ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年3月15日


2015年3月15日 主日礼拝説教
「信じる者は永遠のいのちを持つ」〜イエス・キリストの生涯26. ニコデモとの対話2〜(ヨハネの福音書3章9節〜15節)

■はじめに

 ユダヤ人の指導者であったニコデモが、神の国について質問するために、夜イエス様の所に訪ねてきました。ニコデモは、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と質問を始めるのですが、イエス様はニコデモの心にある本当の疑問を知って、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と、新生について話し始められました。
 永遠のいのちを得るためには新しく生まれることが必要であると言われたのです。

■ニコデモの問い

9ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

 ニコデモの3度目の問いです。2度目は4節「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか」でした。
 イエス様は、ここまで同じ真理を4つの方法でニコデモに語られました。1、すべての人は「新しく生まれなければならない」。2、それは水と御霊によって生まれる。3、肉によって生まれた者は肉であるので御霊によって生まれなければならない。4、御霊の働きを風のようである、と説明されました。
 そのようにして、イエス様は「新しく生まれる」ことの必要性、新しく生まれるとはどういうことなのかを説明してこられました。それでもニコデモは、この新しい教えを理解できませんでした。それで「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」と3度目の問いをしたのです。
 ここからイエス様は、もっと深い真理、十字架について話を進めようとしておられました。

■天上のこと

11まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

 「わたしたち」と複数形になっていますが、私という個人に重みと威厳を持たせるための表現です。あなたがた、ニコデモやエルサレム神殿にいた人たちは、新生についてわたしが語っていることを理解しないし、信じられないでしょう。

12あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 確かに新しく生まれることや、御霊によって生まれることは神秘的ですが、それは地上のことであり、人間に起こることでした。これから話すのは天上のことであり、それは地上で人が確かめられない、理解できない神様のみこころとみわざについてでした。その深い真理を話したとしてもあなたがたは信じられないでしょう、というのです。
 天上のこととは、1、イエス様が神ご自身であり、神の御子である。2、イエス様が十字架で死ぬことは罪の贖いの死である。3、神様はこの世を愛してくださり、その人たちを救ってくださろうとしている。4、御子を信じない者にはさばきがある。それらが天上のこと、神様のみこころでした。
 これは、天にいて神と共にいるお方、天にいて神を知っており、神を見たと言えるお方でなければ語ることができない事柄でした。

13だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 天に上った者はいない。もしそういう人はあるとすれば「天から下った者」、人となった「人の子」神の御子なる者しかできないと言われたのです。イエス様だけが天に上ることができるのです。これは天上の真理であり、この神秘は、人のだれも天に上って理解できる者はいないのです。
 わたしは、あなたが言った「神のもとから来た教師」ではありません。旧約聖書が預言してきた「人の子」です。救い主キリスト、メシヤです。罪人を救うために天から下って来た「人の子」です。そしてわたしは天に上っていくのですと語りました。

■青銅の蛇

14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 ここからイエス様は、神様のみこころである、ご自身が十字架につけられることを語ります。ニコデモを始めユダヤ人が持っていた救い主とは、栄光と力に富み、人々にあがめられる救い主であり、ローマからイスラエルの国を回復する救い主でしたが、イエス様はここで、そうではなく、苦しみを受け、罪の犠牲として殺され、自らをささげ、木にかけられ、辱めを受ける救い主キリストであることを語ろうとしました。
 それをわからせようと、イエス様は旧約聖書の民数記からお話しされました。モーセは、イエス様の十字架のひな形を示したのです。
 イスラエル民族は、モーセに率いられてエジプトの奴隷から救い出されました。しかし、約束の地へはすぐには入れず、荒野で40年間めぐり歩かなければならなかったのです。その間、神様は律法を与え、また天からマナを降らせて養い、岩からは水をあふれさせるという奇蹟をもって飢えや渇きから守られました。
 その途中、民は、マナは食べ飽きた、このような荒野の生活はやめたい、エジプトに帰りたいと不平を神様に言ったのです。その不信仰に怒られた神様は、「火の蛇」、毒蛇を送って、イスラエル人たちをかみ殺させたのです。
 人々は後悔して、神様になんとか蛇を取り去ってほしい、死なないようにしてほしいと祈りました。そのとき神様はモーセに、救いの方法を示されました。

民数記21:8「すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」」

 イスラエル人の中、それを信じて仰ぎ見た者は、「もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」のです。それと同じ青銅の蛇のように「人の子もまた上げられなければなりません」と語るのです。

■上げられる

 「上げられる」は昇天されることを表すことばでもありますが、ここでは、主イエスご自身が十字架に上げられることでした。

ヨハネの福音書12:32、33「32「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」33イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」

 毒蛇にかまれて悲しみながら死んでいったように、人は罪の結果、死んでいかなければならないのです。
 青銅の蛇は高く上げられ、宿営のどこからでも見えるようにさおの先に上げられました。キリストもすべての民が見ることができるように、十字架につけられなければならなかったのです。
 青銅の蛇には毒がなかったようにキリストには罪がなかったのですが、罪人として取り扱われ、罰せられました。それは私たちの罪のためでした。

コリント人への手紙第2、5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

 民は青銅の蛇を仰ぎ見て、死から助かりました。私たちはキリストを信仰によって仰ぎ見て救われるのです。

15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 これは、十字架を信じる者に与えられる恵みです。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」それは、イエス様の十字架によって、私たちの罪が赦されることによって与えられるとイエス様は語りました。
 それは、「信じる者がみな」、信じる者には例外なしに、です。自分の罪のゆえに助けが必要と感じ、キリストのもとに行き信頼し、イエス様を自分の救い主として、自分の魂をゆだねることが信じるということです。
 青銅の蛇を見た者は、だれでもどんなに重い病気であってもいやさました。十字架のキリストを信じた者も、「永遠のいのち」が与えられます。栄光の永遠のいのちと、天の御国での祝福を受ける権利を受けるのです。
 今は、地上でその「永遠のいのち」の種が与えられ、今を生きる喜びと力、神様からの導きと祝福が与えられるのです。そして、死んだ後、約束されている永遠のいのちに入ることができるのです。その約束を感謝し、今与えられている「永遠のいのち」に至る喜びの日々を歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年3月15日