ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年4月26日


2015年4月26日 主日礼拝説教
「永遠のいのちへの水」〜イエス・キリストの生涯31. サマリヤの女との対話2〜(ヨハネの福音書4章11節〜24節)

■はじめに

 4章から始まったサマリヤの女とイエス様の対話の2回目になります。イエス様は、サマリヤの女の「どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」という問いかけから、ご自分に対する好奇心を持たせ、注意を引きつけさせ、「生ける水」について話を始めました。

■決して渇くことにない水

11彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

 女はその水が欲しくて、わくわくするような思いになりましたが、イエス様が言われた「生ける水」の霊的な意味に気づきませんでした。「先生」と呼びかけました。あなたは水をくむ道具を持っていません。このヤコブの井戸でさえ長いロープが必要なのに、その「生ける水」は、どこで、どのようにしてくみ出すのですか。このヤコブの井戸は、昔からだれもが飲み、だれもが満足できる井戸です。この井戸よりも、もっと良い井戸のありかを先生は知っているのですか。見たところ、貧しく疲れた旅人にしか見えないあなたですが。

13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 イエス様は、水をくんで飲むということは霊的なものであり、永遠のいのちについてであることを話し始めました。それは、いつまでも渇くことがない水であり、また内側から泉のようにわきあがってくる水でした。
 イエス様は、女の「その井戸はどこにあるのですか」「あなたは、この井戸を掘ったヤコブよりも偉いのですか」という質問には直接答えないで、「生ける水」とはどういうものか、そのすばらしさについて話していきます。
 このヤコブの井戸は質の良い、豊かな水をくみ出すことができるかもしれませんが、それを飲んで満足できるのは数時間で、またのどの渇きを覚えてしまいます。しかしこの水を飲む者は、例外なく、だれでも「決して渇くことがありません」と。
 キリストが与える恵みはいつまでも、与え続けられるのです。周りがどのような状況になろうとも、その人の魂への励ましが失われることは決してありません。それは、魂から泉のように、生きる喜びが永遠にあふれ出てくるからです。人々にも分け与えることができ、その喜びはほかの人にも及んでいくのです。「決して渇くことがありません」は、ひとたび受けた恵みは失われることなく、神様はその人を完全に永遠のいのちへと導くという約束でもあります。
 こう言われても、女はイエス様が教える「生ける水」の本当の意味を理解できなかったかもしれません。しかし、現実の水のことも頭に残しながら、もう渇くことがなく、くみに来なくてもいい水があれば、「その水を私に下さい」と、初めてそれを求め、欲しいと願いました。

■あなたの夫を呼んできなさい

16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

 ここからイエス様は女に、自分の罪を悔い改めることを話し始めます。イエス様は、この女のこれまでの状況、今は夫がいないがかつては何人もの夫を持ち、人に言えない、人に触れられたくない隠している罪があることを知っておられました。女にありのままの姿を自覚させ、イエス様の前にその罪を告白できるように導かれました。

17女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 女の答えは正直な告白でした。イエス様はその答えが間違っていないことをほめられました。しかし、女は不品行の罪の中にいたのです。
 女は5人の夫のうち、死別もあったでしょうが、数人の男と離縁したのです。夫の罪もあったでしょうし女の罪もあったでしょう。現に今は、女は夫ならぬ男との生活を送っていました。そのことをすべてイエス様がご存じであったのです。

19女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。

 ここまで来て女は、自分のことをすべて知っておられるお方に向き合いました。今まで、だれにも言ったことのない、隠れた罪をこのままにしておくことはできない。このお方は何でも知っておられる。それは「生ける水」を得るためには障害になるはずだ。どうしたらよいのか。それが、「あなたは預言者だと思います」ということばになってあふれ出ました。

■霊とまことによって礼拝する

 預言者だと思われる人の前に立って、次に女は、自分が行っている礼拝形式、宗教について、この人はどう思うのか心配になってきました。

20私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

 自分はサマリヤ人、相手はユダヤ人で、神を礼拝する場所が違っており、どちらも正しいと主張しあっていたのです。
 イエス様は言われました。キリストが来て、礼拝する場所はどこかなど、問題とされない時が来るのです。神様を礼拝するのに、神殿や、犠牲の方法、祭司、祭壇はどうするのか。そのような問題は必要としなくなるのです。

23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 イエス様が来られた新しい福音の時代には、新しい礼拝が教会によって始まるのです。今までは、旧約聖書に従って形式や外面を整えることが重要でしたが、これからは礼拝者の内面が大切になってくるのです。
 「霊によって」とは心からの礼拝を表し、儀式、供え物によってささげられる礼拝とは全く違うものでした。たとい儀式・供え物が正しくささげられても、心がこめられていなければ、神様はその礼拝を受け入れてくださらないのです。
 しかし礼拝は、心からという人間のがんばりと、熱心さがあればできるものではありません。「霊によって」とは心からということを教えますが、また礼拝は、神の霊、御霊の働きによって行われるものです。御霊によって、私たちは礼拝に導かれ、御霊によって私たちは父なる神様を「アバ父」と呼ぶことができるのです。
 「まことによって」礼拝するとは、キリストを通して行われる礼拝です。キリストの十字架の死の時に、神殿の幕が裂かれました。その幕は、至聖所と呼ばれる神殿で最も大切な場所を隔てていた幕でした。大祭司のみが神と会うことができた至聖所に、だれもが自由にキリストを通して入ることができるようになったのです。神様は、ユダヤ人に限らない、すべての場所で、あらゆる国民の中から、霊とまことによって礼拝する人たちを求め、集めようとしていたのです。
 そのような礼拝が、きょうもささげられています。これからも「霊とまことによって」礼拝を、教会でささげていきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年4月26日