ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年10月5日


2014年10月5日 主日礼拝説教
「救い主なる神を喜びたたえます」〜イエス・キリストの生涯5. マリヤのエリサベツ訪問〜(ルカの福音書1章39節〜56節)

■はじめに

 前回は、「イエス・キリストの生涯」の4番目として、マタイの福音書からヨセフへの告知を見ました。マリヤが聖霊によって身重になったことを知ったヨセフは思い悩みました。そこに主の御使いが夢の中で現れて、マリヤを妻として迎えるように、生まれてくる男の子、救い主として神が遣わされたイエス様の父親となるように告げたのでした。ヨセフはそのことを、信仰をもって受け入れました。
 イエス・キリストの誕生は、インマヌエル、「神様が私たちと共にいること」が見える形で実現した出来事でした。
 今日はルカの福音書に戻って、マリヤのエリサベツ訪問です。マリヤがエリサベツのところに訪問しているこの間に、前回のヨセフへの告知があったと思われます。

■エリサベツの祝福

 マリヤは、ガブリエルが告げたとおりにみごもってからすぐに親類(36節)の「エリサベツ」を訪ねました。

39そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。40そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。41エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。

 マリヤがザカリヤの家にたどりつき、あいさつをした時に、エリサベツはマリヤの胎に子どもがすでに宿っていることを知りました。その時エリサベツのお腹にいた子どもがおどりました。おなかの赤ちゃんが動くことはごく普通にあることです。すでにエリサベツの胎内には6か月をすぎた赤ちゃんがいました。この時エリサベツは胎内の子どもが動いたことを、その子どもが、まだ生まれていないヨハネが喜んでいると感じました。
 エリサベツは「聖霊に満たされ」、マリヤの赤ちゃんが「私の主」であり、マリヤは「私の主の母」であることを認めました。

43私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

 エリサベツは、マリヤの子どもが救い主となるお方であり、私も信じますと告白したのです。

44ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

 まだ生まれていないヨハネが胎内で「喜んでおどりました」とありますが、実際には、バプテスマのヨハネは大人になって、救い主の前触れを告げる預言者となっても、イエス様が救い主であることがわかりませんでした。

ヨハネの福音書1:32−33「32またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。33私もこの方を知りませんでした。」

ルカの福音書7:19「すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と言わせた。」

 エリサベツの「私の胎内で子どもが喜んでおどりました」ということばは、エリサベツの信仰の表れでした。ヨハネも主のために働く人になるように神様が選び導いてくださっているとエリサベツは信じました。これはエリサベツのヨハネに対する預言的ことばであり、そうなってほしいという祈りのことばでもありました。

45主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 年長のエリサベツがかなり年少のマリヤに、妬みもなく、純粋にへりくだって、神様が大きな祝福を与えたことをほめたたえました。エリサベツは、幸いな人とはマリヤ個人だけでなく、神のことばを聞き、それを信じまた守る人であることを知っていました。

■マリヤの賛歌

46マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

 ここからは「マリヤの賛歌」と言われているものです。ラテン語の「あがめる」から、「マグニフィカト」と呼ばれます。
 エリサベツは「大声をあげて言った」とありましたが、マリヤはただ「言った」です。マリヤはエリサベツに答えて言ったのではなく、静かな、独り言のような祈りに似たことばでした。それは感謝と賛美であり、また預言的な内容でした。
 「あがめる」とは、神様を大いなるお方とすることです。人間の思いでは測り知ることのできないことをなさる神様への賛美と信頼、服従の思い、それが「神をあがめる」ことです。人間の小さな思いではとらえることのできない、神様のみわざ、約束、それらすべて知り尽くすことができなくても、絶対的な信頼をもって神様におゆだねしよう。それがマリヤの賛歌の歌いだしでした。
 パウロも神様のみわざをこう歌いました。

ローマ人への手紙11:33、36「33ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。……36というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

47わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

 「わが救い主なる神」と言って、マリヤは自分も救い主を必要としていたことを告白しました。マリヤはなぜ神様をあがめ「喜びたたえる」かが、48節以下で語られます。

48主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。49力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。

 だれからも注目されない、期待されない存在である自分が、今神様によって選ばれ用いられようとしている。これが主をあがめ喜ぶ理由でした。マリヤは自分のことを「卑しいはしため」、女奴隷と言って自分をへりくだりました。そのような者に主は目を留めてくださいました。
 それは、38節の「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」」と神様に表明したことでした。その信仰によって、「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」。神様は、あえてそのような者に目を留め、救いのみわざをなさるのです。

■神のみわざ

49(力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。)その御名は聖く、50そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

 49節後半から、マリヤの賛歌はマリヤ個人の神様への感謝から、神様がしてくださる普遍的なみわざをほめたたえます。マリヤは、神の聖さ、あわれみを、さらに敵へのさばき、救い主がどのようなことをなさるのかを預言的に語りました。

51主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、52権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、53飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

 神様は卑しいはしために注いだまなざしとは反対に、この世の高きもの、「高ぶっている者」「権力ある者」「富む者」に厳しい目を注がれます。人間の世の決定権を持っているのは、また救われるのはこれらを持つ者ではありません。
 マリヤは神様が人間的価値観を全く逆転されることを語りました。「飢えた者」「低い者」も引き上げられる社会。神様は人の思いと、社会の秩序を覆されます。救い主が来られることによって、人は自分自身の中に何一つ救いうるものがないことを知らされるのです。

54主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。55私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

 ここからマリヤは、ご自分の民に対する神様の救いを歌いました。そのみわざはアブラハムに対する神のあわれみの継続であり、神様が約束されたことの成就でした。
 しかしマリヤの信仰は、預言はわが民イスラエルの救い主ではなく、「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」という個人的な救いと、「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者」という全世界的な救いを見ていました。

■弱い者への福音

 マリヤは、救いは主のあわれみよることを告白しました。福音は貧しい者へ、弱い者へ、神様のあわれみによって届けられます。

コリント人への手紙第1、1:27「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」

 マリヤが賛美したように、私たちも主のあわれみによって救われました。すべてを支配される神様の不思議なみわざです。マリヤの賛美に合わせて、私たちもきょう神様をあがめ、神様を喜びたたえたいと思います。


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