ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2015年5月31日
2015年5月31日 主日礼拝説教
「前もって用意して」(コリント人への手紙第二 9章1節〜5節)
パウロは、コリント教会に献金のお願いをしました。そのことが8章から9章の終わりまで続きます。パウロがこのような献金を集めようとした動機は、エルサレムに住む貧しいユダヤ人クリスチャンたちを経済的に援助し、ユダヤ人教会と異邦人教会の心を一つにするためでした。そして、このパウロの呼びかけに対していち早く賛同したのがコリント教会でした。
そのことは、9章2節にあるように、すでに「昨年から準備が進められていた」のでした。ですからこの献金の趣旨について、パウロはまず、今さら改めて書き送る必要はないと語ります。
1聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。
このように前置きしてから、パウロは続いて2節で、コリント教会のことをマケドニヤの諸教会に対して「誇った」ことを語ります。
2私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。
「アカヤ」はギリシヤの州の名前で、コリントはこの州にある町です。「マケドニヤ」もアカヤの北にある州で、ピリピ、テサロニケなどの町があります。
パウロの誇りとしたことは、コリント教会の「熱意」と、「昨年から準備が進められている」ことでした。コリント教会の「熱意と準備」にうながされてマケドニヤの諸教会も立ち上がり、極度の貧しさにもかかわらず、「自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげて」くれたのでした。
ところが、他に先んじて献金を始めたはずのコリント教会は、いろいろな問題が起こったために熱意が失われていきました。それは、コリント教会が神のことばより人の「知恵」を重んじる誤りに陥ったからでした。
しかし、パウロの勧めによって、神のことばに立つという信仰に立ち返りました。自分たちの知恵に頼って解決しないでパウロに問い合わせ、神のことばによって立ち直ることができたのです。その経過が第1の手紙に書かれています。
今やコリントの教会は、もう一度みことばによって立ち直り、マケドニヤの諸教会とともに進み出しました。彼らは十字架のことばに立ち返ったのです。
5そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
5節の中に、「先に」とか、「前に」ということばがいくつかあります。「先にそちらに行かせ」「前に約束した」「前もって用意して」などです。この前の3節、4節で、パウロはこう言っています。
3私が兄弟たちを送ることにしたのは、この場合、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。4そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。
パウロがコリントに行く前に3人の兄弟たちをコリントに送ることにしたのは、8章の終わりに書かれていました。献金を計画的に準備しておいてもらうためです。
「前もって用意しておいてください」とパウロがこれだけていねいにお願いしているのは、献金の場合、この「前もって用意しておく」ということがとても大事だからでした。
献金をいくらするかはその人の受ける恵みのわざですから、それぞれが神様から与えられた信仰と恵みによって決められます。献金をする場合に大切なのは、「前もって用意しておく」ことです。幾ばくかの収入が神様によって与えられ、その恵みに感じて神様に感謝を表します。それが「恵みのわざ」としての献金です。その時収入の中から、まず初めに「前もって」神様にささげるものを取り分けておくことは、そこにささげる思いがこめられているのです。
私たちは、このようにして毎月、心に決めた額を、あるいは週ごとに神様の前にささげます。礼拝に出る時に、聖書、賛美歌、そして献金を用意して出る。それが前もって準備する献金の心ではないでしょうか。
「惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。」私たちは、献金を惜しまずに、しかも「好意に満ちて」ささげるのです。
「好意に満ちて」ということばは、直訳では「祝福して、聖別して」ということです。ですから、献金をしたあとに「祝福し、きよめてお用いください」と祈りをささげます。私たちがいただいた恵みへの感謝のしるしとして、献金を神様にささげることができたことを感謝するのです。そして、私たちの生活が支えられ、健康を守られていることを感謝し、この献金が聖別されて、神様のわざ、教会の働きに用いられるよう祈るのです。
最後に、「前もって用意する」ということばから、私たちの救い主、イエス・キリストのことを考えてみましょう。それは、イエス・キリストが私たちのためにしてくださったことです。
ローマ人への手紙5:6−8「6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
私たちがまだ神様を知らなかった時、神様はすでに私たちを知っておられました。私たちがまだ神様を呼び求めなかった時、神様はすでに私たちの名を呼んでくださいました。私たちがまだ神様を愛していなかった時、神様はすでに私たちを愛しておられたのです。しかも、十字架の死に至るまでも愛してくださったのです。
私たちが自分の罪に気づく以前に、その罪を悔い改めるずっと前に、まだ罪人であった時に、キリストは私たちの罪の身代わりとして十字架でいのちを捨ててくださいました。
すでに救いの道は用意されているのです。神様は、放蕩息子のように歩んでいる者たちが、「立って、父のところに行って、「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」」(ルカ15:18)と言って帰って来るのを今も待っていてくださるのです
ヨハネの手紙第1、4:9−10「9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
主イエス・キリストこそ、神様が私たちのために「私たちがまだ罪人であったとき」に、前もって用意してくださった「好意に満ちた贈り物」なのです。私たちは神様の好意を喜んで受ける者でありたいと思います。十字架による救いは、罪人であった時から用意されていた贈り物です。罪人のままで受け取っていいのです。
私たちは今週も、私たちの救い主、イエス・キリストを覚え、コリント教会の人たちと同じように、この恵みのわざに喜んであずかる者とさせていただきたいと思います。
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