ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年3月22日


2015年3月22日 主日礼拝説教
「神は世を愛された」〜イエス・キリストの生涯27. ニコデモとの対話3〜(ヨハネの福音書3章16節〜21節)

■はじめに

 ユダヤ人の指導者であったニコデモが神の国について質問するために、夜イエス様の所に訪ねてきました。イエス様はニコデモに、すべての人は「新しく生まれなければならない」ということと、それは水と御霊によって生まれることを話されました。
 さらに地上のことから天上のことに話が及び、イエス様ご自身が罪を贖うために十字架にかけられ、それを信じる者が救われ、それが神の国に入ることであるとお話しされました。イエス様は、そのことを旧約聖書にあるモーセの青銅の蛇の出来事を使って説明されました。毒蛇にかまれて死んでいったように、人は罪の結果、死んでいかなければならないこと。青銅の蛇は、高く上げられ宿営のどこからでも見えるためにさおの先に上げられたように、キリストもすべての民が見ることができるように十字架につけられなければならないこと。民たちが青銅の蛇を仰ぎ見て死から助かったように、私たちもキリストを、信仰をもって仰ぎ見ることによって救われるということでした。
 イエス様はそのことを15節までお話しされました。新改訳聖書は、15節までをイエス様のことばで、16節からは著者である使徒ヨハネの解説のことばとしています。文語訳、口語訳もそうでした。しかし、21節までをイエス様のことばとする考えもあります。新共同訳はその立場をとって、21節までをイエス様のことばとしています。そのことは欄外注に説明されています。

■世を愛された

16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 この聖句があればキリスト教の福音を説明することができるし、また十分理解できると言われている有名な箇所です。イエス様は、ここから神様のみこころについて新しく話し始められました。それは、神様はこの世を愛してくださり、その人たちを救ってくださろうとしていることと、御子を信じない者にはさばきがあるということです。
 イエス様はここで「神は世を愛された」と言われました。ニコデモにとって、神が愛されている対象はユダヤ人でした。そうではなく、全世界のすべての人たちを神様は愛しておられるのです。
 私たちは、十字架に上げられる人の子イエス・キリストを見上げて信じなければならないことを教えられてきました。それは、新しく生まれること、御霊によって生まれることですが、それが起こるのは、神様が世を愛してくださったからでした。私たちが十字架を知らず、十字架を見上げる前に、神様がまず私たちを愛してくださったのです。これが救いの大前提です。

ヨハネの手紙第1、4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

■ひとり子をお与えになったほどに

 その愛は、「そのひとり子をお与えになったほどに」でした。イエス様は神のひとり子であられ、神様は人間の罪を贖うために、この世のためにそのひとり子を与えられたのです。与えられたものは、神様にとってかけがえのない神の「ひとり子」でした。
 アブラハムが神様からひとり子のイサクをささげるように言われたことがありました。その時アブラハムは、どれほど神様を愛し、神様を大切にし、神様に従おうとしているかを、ひとり子イサクをささげることによって示そうとしました。しかしそれは、刀を振り上げ、あわやという瞬間、神様に止められました。
 それと同じことを、神様は人間を愛しており、人間を大切に思っていることを、ひとり子イエス様をささげることで示されたのです。

■永遠のいのちを持つため

 このようにして示された神様の愛は、「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」でした。それが神様の目的でした。私たちは、神様の愛がなかったならば、「滅びる」者でした。その愛の表現として、イエス様は私たちのために辱められ、拒絶され、嘲笑され、罪ある者として十字架につけられ、神の呪いを受けられたのです。
 その結果が「永遠のいのちを持つ」ことでした。それは、私たちが死んでから神様の国でいただくいのちですが、今も、地上で「御子を信じる」者、イエス様の贖いの十字架を信じる者は、永遠のいのちの種をいただき、永遠のいのちの中に生かされ、イエス様とともに歩む人生、豊かな人生を味わうことができるのです。

17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 イエス様が来られた目的は、人々をさばくためではなく、また罰するためではなく、救うためでした。イエス様は失われた者を捜しだし、救うために来られたのです。

■すでにさばかれている

18御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 しかし、信じない者はさばかれます。しかも「すでにさばかれている」のです。それは、死んでからハデス(地獄)に入れられるという、これから起こることではなく、永遠のいのちが今与えられるのと同じように、今、「すでにさばかれている」のです。
 神様がイエス様を世に遣わされたのは、さばくためではなく救うためでした(17節)。決してさばくために来られたのではありませんでした。ですから人々は、それを知ったならば感謝して救いをいただくはずです。
 しかし「人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かった」(19節)と言われるような人や、「悪いことをする者は光を憎み」(20節)と言われるような人は、かえって神様の愛に背を向け、むしろ憎み、イエス様のもとに来ようとしないのです。
 イエス様の福音を聞く時に、イエス様が愛に満ちたお方であることを知って喜んでイエス様のもとに来る人と、反対に拒絶してしまう人に分けられていくのです。そのようにふるいわけられて行きます。それが「すでにさばかれている」ということです。
 彼らは自分の罪を愛し、罪から自由にしてくださるキリストのもとに来ようとしないのです。

■真理を行う者

21しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 「真理を行う者」、イエス様の十字架を信じた人は、自分のすべてが光によって照らされ、明らかになることを喜ぶようになるのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われたイエス様を信じ、イエス様に照らしていただき、自分の持っていた罪も恥も赦していただく。そして、自分の歩みのすべてをイエス様が知っていてくださることを覚える。そこには何の恐れもありません。それどころか、今いただいている永遠のいのちを味わい、喜びつつ歩むことができるのです。
 ここでは「信じる」ということばが続いていました。15節「信じる者がみな」、16節「御子を信じる者が」、18節「御子を信じる者は」とあります。私たちは御子イエス・キリストを信じることができました。明るみに出されることを恐れず、光のほうに来ることができました。永遠のいのちを持つことができました。その幸いを感謝してこれからも歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年3月22日