ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2014年8月3日
2014年8月3日 主日礼拝説教
「神のみこころに添った悲しみ」(コリント人への手紙第二 7章5節〜10節)
先回は、7章2―4節から3つのことばに目を向けました。2節の「心を開く」、3節の「ともに死に、ともに生きる」、4節の「慰めに満たされる」ということばでした。その3つ目の「慰めに満たされる」の詳しい事情が、今日の箇所に書かれています。それは、テトスがコリントからパウロのもとに帰って来たことによってもたらされました。
5マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
パウロはテトスに、手紙を託してコリントの教会に送りました。テトスが持っていった手紙は、2章4節にある「涙の手紙」と呼ばれるものでした。
コリント人への手紙第2、2:4「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。」
テトスがコリントでどうなっているのか、うまくパウロの気持ちが伝わったのか、その返事をパウロはエペソで待っていたのですが、なかなかテトスが帰ってきません。パウロはとりあえずエペソを出発し、船でマケドニヤ(ピリピ)に渡りました。そこで、不安で落ち着かない思いでテトスを待ちました。
6しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。7ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
パウロは「気落ち」していました。そこに、やっとテトスがコリント教会の消息を携えて帰ってきました。その知らせの1つは、テトスがコリントで慰めを受けたことでした。テトスはパウロの手紙を持っていきましたが、その手紙によって人々が悔い改めました。その報告をパウロは聞き、パウロはそれによって「慰められたのです」。
2つは、コリントの教会の人たちがパウロを「慕っている」という報告でした。3つは、パウロの手紙によって「嘆き悲しんでいること」でした。これは、コリントの人々が自分たちの罪を嘆き悲しみ、自分たちの行動がパウロを傷つけ、悲しませたことを嘆いていることでした。
そして4つに、パウロに対して「熱意を持っていてくれること」がわかったことでした。パウロが伝えた指示に従おうという熱い思いでした。パウロは、このような報告を聞いて喜び、今までの不安はすっかり取り払われ、大きな慰めを受けたのでした。
8節からは、パウロの手紙によってコリントの教会が「悲しんだこと」を語ります。一つは「神のみこころに添った悲しみ」であり、もう一つは「世の悲しみ」です。
8あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、9今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
パウロは、「あの手紙」すなわち「涙の手紙」をテトスに託して、コリントの教会に送りました。残念ながらその手紙は残っていないので、それがどのような内容であったかは知ることができません。しかしコリント教会の誤りを指摘し、悔い改めをうながしたものだったのでしょう。パウロは、その手紙を受け取った人たちを悲しませたことを悔やみました。テトスの帰りが遅れているのもそのためなのではないかと心配していたのです。
しかし今は、あの手紙を送って本当によかったと思いました。コリント教会があの手紙によって「悲しんで悔い改めた」という知らせがテトスからもたらされたからです。パウロは、コリントの教会を一時的に悲しませたけれども、その悲しみが「悔い改め」に導かれたことを知ったのでした。
コリントの教会の人たちは、神様のみこころに添って悲しみを受け止めることができました。もしそうでなければ、パウロの手紙はコリント教会を混乱に陥れていたかもしれません。パウロは、手紙を出したあとそれを「悔いた」ほどですから、激しい調子で書いたのでしょう。しかしそれによって、コリントの人たちは「何の害も受けなかった」のです。むしろ過ちから立ち直り、悔い改めに導かれたのでした。
10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
「神のみこころに添った悲しみ」ということばは、9節も10節も、新改訳聖書の欄外にもあるように「神によって悲しむ」が直訳です。神によって悲しむ、あるいは神に従って悲しむ、とも訳せることばです。
神によって悲しむこと、神に従って悲しむ悲しみは、悲しみだけで終わりませんでした。その悲しみを通して、神様は人を悔い改めに導こうとしておられるからです。「神のみこころに添った」その神による悲しみを経て、コリントの人々は悔い改めに導かれました。そして神様によって救われるという喜びに至ることができたのでした。
10節では、「神のみこころに添った悲しみ」に対して、もう一つ別の悲しみが対比されています。それは「世の悲しみ」です。コリントの人たちが神のみこころに従わないで、この世の悲しみ方をしていたらどういうことになったでしょうか。感情に駆られ、くやしがり、パウロに対しても憤りや恨みを抱いたかもしれません。その結果は「死をもたらす」ものでした。同じ悲しみでも、一つは救いに至る悔い改めに導き、一つは死をもたらすのです。なんと大きな違いを生むのでしょうか。
キリストが捕らわれた時、2人の弟子が悲しみを味わいました。キリストを3度知らないと言ったペテロと、キリストを銀貨30枚で売ったユダでした。
イエス様が捕らえられたあと、ペテロは遠く離れてついて行きました。大祭司の家の中庭で「この人も、イエスといっしょにいた」と言われるたびに、「私はキリストを知らない」「私は仲間ではない」「私にはわからない」と打ち消しました。
ルカの福音書22:61「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。」
ペテロの悲しみは「神のみこころに添った悲しみ」でした。ペテロは復活の主にお会いし、主の前で悔い改め、もう一度使徒として立ち上がることができました。しかしユダの末路はあわれでした。キリストが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を神殿に投げ込んで、自らいのちを断ったのでした。
私たち一人一人にもそれぞれの悲しみがあります。悲しみの渦中にある時は、今そこにどのような神様のみこころがあるのかわかりません。しかし、「神のみこころに添った悲しみ」であるなら、神のみこころに従って悲しんでいるなら、それが、必ずや神様の祝福に結びつけられるのです。それがみことばの約束です。
マタイの福音書5:4「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2014年8月3日