ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年8月31日


2014年8月31日 主日礼拝説教
「主は富んでおられたのに」(コリント人への手紙第二 8章5節〜15節)

■はじめに

 8章から、パウロがコリント教会に、貧しいエルサレム教会を援助するように願う箇所に入りました。信仰からわき上がる喜びと愛は、人間に常識を越えた「力以上」(3節)の力を発揮させるものです。そして、彼らがこのようにささげることができたのは、この献金が4節「聖徒たちをささえる交わりの恵み」(4節)であったことを知っていたからでした。
 マケドニヤの教会は教会の一員として、貧しくても苦しくても、その「交わり」に参加しました。彼らにとって、そのようにすることは恵みでした。ですから、ぜひそのようにさせてくださいと、「熱心にパウロたちに願った」のでした。

■恵みのわざに富む

5そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

 彼らは、パウロたちの「期待以上に」ささげました。「期待以上に」とは献金の額ではありません。彼らの、まず自分自身を主にささげるという全き献身の思いにふれて、パウロは驚くばかりに感激したのです。
 マケドニヤの教会はささげ物をしましたが、それは「神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ」るという献身の思いから出たことでした。そのようなすばらしい信仰を見たパウロは、同じことがコリントの教会にもあってほしいと願いました。

6それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。7あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

 コリント教会は、マケドニヤの諸教会のように激しい迫害を受けることがありませんでした。それだけ経済的には豊かに恵まれていたと言えます。しかしその反面、コリント教会はさまざまな問題に巻き込まれ、大変な目にあいました。
 パウロはそのような問題ばかりの、また困難の中にあるコリントの教会にもあふれ出る神様の恵みを数えました。あなたがたは、「信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、そして愛にも富んでいる」と。これほど富んでいるあなたがたに勧めます。「この恵みのわざ(ささげること)にも富むようになってください。」

8こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

 コリント教会には裕福な人が多くいたようですから、パウロが願えばたくさんの献金がすぐに集まったかもしれません。しかしパウロは、動機を重んじました。「愛の真実」をもってささげることができるかどうかでした。
 献金に応じることは「恵みのわざ」の一つです。それが強制であるならば、何も「恵みのわざ」とはならないでしょう。それでパウロは「私は命令するのではありません」と語りました。
 パウロは、マケドニヤのクリスチャンたちが貧しい中から惜しみなく施しているありさまを紹介し、それを聞いてコリント教会の「愛の真実」を示してほしいと願っているのです。パウロは続けて、その「愛」の基となるキリストの恵みを語ります。

■主は富んでおられたのに

9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 9節は訳されていませんが、「なぜなら」ということばで始まります。「なぜなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っているからです」となります。
 コリントの教会の人たちが示すことのできる「愛の真実」は、コリントの教会の人たちが「私たちの主イエス・キリストの恵みを知って」いるから、その恵みによって知ることができた、神の愛によるとパウロは語ります。
 このイエス・キリストの恵みについて、パウロはこう語りました。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
 「主は富んでおられたのに」。イエス様は富んでおられました。それは神としての天における栄光と尊厳でした。
 「主はあなたがたのために貧しくなられました」。イエス様は貧しくなられました。それは、私たちのために人の姿をとり、それだけではなくしもべの形を取り、十字架の死に至るまで従われたのです。ピリピ人への手紙にはこうあります。

ピリピ人への手紙2:6−8「6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 「キリストは神の御姿である方なのに」。これは、キリストがこの地上に来られる前の本来の姿を示しています。「富んでおられた」キリストのお姿です。その神であるキリストが、「神のあり方を捨てられないとは考えず」人間となってくださいました。
 「神のあり方」とは、キリストが本来持っている神の御力、栄光、権威のことです。御子キリストは、神であることをただ一つのあり方とは考えないで、人間への愛のゆえにそれらを捨てて人間と同じありさまになってくださいました。
 そして「ご自分を無にして」とあります。これは、キリストが神としての特権を捨てられたということです。神の地位から降りたことを言っています。神であるキリストが、人となるためにご自分を無にされました。神でありながら人となられました。神であるという本質は変わっていないのですが、神の地位から降りられて「仕える者の姿」をとってくださいました。
 神の御子キリストはマリヤから生まれ、人間の体をご自身の体となさいました。キリストは、罪の性質以外はすべての点で私たちと同じようになられました。
 キリストは「人としての性質をもって」おられました。キリストはまことの神であられましたが、同時にまことの人となられました。人間の赤ん坊として生まれ、成長し、子どもから青年になり、大人になっていく。その中で、私たちと同じように試みに会われ、私たちの弱さを知ってくださいました。
 さらにキリストは、ご自分を卑しくされ、従順に仕える者となってくださいました。その従順さの行き着くところが、実に「十字架の死」でした。飼葉おけの誕生から始まり「十字架の死」に至るまで、キリストは従順に仕える者としての生涯を送られました。
 神であられるキリスト、富んでおられたキリストが十字架の死に至るまで、ご自分を捨てて貧しくなって私たち人間に仕えてくださったのは、私たちを救ってくださるためでした。「キリストの貧しさによって富む者となるため」でした。私たちの罪を引き受けて、私たちを罪から解放してくださり、神の子どもとされる特権を与えてくださるためでした。

■恵みに感謝する

 このようなキリストの恵みを受けた人はだれでも、またその恵みに感謝する人はだれでも、人から命令されてではなく、自ら進んで恵みのわざに励むようになるのです。主へのささげものは愛と恵みの現れです。
 パウロが9節でこのように語ったのは、コリントの人たちが主イエスからどのような恵みを受けているかを思い起こさせるためでした。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」ここから「愛の真実」が生まれてくるのです。マケドニヤの教会の人々が極度の貧しさにもかかわらず惜しみなく施すことができたのは、このような恵みを知っていたからでした。
 私たちもきょう、「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」ということばを聞きました。私たちは、キリストの十字架の恵みによって富む者とされました。私たちができることは、その恵みに感謝して、私たち自身を主にささげ愛の真実を表すことです。
 私たちは、今週も私たちのために貧しくなってくださった主イエス・キリストを覚えつつ、またキリストの貧しさによって富む者となったことを感謝しつつ、喜びをもって歩み出したいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年8月31日