ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年11月9日


2014年11月9日 主日礼拝説教
「あなたの御救いを見たから」〜イエス・キリストの生涯9. イエス・キリストの宮詣で〜(ルカの福音書2章21節〜38節)

■はじめに

 ヨセフとマリヤは住民登録をするため、ガリラヤの町ナザレからベツレヘムにやってきました。ベツレヘムの家畜小屋でイエス様が誕生され、その知らせを御使いから聞いた羊飼いたちが、飼葉おけに寝ておられるイエス様を探し当てました。イエス様が生まれて8日目の出来事が今日の箇所になります。

■割礼を受ける

21八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。

 すべてのユダヤ人の男の子は、生まれて8日目になると、旧約聖書の律法にあるとおり割礼を施されることになっていました。ヨセフたちは、8日目ではまだ遠くに行くことができないのでベツレヘムにとどまっていたと思われます。ヨセフたち一家は、イエス様が生まれた家畜小屋から出て宿屋に移ったか、あるいはどこかベツレヘムに家を借りて何か月か、もしくは何年か住み続けたと思われます。この間に、マタイ2章にある3人の博士たちが東方からベツレヘムの家に尋ねてきました。
 さてイエス様がお生まれになってから8日目のこと、近くのユダヤ教の会堂に行って割礼の式をしてもらい、御使いから告げられたとおり、幼子は「イエス」と名づけられました。「神は救い」という意味の名前でした。

■エルサレム神殿

 イエス様が生まれてから40日たちました。お産のあと、母親はきよめの期間を過ごさなければなりませんでした。男の子が生まれた場合は40日、女の子の場合は80日たった時に、母親は神殿に詣で、ささげ物をしてきよめの儀式を受けるのでした。それらの詳しい規定は、旧約聖書のレビ記12章などに書かれています。
 また、最初に生まれた男の子は神様にささげるとされていました。ですから「きよめの期間」である40日が過ぎた時に、マリヤ自身のきよめの儀式と、イエス様を神にささげる儀式をするために、両親はエルサレム神殿に行くことになったのでした。
 ベツレヘムからエルサレムまで約8キロ。両親は、エルサレムの神殿まで幼子を連れて出かけました。当時のエルサレム神殿はヘロデ大王の命令によって建てられた壮大な神殿で、まだ建築工事の途中でした。そこに詣でたヨセフたち家族は、犠牲のささげ物をしました。

■シメオン

 ヨセフとマリヤが幼子イエスを抱いて宮に入ると、一人の老人が近づいてきました。

25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

 シメオンは信仰の厚い敬虔な人物でした。彼は、長いことキリストの誕生を待ち望んでいて、キリストに会うまでは決して死なないという聖霊のお告げを受けていました。
 その日、シメオンは聖霊に導かれて神殿に入って来ると、神様の約束がついに実現したことを知りました。シメオンは喜びにあふれて幼子イエスを腕に抱き、神様をたたえました。シメオンは幼子イエスを抱きながら、私の目が神様の救いを見たと歌い出しました。

29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。30私の目があなたの御救いを見たからです。

 これは「シメオンの賛歌」と言い、最も古い讃美歌の一つとなっています。シメオンは幼子を抱きながら語りました。自分は神様の御救いであられるキリストにお会いすることができた。今こそ自分は平安を得たと。
 自分はやがて死ぬことになるが、いま自分が抱いている幼子もやがて死ぬ。しかしこの幼子の死は、私たちにまことの光をもたらしてくださるもの、罪の救いを与えてくださるものであると歌いました。
 自分は安らかに去ることができる。それは、今抱いている幼子の生涯と十字架の死が、この私シメオンのためでもあると信じることができたからでした。生まれたばかりのイエス様が、やがてまもなく死を迎えるシメオンに、今まで生かされてきた意味と、安らかな喜びと確信を与えてくださったのでした。
 シメオンは喜びの賛歌を歌ったあと、母マリヤに、この幼子イエスがどのような死に方をするか、そしてそのためにマリヤが母親としてどんな悲しみを味わうかを語りました。

35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」

■アンナ

 もう一人アンナという女預言者がその場に居合わせました。36節にあるように、アンナは7年間夫と暮らしましたが、その後やもめとなり、今は84歳になっていました。そして「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神様に仕える」生活を送ってきました。
 そのアンナが、シメオンと同じ時に神殿に来て幼子イエスを見ました。アンナは救い主イエス・キリストを自分の目で見ることができ、神様に感謝をささげました。アンナにとっても、幼子イエス・キリストは自分を罪から救ってくださるお方、救い主であったのでした。

■安らかにさらせてください

 シメオンは、救い主イエス様にお会いすることができたことによって、「安らかに去らせてください」と言うことができました。アンナもそうだったでしょう。
 私たちは、人生の終わりに近づいた時に、何をもって安らかに去ることができると言えるでしょうか。今まで楽しい人生を送ってきたでしょうか。またはつらい人生を過ごしてきたでしょうか。また若い人たちは、何を基としてこれからの人生を歩んでいこうと考えているでしょうか。それらはさまざまですが、みな一人一人に与えられた人生です。
 聖書は、救い主を見ることによって「私は安らかに去ることができる」と言える人生があると語ります。自分を罪から解放してくださるお方に出会う。自分のような罪人を、変わらぬ愛をもって見守ってくださるお方にお会いすることができる。そのような生き方があると知ったら、私たちの人生は確かに変わっていくでしょう。
 伝道者の書にこのようなみことばがあります。

伝道者の書12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」

 人生の若い日に神様を覚えることのできた人は幸いです。

詩篇90:10,12「10私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。……12それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」

 年をとって、神様を覚えることの大切さを歌っています。
 シメオンのこれまでの人生については、何を成し遂げたとか、どんなに役に立ったかとか、具体的なことは何も書き記されていません。25節にあるように、「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」と書かれているだけです。
 シメオンの人生の目標は「救い主を見る」ことでした。主のキリストを見るまでは、決して死なないというお約束をいただいていたからです。その約束を一心に見つめて歩んだ人生でした。
 日々イエス様と歩むことの幸せ。そして、私たちが人生の最後に、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」と言うことができたら、何と幸いなことでしょうか。それぞれが神様に与えられた人生を、これからも神様とともに歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年11月9日