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2015年5月17日 主日礼拝説教
「いつものとおり会堂で」〜イエス・キリストの生涯34. ナザレでの宣教1〜(ルカの福音書4章14節〜21節)
私たちは4つの福音書からイエス様の生涯を追っています。先週は、イエス様がユダヤからサマリヤを通りガリラヤに帰って来てナザレに行き、そしてカペナウムで「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣教を開始した箇所を見ました。今日は生まれ故郷であるナザレで起こった出来事を取り上げます。
14イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。15イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
イエス様はガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えられました。またエルサレムで、神殿で商売をしていた人たちを追い払われました。これらのことが伝えられて、ガリラヤ一帯でイエス様の評判が広まっていました。
そのような状況の時に、イエス様は故郷のナザレの会堂に行かれました。
16それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
イエス様は「いつものとおり」に「安息日に会堂に」行かれました。それは、子どものころから行っていた会堂であったでしょう。今はガリラヤ一帯で評判になっているラビとして、イエス様はこのナザレの会堂に入られました。
17すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
係りの人が聖書を朗読しようとして立ち上がられたイエス様に、イザヤの書を手渡しました。しばらくの間、巻物を開くという静かな時間があったと思われます。巻物ですから、今の聖書のように簡単に開くわけにはいきません。イエス様は読む個所を見つけられ、イザヤ書61章1−2節のことばを読まれました。
18「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエス様は、この個所を読み終わると巻物をもとのように巻き戻し、係りの人に渡してから座られました。会堂にいる人たちの目がいっせいにイエス様に注がれました。これからイエス様は何を話されるのであろうかと。
21イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
イザヤ書のこのみことばには、「貧しい人々」に福音を伝え、「捕われ人、盲人、しいたげられている人々」に救いをもたらすために、主から「わたし」という人が遣わされたと出てきます。イエス様は、このイザヤ書のみことばに書かれている「わたし」とはイエス様ご自身のことであり、そしてあなたがたが聞いたとおりに、きょう主の恵みの年が実現したと語られました。
イザヤ書にある「油を注がれた者」とは、ギリシヤ語でキリスト、ヘブル語ではメシヤです。イエス様は、今「油を注がれた」者として人々の前に立たれました。そしてイエス様は、油を注がれた者としてのご自分の使命を、このイザヤ書から語ろうとされました。イエス様が救い主として、これからの生涯でなさろうとすることがこの18、19節の内容でした。
1つ目は、「貧しい人々に福音を伝える」ためにです。イエス様は貧しい人々に福音を伝えます。そしてイエス様は貧しい人々の友となられます。イエス様は「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから」(ルカ6:20)と語られます。貧しい人、それは私たちすべての人間のことでした。
2つ目は「捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために」です。イエス様ご自身が光となってくださったのです。目の見えない人、それは私たちすべての人間のことでした。
ヨハネの福音書12:46「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」
3つ目は「しいたげられている人々を自由にする」ためにです。この「自由にする」ということばと、2つ目にあった「赦免」は同じことばが使われています。イエス様は、「捕われている人、しいたげられている人」たちに目を注ぎ、声をかけ、良き友となってくださいます。「捕われている人、しいたげられている人」は私たちすべての人間のことでした。
4つ目は「主の恵みの年を告げ知らせるために」とあります。「主の恵みの年」とは、レビ記25章に記されているヨベルの年のことです。それは50年ごとにやってくる恵みの年で、全住民に解放が宣言される年でした。売られた土地はもとの所有者に返され、借金は棒引きになり、奴隷もみな解放されたのです。
このような幸いな恵みの年が、油注がれた方、キリストがおいでになる時に実現することを、イザヤは700年前に預言していたのです。
聞いた人々はこの恵みのことばに驚きました。一方、「この人は、ヨセフの子ではないか」と言って拒否した人たちがいました。
人々は、今までイザヤの預言を何度も聞いてきたでしょう。いつの日かやってくる約束として聞いてきたでしょうが、ナザレの人たちは、きょうイエス様によって、この恵みの年が実現したと告げられたのです。それは罪の赦しが与えられることによってもたらされるのです。
「赦免」「自由にする」いうことばは、また「罪の赦し」とも訳されることばです。「捕われ人を赦免」し、「罪の赦しを」もたらしてくださるのはイエス様です。その赦免のためには高い価が支払われました。イエス様のいのちです。
私たちが赦免されるために、主キリストはその身に苦しみを受けてくださいました。私たちが赦免され自由にされるのは、主キリストが私たちに代わって私たちの罰を受けてくださったからです。しかも主キリストは、この赦免を受けるために、私たちに何の条件も要求されないのです。もうだれも私たちを罪の「捕われ人」に引き戻すものはありません。
16節のみことばをもう一度味わいたいと思います。「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」
イエス様が「いつものとおり」安息日に入られた会堂で、みことばを聞くことができた人たちは、驚くばかりの大きな恵みを告げ知らされたのです。私たちも、毎週、守らせていただく礼拝で、神様の恵みをいただきたいと思います。いつものとおり主の日に、いつものとおりこの会堂で、いつものとおり守られる礼拝を大切にしていきたいと思います。
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