ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年10月26日


2014年10月26日 主日礼拝説教
「わたしが示す地へ行きなさい」(創世記11章27節〜12章9節) 小町継太長老

 今日は、アブラハムの信仰から学びたいと思います。
 アブラハムは、まずは、イスラエル民族の父、共通の先祖と考えられている人物です。アブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブ、それからイスラエル民族が生れ、その後の旧約聖書の歴史に登場します。その中から、ダビデ王が生れ、さらにはイエス様まで系図がつながっていく、ということは、1ヶ月ほど前に説教でもふれた、マタイの福音書の最初の系図にある通りです。その系図のスタートも、アブラハムです。
 さて、そのアブラハムですが、彼はどういう人物でしょうか。聖書に書かれた内容から、その人物像を考えてみます。
 まず、この頃はアブラハムではなく、アブラムという名前ですが、今回はアブラハムの名前で統一してお話しします。ちなみに、アブラムという名前がアブラハムに変えられたのは、17章5節に記事があります。
 まず、11章にはアブラハムの家族が記載されていますが、とりあえず3人だけ確認したいと思います。

27これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。

 まずはアブラハムのお父さんであるテラ。そして、アブラハムの兄弟であるハランの子であるロト。アブラハムにとっては、兄弟の子ども、甥に当たります。

29アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。

 そして、アブラハムには奥さんがいました。名前はサライ。この奥さんは美人であったようです。今日読んだ聖書箇所の少し先、12章10節以降にアブラハムの家族がエジプトにいく話があるのですが、そこで、奥さんが美人過ぎるので、そういう美人の奥さんを連れていると土地のものにねたまれてひどい目にあうかもしれない、と心配するというくだりがあります。アブラハムにとって、美人でかわいい、大切な奥さんだったのでしょう。
 しかし、30節にある通り、サライは不妊の女で、子がなかった、とあります。

30サライは不妊の女で、子どもがなかった。

 望んで子どもができない、ということは、現在でももちろん残念なことで、多くの人が不妊治療などで苦労されている、ということはご存知の通りかと思います。ましてやこの時代、子どもがいない、ということは、今とは比べ物にならないくらい悲しいことでした。それもあってか、アブラハムは、先ほど話しました自分の甥のロトをかわいがっていたようです。跡取りにしたい、という思いもあったのかもしれません。

 さて、そのようなアブラハムと、お父さんのテラの家族は、カルデヤ人のウル、というところに住んでいました。この地が現在のどこにあたるのかは、いろいろな説があるようですが、メソポタミアの南部か北部かに当たるといわれているそうです。現在の国名でいえば、イラクかシリア、最近、「イスラム国」というテロ組織が勢力を伸ばしている、ちょうどそういった地域にあたります。当時、そこはいわゆる異教の地でした。ヨシュア記24章2節には、

ヨシュア24:2「ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。」

とあり、ほかの神々に仕えていた、と書かれています。偶像崇拝、特に月の神の信仰が盛んな地であったと言われています。そのような環境の中で、アブラハムの家族は過ごしていました。
 そんなアブラハムと家族に、どういうわけか神様は目を掛けてくださった。もちろん、アブラハムに、神様に従おうとする素直な信仰があったということはあるのでしょう。しかし、アブラハムも最初から完璧な信仰者であったわけではありません。今日詳しく見ることはできませんが、アブラハムは、創世記の先の箇所を見ますと、信仰者としての姿を見せると共に、さまざまな失敗もやらかします。しかしそのようなアブラハムを神様は選んでくださり、祝福してくださったということ、ここに、神様の一方的な恵みを見ることができます。私たちも、神様にとって見るべきものがあるから救われたのではなく、神様からの一方的な恵みのゆえに救われた、ということを覚えたいと思います。

 さてそのようなカルデヤのウルから、アブラハムやお父さんのテラなど、家族が出発します。

31テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。

 目指す目的地はカナン、現在のイスラエルです。彼らがカルデヤのウルを離れ、カナンの地を目指そうとしたのはどうしてなのか、聖書のこの部分にはそのことが詳しく書かれてはいませんが、新約聖書にそのことが書かれています。

使徒7:2−4「2そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、3『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。4そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、」

 この箇所は、ステパノが殉教する前に語った説教の部分ですが、カルデヤのウルにいたときにも、神様が現れて、アブラハムたちを導いた、と語られています。そのような神様の導きに従って、アブラハムたちは先祖代々の土地を離れ、神様の導く地へと旅立ったのだと思います。
 しかし、カナンへの旅は、途中で打ち切られてしまいます。カナンに向かう途中の、ハランという地に、どういうわけかこの家族は住みついてしまいます。ハランは現在のトルコ南東部にある地域ですが、ゴール地点であるカナン、現在のイスラエルですが、そこから見ると1000km近く離れた北東にあります。そこにしばらく住み着いて、結局アブラハムの父のテラはそこで死んでしまいます。

 アブラハムはどのような気持ちでこのハランで暮らしていたのか。聖書は明確に語ってはいませんが、神様の導きでカナンに向かっていたのに、目的地に着かずに住み着いてしまっていることに、内心じくじたる思いがあったのかもしれません。そんな時に、神様が、今度は明確に、アブラハムを導くために現れてくださいます。

1主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 あなたは、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを祝福しよう。
 この導きに従って、アブラハムはカランを出発することを決意します。長年住み慣れた地を離れ、父を離れ、神様の導きに従って、神様の示される地へと向かいます。その時、アブラハムは75歳です。

4アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

 現代風の言い方で言えば後期高齢者です。もっとも、アブラハムは175歳まで生きた、とも書かれていますので(25章7節)、今の年齢の感覚とはちょっと違うのかもしれませんが、それなりの高齢であったとは言えると思います。さらに、アブラハムには子がいませんでした。そんな子のない自分に、神様は自分を「大いなるもの」(2節)とし、「全ての民族はアブラハムによって祝福される」(3節)とまで言って、様々な祝福を約束してくださいました。全く信じられないような約束だったかもしれません。しかし、そのような年齢、そのような状況でもなお、神様の導きに従って、行方も知れぬ地に向かおうとすることに、アブラハムの確かな信仰を見ることができるのではないでしょうか。

 先が見えない時、これからどうなるかわからない時、そういったことは皆さんもいろいろご経験あるのではないかと思います。不安定なこの現代において、これから先この世界はどうなっているのか、今よりよくなっているのか、悪くなっているのか、全く見通せない、そういうこともあるかもしれません。また、日々の生活の中で、いろいろ先が見通せない、不安な中に置かれる時というのはあるのではないかと思います。
 私自身も振り返ってみますに、いろいろそのような経験がありました。子どもの頃にいじめを受けた経験もありますし、親の離婚と再婚、進学、就職、結婚、子育て、などなど。特に、就職の時ですが、私は1996年3月に大学を卒業したのですが、ちょうど第2次ベビーブームの一番人数の多い年代で、また世間的にはバブル崩壊後の「就職氷河期」という言葉が使われ始めた頃でした。今でこそ大学は学生の就職指導を熱心にやってくれるようになりましたが、その当時は、田舎の大学の文学部にいたということもありますし、そんなことは全く期待できないわけです。一人暮らしでもありましたし、非常に不安な中で、サークルの友人などに資料請求ハガキの書き方などを聞いたりしながら、手探りで就職活動を行っていたわけです。就職活動の際は「自己分析」をしろ、なんていうことを言われたもんですが、初めて聞く言葉ですし、そんなことを全く考えたことが無い学生が、急にそんなことを言われても、やり方がわからなくて困ってしまうわけですね。いきなり「ナンバーワンでなくていいから、もっともっと特別なオンリーワンを目指しなさい。それが世界で一つだけの花」なんて事を言われても、特にこれといった個性の無い人間なんかは、途方に暮れてしまうわけです。そうやって挫折して、自分探しの旅に出たりするような、そういう世代であったわけですが、まあともかく、そんな感じですので、大学4年の夏ごろになっても、全く手ごたえが無いわけですね。もちろんはじめての経験なわけですし、調子やカンなんてものはわからないわけです。いろいろとあせってきたりもするわけですが、あるとき、母教会の牧師にチラシを渡されて、東京基督教大学、名前だけは知っていたけど内容はぜんぜん知らなかった、特に興味も無かったわけですが、その事務職員を募集している、という話を聞いて、応募して、採用され、今に至っているわけです。終わってみて振り返れば、それが神様の最善の導きであったとわかるわけですが、途上にいるときはそれがわからない。 結婚の際もそうです。30近くまで全くそういう気配が無くて、このまま独身で一生を終えるのかと思っていたりもしました。今振り返れば、最善の神様の導きがあったとわかるわけですが、そこに至るまではそれがわからず、不安の中にいるわけです。
 そういう時、私たちは、自分の考えや経験に頼ってしまいます。それももちろん大事だと思います。あるいは周囲の人にアドバイスを受けたりすることも大事でしょう。しかし、そういう時、どこに行くのかわからないけれども、神様が導いてくださっているんだ、神様の導きだから、それに従っていくんだ、という、アブラハムが、神様の導きだけに従って、長年暮らしたカランを出発し、見ず知らずのカナンへと出かけていく、そういう信仰の姿勢を見習いたいと思います。先が見えない時こそ、神様がきっと素晴らしい祝福の地へと導いてくださっているんだ、という信仰を保てるようになりたいと思わされます。

5アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

 さて、5節に「カナンの地に入った」と、簡単にカランからカナンに着いてしまっていますが、その間の距離は先ほどもちょっといいましたが、1000kmあるわけです。最近は便利で、インターネットの「Googleマップ」で検索できるのですが、車で行くと、渋滞無しで12時間35分かかるそうです。もちろん当時のことですから、1000kmも離れていれば全く離れた地ですよね。ましてや、アブラハム一人の旅行ではなく、家族、奥さんのサライやおいのロト、財産や召使なんかも連れて行くわけです。一族の大移動ですね。いろいろな苦労もあったことだろうと思いますが、ようやく神様の約束の地、カナンに着いたわけです。

 カナンに着いて、神様が現れ、アブラハムに再度約束をしてくださいます。

7そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

 子の無いアブラハムに、「子孫にこの地を与える」という約束をしてくださったわけです。
 ここでアブラハムが行ったことは、祭壇を築き、祈る、ということです。ここだけではありません。8節ではまた移動するわけですが、そこでもアブラハムは、祭壇を築き、祈りを捧げています。

8彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

 この当時のカナンの地はどういうところであったのでしょうか。豊かな、いい土地だったわけですが、そういう場所が誰にも手付かずで残っていたわけではなく、6節にあるように、カナン人がいたわけです。先住民がいて、そして、先住民は本当の神様を礼拝していたわけではありませんでした。アブラハムがもともと住んでいた地も、偶像礼拝の盛んな土地だったわけですが、神様の導きできたカナンの地も、偶像礼拝の地であった。そういう地で、アブラハムは祭壇を築き、神様に感謝の祈りをささげたわけです。

 以上アブラハムの信仰の姿を見てきました。先が見えない中にあっても神様の導きに従い、そして導かれた地で神様に感謝をささげる。このような姿勢から、私たちも学びたいと思います。アブラハムが偶像礼拝の地で信仰を貫いたように、私たちも、本当の神様のことを信じない人が多いこの日本で暮らす中、神様の導きを信じて、それに従い、感謝の祈りを日々ささげる、そのような信仰のあり方にならいたいと思います。

 お祈りします。
 天の神様。今日もまた、み言葉から私たちにお示しくださいましたことを感謝します。今日はアブラハムの信仰から学ぶことができました。様々な不安なこと、先が見えないことがありますが、そのような中、私たちに、進むべき道をお示しください。私たち一人一人が、神様の導きを知り、アブラハムのように、神様の示されるところへ、導きのままに進んでいくことができますように。そして、進んでいきましたところで、いつも神様への祈りをささげることができますように。祈りの生活を送ることができますように、私たち一人一人を助けてください。
 今日のみ言葉を心に蓄え、日々生活していくことができますように。感謝して、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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