ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年2月1日


2015年2月1日 主日礼拝説教
「恵みの上にさらに恵みを」〜イエス・キリストの生涯20. ヨハネの福音書序文3〜(ヨハネの福音書1章14節〜18節)

■はじめに

 ヨハネの福音書の1章1〜18節の序文を3回に分けて読んでいます。ヨハネは、主イエス・キリストがどういうお方なのかを、「ことば」(ロゴス)ということばを選んで説明してきました。
 1は、イエス・キリストは永遠であること。2は、イエス・キリストは父なる神様とは別の人格であり、しかし父なる神様と最も密接に結びついていること。3は、イエス・キリストは神であるということ。4は、イエス・キリストは神とともにあって、イエス様によって創造のわざを行われたということ。5は、イエス・キリストは人となってご自分の国に来られたのに、人々はそのお方を拒絶された。しかし、イエス様を信じ受け入れた人には、神の子とされるという特権をお与えになるということでした。
 ヨハネは13節までにそれらのことを説明してきました。14節からは、イエス様を受け入れた人には、どのような祝福が与えられるのかを語ります。

■ことばは人となった

14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 神の子である主イエス様が受肉されたことを言っています。「人となって」は「肉となって」です。口語訳は「肉体となり」、新共同訳「肉となって」と訳しています。それで、神様が人となることを「受肉される」と言うのです。
 著者ヨハネは、「ことば」とは人となった神の子イエス様であることを14節で初めて明らかにしました。罪人を救うために、神ご自身が人性、人としての性質をとられました。罪を除いて、すべての点で私たちと同じ人間になったのです。
 イエス様は食事をし、飲み、眠り、疲れ、涙を流し、喜び、怒り、人の悲しみに心を動かされました。律法に従い、神様に祈られ、試練に会われ、神のみこころに従うことを決断されました。そのような人の弱さを通られましたが、罪を犯すことからは無縁でした。そして死に、葬られました。
 このようにイエス様は、堕落したアダムの子たちが受け継いできた性質のまま人間として生まれ、生活されました。

ローマ人への手紙8:3「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」

 しかしキリストは、人であると同時に神であられました。イエス様は奇蹟を通してそのことを示され、復活され、天に昇られました。ですから、イエス様は私たち人間の弱さを思いやることのできるお方であり、私たちのために父なる神様へとりなしをすることができるお方なのです。

へブル人への手紙2:18「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

ローマ人への手紙8:34「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 「私たちの間に住まわれた」。「住む」と訳されていることばは、「天幕を張る」とか「テントの中に住む」という意味です。モーセ時代、神様は、会見の天幕と呼ぶ、神様を礼拝するテントに現れてくださいました。今、イエス様は、この地上に人となって私たちの間に天幕を張られました。それは、人となってこの地上を歩まれたことを言っていますが、さらにモーセの時代に天幕に、そしてエルサレム神殿に臨在された神様の栄光が、イエス・キリストがこの地上に住まわれることによって現されたのです。
 「私たちはこの方の栄光を見た」。使徒ヨハネは、他の使徒たちとともに、神のひとり子であることの証拠をその生涯の中で見たのです。

■バプテスマのヨハネの証言

15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」

 バプテスマのヨハネはキリストの偉大さと、また自分はいかに小さいものであるかを証ししました。バプテスマのヨハネについては、すでに6〜8節で、キリストについて証しするために来たことを語っていました。
 しかもバプテスマのヨハネは、キリストがすでにおられたお方であることを理解していました。誕生や世に現れたことから言えば、ヨハネのほうが先でしたが、実は、イエス様は「私より先に」永遠の世界に生きておられたお方であると証言したのです。

■恵みの上にさらに恵みを

16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

 私たちは、一人一人が必要とするすべてのものをキリストから受けることができるようにされました。そして「恵みの上にさらに恵みを」受けたのです。
 恵みは積み上げられ、増し加えられていきます。それは豊かな恵み、満ちあふれるばかりの恵みです。尽きることのない、途絶えることのない新しい恵みが与えられ、私たちの必要を常に満たし、さらに与え続ける恵みなのです。

17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 モーセが受けた律法は、来るべき方を映し出す影でした。イエス様が来られるまでの時代は律法の時代であり、イエス様が来られたあとの時代は「恵み」の時代と呼ばれます。
 律法と恵みを対比して、パウロはローマ人への手紙などで、私たちは律法の下にではなく恵みの下にあることを書きました。

ローマ人への手紙6:14「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

 律法の要求は高く、厳しく、神様の前に出た者たちの心をいやすことはありませんでした。
 ヨハネは、「恵み」だけでなく、キリストによって「恵みとまこと」が、私たちに与えられたと書きました。イエス様の十字架の死が罪の贖いであったことを信じるすべての者に、恵みによって罪の赦しと、永遠のいのちを下さいます。それが恵みの福音と言われるものです。
 「まこと」とは、神様の真実さ誠実さを表すことばです。「恵みとまこと」とつなげることによって、神様がイエス様の十字架をとおして、人間と新しい契約を結ばれました。それを神様は忠実に果たしてくださることを「恵みとまこと」という表現で、著者ヨハネははっきり伝えたのです。

18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 いかなる者も、父なる神を見ることができません。キリストは父のふところにおられるひとり子です。夫と妻、母と子の親密な関係のように、キリストは永遠より、父なる神と最も親密に結びついておられるお方であり、すべての点で父なる神と等しいお方です。そのようなお方だけが、神様の神秘である神様のご計画を解き明かすことができるのです。

■恵みを受け続ける

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」ました。イエス様は、ユダヤのベツレヘムに誕生され、そこで33年間の生涯を送られました。今は、復活され、天に昇られて、そのあと聖霊なる神様が、神の霊、キリストの霊として私たち一人一人の中に住んでくださっています。そして「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」のです。
 キリストの無限の恵みは、今も私たちがいただくことができます。恵みを受け、また新しい恵みを、そして次から次へと恵みをいただくのです。毎日の歩みの中で恵みを、感謝の中に歩んでいる時に恵みを、弱い時に恵みを、病の中にある時にも恵みを、悩みの時、悲しみの時、失敗した時に恵みが与えられ、またさらに恵みが与えられるのです。毎週、私たちは教会で礼拝を通して、また兄弟姉妹との交わりを通して恵みをいただくのです。
 このように私たちは恵みを、キリストの「満ち満ちた豊かさの中から」受け続けることができるのです。私たちはその恵みを聖餐式で、そして今週の歩みのなかで受け続けたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年2月1日