ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年12月28日


2014年12月28日 主日礼拝説教
「私の愛する子」〜イエス・キリストの生涯15. イエス・キリストの受洗〜(マタイの福音書3章13節〜17節)

■はじめに

 イエス様は、大工の息子として30歳まで両親に仕えて成長されました。いよいよ定められた神の時、イエス様の公生涯の幕が開きます。まずバプテスマのヨハネが登場しました。公生涯の最初に、イエス様はヨハネから洗礼を受けられました。

■ヨハネから洗礼を受ける

13さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。

 イエス様は自分の育ったガリラヤのナザレから、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の(ベタニヤ)にやって来られました。「ガリラヤ」のナザレからヨルダン川までは2、3日の道のりです。

14しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

 ヨハネはイエス様に出会ったとたん、このお方こそ自分が道備えをして待っていたお方であることがわかりました。そのように神様がヨハネに示されたのでしょう。ヨハネは、イエス様の申し出を断りました。
 イエス様には悔い改めの洗礼を授ける必要がないことがわかりました。ヨハネはイエス様に洗礼を授けることができない。むしろ「私こそ、あなたから洗礼を受けるはずです」と言いました。

15ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

 聖い神の御子がどうして、ヨハネが説く「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ」を受けたのでしょうか。あえてイエス様は、それを強く願われました。
 「今はそうさせてもらいたい」は「そうしなさい」、今しなさいという意味です。それは、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」という理由からでした。
 「私たち」とは2つの意味がありました。まずイエス様とヨハネです。イエス様はヨハネの役割を認め、自分がヨハネの指し示した救い主であることをヨハネに伝えました。
 そして、さらに「わたしたち」と言って、イエス様はすべての罪の悔い改めをする者たちの側に立たれました。イエス様は私たちと同じようになられたのです。
 私たちのために罪ある者のようになられたイエス様は、私たちと同じ罪人のひとりとなってくださいました。公生涯の最初に、ご自分を罪人の一人として位置づけられたのです。ヨハネはイエス様のことばに従い、イエス様に洗礼を授けました。

■御霊が下る

16こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

 「天が開」かれたと受身形が使われています。神様が天を開かれたことを示しています。イエス様はこの時、聖霊を受けられました。これは、これからのイエス様の生涯が聖霊によって導かれていくことを、また神の御霊の働きを行う力を持たれたことを示していました。

■ルカの福音書から

 この箇所をルカはこう記します。

ルカの福音書3:21−22「21さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、22聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」」

 ルカの福音書では、ナザレから出てきたこと、ヨハネとの問答、ヨハネから洗礼を受けられたことが省かれています。またルカだけの表現として、イエス様が「祈っておられる」時に聖霊が下ったとあります。ルカの福音書は、祈りの人であるイエス様を描いているのが特徴です。
 たとえば、12弟子を選ぶ時、祈ってから選ばれました。
 イエス様が弟子たちにご自分はだれだと言うかと尋ねられた時、イエス様は祈ってから尋ねられました。
 高い山に登ってイエス様が光り輝く御姿に変わっていかれた時、イエス様は祈っておられました。
 十字架で、イエス様は「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。

■しもべとしての生涯

17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 天からの声はイザヤ書の預言を反映しています。

イザヤ書42:1「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」

 この時イエス様は、イザヤの預言した「しもべ」としての生涯を歩み始めました。イエス様がしもべのように歩もうとしている生涯を神様は喜ぶというのです。しもべの生涯とは、イエス様が受難の道を歩み、十字架にかかっていく歩みでした。それは私たちの罪のためでした。
 その生涯を神様はご存じで、それを喜び、それはわたしの思いであり、わたしの計画であるとおっしゃったのです。人として、しもべの生涯を歩み出そうとするイエス様に対する、神様の承認のことば、派遣のことばでした。
 父なる神様はイエス様を御子と宣言され、聖霊なる神様が下られました。イエス様の公生涯は、父なる神様と御霊なる神様との深いかかわりの中で始められました。

■ヨハネの福音書から

 ヨハネの福音書1章ではこう記します。

32またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。33私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』34私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

 ヨハネの福音書は、聖霊が下るだけではなく「その上にとどまられる」と表現しています。水のバプテスマ、悔い改めによるヨハネのバプテスマではなく、もっとすばらしい聖霊のバプテスマを授けることができるお方として紹介しています。
 ヨハネは、イエス様が洗礼を受けるために来られた時、このようにイエス様を紹介しました。

29その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

 「神の小羊」とは、過越の小羊のことであり、それがイザヤの預言したしもべの姿でした。
 イエス・キリストは神の子でしたが、人の姿となってこの世に来てくださいました。ほふり場にひかれていく過越の小羊のように、黙々と十字架にかかられました。それは私たちの罪の身代わりの死でした。

■神の子とされている私たち

 私たちは、神様から信じた時にイエス様と同じように御霊をいただきました。私たちは父なる神様を、私たちを子としての身分を与えるため、「アバ、父」と呼ぶことができる御子キリストの御霊を私たちの心に遣わしてくださいました。私たちはどのような罪の中、汚れの中、苦しみの中にあっても、神の子とされ、神様によって愛されていることは変わることはありません。
 私たちが神の子と呼ばれるようになるために、十字架の死をもって、神の御子が犠牲の小羊となってくださったことを覚えて、私たちも神様からの「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声を聞きたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年12月28日