ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年6月21日


2015年6月21日 主日礼拝説教
「人間をとる漁師にしてあげよう」〜イエス・キリストの生涯37. 4人の漁師が弟子になる〜(マタイの福音書4章18節〜25節)

■はじめに

 イエス様はガリラヤに来られ、カペナウムに移り、「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」」(マタイ4:17)と宣言されました。そして弟子たちを招き始められました。

■ペテロとアンデレ

18イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。

 イエス様は、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられると、漁師たちがそこここで仕事をしている姿に目を留められました。ガリラヤ湖は魚のたくさんとれる漁業が盛んな湖でした。ですから、ここにはシモン、アンデレたちだけではなく、多くの漁師がいました。そこでシモン、別名ペテロとその兄弟アンデレが網を打っていました。
 イエス様とペテロたちは、初めて出会ったのではありませんでした。ヨハネの福音書1章にありました。バプテスマのヨハネがイエス様を紹介し、アンデレとヨハネがイエス様を救い主と信じました。そのあと、アンデレが兄弟のシモンをイエス様のところに連れて行き、シモンはイエス様からペテロという名をいただきました。
 この出来事があった後に、またペテロたちはガリラヤ湖に戻り、いつものように漁師をしていました。彼らは、イエス様のことを知ったのですが、何もかも捨ててイエスに従って行くまでには至らなかったのです。そのような中、そこで網を打っていたペテロとアンデレをイエス様が「ご覧になった」のです。
 「見る」ということばは聖書のギリシヤ語には二つあって、ここは「じっと見る、鋭く見る、観察する」という意味が込められていることばが使われています。神様が召し出そうとする時、まずその人を見てくださるのです。そのまなざしをペテロたちも受けました。

19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

 主イエス様がペテロたちを招きました。一方的な招きです。すでにそう決めてあるからという招きです。
 「人間をとる漁師にしてあげよう」は、ギリシヤ語原文では未来形が使われています。イエス様が未来の表現を使った場合は、それは確実なことなので、「あなたがたは人間をとる漁師に必ずなります」と言っていることと同じです。すぐにではないが、あなたがたは人間をとる漁師に確実になるというのです。イエス様が選び、召し、呼び出してくださったからです。

20彼らはすぐに網を捨てて従った。

 彼らは即座に従いました。「網を捨てて従った」のです。網は彼らの生活手段でした。彼らは、これからの自分たちの生活もゆだねて従ったのです。

マタイの福音書6:31−33「31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。……33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 彼らは、イエス様に従って行くという決断と、イエス様に対する信頼を、「網を捨てる」という行為で表しました。

■ヤコブとヨハネ

21そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。22彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

 今度は、ヤコブとヨハネの兄弟をご覧になって呼ばれました。ヤコブ、ヨハネは、すでに漁が終わり、「舟の中で網を繕って」いました。イエス様は、そこに声をかけられたのです。
 イエス様が召してくださる時はさまざまです。ペテロたちのように漁の真っ最中でも、ヤコブ、ヨハネたちのように「これからあれをしよう」と準備をしていた途中でも、すぐに立ち上がったのは、イエス様が選んでくださり、「ご覧になって」くださり、声をかけてくださったからです。
 ヤコブ、ヨハネは「すぐに舟も父も残して」従いました。ヤコブ、ヨハネは家族のことも、神様に信頼してゆだねたのです。

■群衆たち

 それからイエス様たちは、ガリラヤ全土を巡って、人々に神の福音を宣べ伝え、病をいやされるという奇蹟を次々と行われました。イエス様のうわさは、ガリラヤの北、異邦人のシリヤ地方にも広がっていきました。イエス様のもとに、「さまざまな病気や痛みに苦しむ病人」たちがやってきました。それらの人たちも、イエス様への信仰によっていやされました。イエス様の活動は、まず人々への直接的な求めに答えるいやしから始まりました。

25こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

 デカポリスはガリラヤ湖の南側地方、そして南の「エルサレム、ユダヤ」、東地方の「ヨルダンの向こう岸」からも人々が集まってきました。
 イエス様に呼ばれてイエス様の弟子となったペテロたちと、その周りに集まってイエス様を信じ、イエス様につき従った大勢の群衆が対比されています。
 群衆の中にいる者たちは、イエス様の教えを聞き、奇蹟を見ても、いつも周辺にいる人たちでした。彼らは、最後に十字架につけられるイエス様を見放してしまうのです。

■主が選んでくれたから

 しかし、イエス様に呼ばれ弟子となったペテロたちとて、イエス様が十字架にかけられ、死んで、3日目に復活され、弟子たちがイエス様にお会いするまで、イエス様のなさろうとしていることが理解できなかったのです。
 たとえ話を聞いたあとも、「15 そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか」(マタイ15:15-16)。奇蹟を見た後も「まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか」(マタイ16:9)。
 しかし、どこまでもイエス様についていくことができたのは、イエス様のご覧になった「まなざし」と、「わたしについて来なさい」というイエス様のおことばに従ったことと、そして隠されていますが、イエス様がまず選んでくださったからでした。後で、イエス様は弟子たちを前にしておっしゃいました。

ヨハネの福音書15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」

 こうしてイエス様と弟子たちの歩み、旅が始まりました。弟子たちは、イエス様と生活を共にし、さまざまな奇蹟に立ち会い、イエス様のおことばを聞きながら、少しずつ訓練され、「人間を取る漁師になって」いくのです。

■人間をとる漁師

 イエス様は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と声をかけられました。しかし、それは最初の1度だけではありませんでした。ペテロたちが何度もつまずき、倒れ、無知になろうとも、何度も呼び出し、助け、励ましてくださり、確かにペテロたちを「人間をとる漁師」にしてくださったのです。
 私たちの信仰の歩みも同じです。いつも神様は声をかけてくださり、助けてくださるのです。神様が最初に私たちを選び、声をかけ、導いてくださったことは最後まで変わりません。それが神様のお約束です。それが神様の大きな恵み、それが神様のみこころなのです。そのことを覚えて今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年6月21日