
パウロがマルタ島に滞在していた時に、もう一つ別の奇蹟が行われました。
「島の首長」とは、ローマから任命されていた総督でした。新共同訳は「島の長官」と訳しています。パウロたちが上陸したのは、この「ポプリオ」の家の近くでした。首長はパウロたちを迎え、3日間にわたってもてなしました。
この時、「ポプリオの父」が「熱病と下痢」のため、病にふせっていました。「マルタ熱」と呼ばれる風土病であったと言われています。パウロは神様に祈り、体に手を置くことで病をいやしました。自分は「神さま」ではない、神様に祈る人間であることを示したのでした。
さらに、このことを聞きつけた島に人たちの病もいやしました。その結果、パウロたちに贈り物をし、これからの旅路に必要なものを用意してくれました。「私たち」とあるルカは医者でしたので、ポプリオの父以外の人たちは、ルカの治療があったのかもしれません。
パウロの奇蹟は、船に乗っていた人たち全員を助けるために神様が働いてくださったみわざでした。
11三か月後に、私たちは、この島で冬を過ごしていた、船首にデオスクロイの飾りのある、アレキサンドリヤの船で出帆した。
冬の間、マルタ島にいたアレキサンドリヤからの船があって、3か月後の春になって、パウロたちはこの船に乗って出帆しました。紀元59年の3月であったと言われています。パウロたちがミラから乗って難破した船もアレキサンドリヤからの船でした。
「船首にデオスクロイ」がありました。欄外注に「双子の兄弟」とあります。航海の守護神とされ、星座のふたご座(カルトルとポルクス)として星座に使われています。
12シラクサに寄港して、三日間とどまり、13そこから回って、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹き始めたので、二日目にはポテオリに入港した。
「シラクサ」はシシリー島第一の港町でした。そこから北に向かって、イタリヤ半島のつま先にある「レギオン」に到着しました。さらに南風を受けて順調に北に進み、「ポテオリ」に到着しました。ここは当時の小麦を受け入れる主要な港でした。
ポテオリにはすでに幾人かのクリスチャンたちが住んでいました。パウロたちはここで、「七日間」交わりを持ちました。その間日曜日があったでしょう。そこで久々のクリスチャンたちとの礼拝の時を持つことができました。
「こうして、私たちはローマに到着した」のでした。ローマに到着するまでのことを次の15節で語ります。
15私たちのことを聞いた兄弟たちは、ローマからアピオ・ポロとトレス・タベルネまで出迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。
ローマへの途中パウロは歓迎を受けました。ポテオリのクリスチャンたちが知らせに走ったのでしょう。2つのグループがやってきました。ローマへの街道沿いにある「アピオ・ポロ」に来たクリスチャンたちと、「トレス・タベルネ」に来たクリスチャンたちでした。
16私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。
こうして、ローマに行きたいというパウロの目的が実現しました。神様の約束が成就しました。パウロは牢屋ではなく、自分だけの家、普通の家で一人の兵士が監視する中で住むことが許されました。
パウロのローマへの思いは、第3回伝道旅行のエペソ滞在中に起こされました。紀元56年、ローマに着いたのが59年でしたので、3年以上前のことでした。
使徒の働き19:21「パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。」
パウロはエルサレムに向かっていた時、エルサレムに行けば捕まるかもしれない、苦難に会うかもしれないというクリスチャンたちの忠告を振り切って、「私は死をも覚悟している」と言ってエルサレムに上りました。事実、エルサレムで捕らわれ、裁判を受け、カイザリヤに送られ、牢に入れられ2年間を過ごしました。カイザルに上訴するというローマ市民の特権を使ってローマに行くことができるようになりましたが、船に乗り込むと、嵐にあってしまいました。
その間、パウロの願いを神様が聞いてくださり、必ずローマにたどりつけることを約束してくださいました。
エルサレムで……、
使徒の働き23:11「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。」
船の中で……、
使徒の働き27:24「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。」
ローマに到着し、兄弟たちがパウロを出迎えてくれました。最初の思いとは違い、月日もたち、囚人としてでしたが、ポテオリのクリスチャンたちも、ローマのクリスチャンたちも歓迎してくれました。パウロは、この時ほど神様の約束は確かであり、またクリスチャンたちとの交わりを感謝したことはなかったでしょう。
神様の約束を信じ続けることによって得られる祝福と恵み、またクリスチャンたちからの励ましによって得られる祝福と恵みを、私たちも同じように教会で祈り、みことばの約束を聞き、互いに励ましあうクリスチャンたちと共にいることができることを感謝したいと思います。
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