メッセージ

Ⅰコリント3:1~4「信仰の成長を目指して」  17.01.15.

序)
 先週の月曜日に、私たちの団体のミックスユース冬集会が伊勢教会で行われました。今回は私がメッセンジャーとして奉仕させていただきました。お祈りを感謝します。今回の集会で初めてお会いした中高生や青年がおられました。残念ながら風邪や事情によって急遽参加できなかった方々もおられましたが、私たちの団体のユースの輪が徐々に広がっていることを実感させられた時でした。参加者の中には献身を志しておられる方もおられました。各々の信仰がさらに成長し、ユースの働きが前進できるように祈っていただきたいと願っています。その信仰の成長はユースだけでなく、私たちについても同じです。私たちも信仰の成長を目指す者とされています。今朝は、その信仰の成長について共に教えられたいと願っています。

1)肉に属する人
 まず、「肉に属する人」ですが、肉に属する人のことを、今朝の箇所では「キリストにある幼子」と表現されています。聖書は他の箇所でも「幼子」ということばが出てきます。例えば、イエス・キリストは「幼子のようでありなさい。」と話されました。これは幼子の従順さを示されています。しかし、今朝の箇所では良い意味としてではなく、悪い意味として用いられています。「キリストにある幼子」とは、霊的に成長していないキリスト者のことです。すなわち、大人になっていないキリスト者のことです。以前、JBCの教会指導者研修会で講師の方が日本のクリスチャン人口が1%を越えられない理由の1つとして、教会が大人になっていないことを話されました。教会が大人になっていないとは、その教会に集う一人ひとりが大人になっていないということです。
 では、「大人になっていない」とはどういうことかと言いますと、その講師の方は「依存意識が強かったり、自分に与えられている奉仕に対しては責任を持つが、他のことに対しては関心を持たないこと」と話されていました。教会はキリストの身体です。私たちの身体の器官が依存意識が強かったり、他のことに対して関心を持たなかったらどうなるでしょうか。例えば、「お腹が空いて何かを食べたい」と思っても、目や手は関心を持たずに何もしなかったらどうでしょうか。食べ物を探そうともしない。手を探ろうともしなかったら、食べ物を取ることはできません。すると、私たちの身体は機能しなくなってしまいます。私たちの身体は、各々の器官が自分の分をきちんと果たすだけでなく、互いの関心を持ち助け合っているのです。だから、身体は正常に機能し活動することができるのです。
 教会が身体に譬えられているのは、教会も身体と同じような機能を持っているからです。すなわち、互いが同じ目的に向かって一つとなり、与えられている務めを果たし、互いに助け合っていくことによって活動できるからです。そのようにわきまえることができるのが大人です。小さな子どもは、そのようにわきまえることができません。むしろ、自分のしたいことだけをし、自分の願いが叶えられることだけを要求します。子育てに励んでいるとき、自分の子どもにそのような時期があったことを思い出すのではないでしょうか。ですが、その子どもも少しずつ成長して、やがては物事をわきまえられる大人へと成長します。
 信仰も同じことが言えます。信仰は与えられたら良いというものではなく、そこから少しずつ成長するものでもあります。与えられた信仰が成長しないのは問題です。何故なら、先ほども話しましたように、信仰は成長するものとして与えられているからです。互いが同じ目的に目を向け、与えられている務めを果たし、互いに助け合っていくことができるために信仰が与えられているのです。それなのに、その信仰がそこまで成長していないなら、それは信仰の幼子であり肉に属する人でもあるのです。

2)御霊に属する人
 神が私たちに信仰を与えてくださったのは、神を信じる私たちが肉に属する人となるためではなく、御霊に属する人となるためです。この御霊に属する人とは、先ほどの肉に属する人と正反対の人のことです。すなわち、信仰的に大人になっている人のことです。それは、同じ目的に向かって一つになることを願い、与えられている務めを果たし、互いに助け合っていくことのできる人です。パウロは2:16で「私達にはキリストの心があるのです。」と語りました。キリストの心とは、神を愛し人を愛することです。「ありのままの自分が神に愛されていることを知り、ありのままの自分を愛してくださっている神を愛する。そして、ありのまま神に愛されている人を愛する心がキリストの心である」ということを先週の礼拝で話しました。
 私たちは社会組織の中で生かされています。その社会組織の中でキリストの心を実践していくことが求められています。では、社会組織の中でキリストの心を実践していくとはどういうことでしょうか。それは助け合っていくことです。各々の群れには目的があります。職場にしろ、家庭にしろ目的があります。その目的を目指して助け合っていくことがキリストの心の実践でもあります。それは教会においても同じです。教会も社会組織の一つです。教会に集います一人ひとりは、その組織に属しておられるのです。ですから、一人ひとりが互いに助け合って、キリストの身体である教会を建て上げていくことを神は私たちに求めておられるのです。
 私たちには、各々自分の思いや考えがあります。それはそれで大切なものです。しかしながら、人は一人ひとり違いますから、思いや受け止め方も違ってきますし考え方も違ってきます。その違いを受け入れることがありのままを受け入れるということです。神を信じる者であっても、自分の意見が考えが通ることを願います。そのような願いは人として当然のことです。しかし、その自分の意見や考えが通らなかったとしても、それを受け入れることがキリストの心の実践なのです。何故なら、その背後にも神の導きがあるからです。
 それは教会の中での話し合いもそうです。その話し合いの背後には神の導きがあります。何故なら、その話し合いは神に祈り備えて行われているからです。私たちは結果に目を留めてしまいます。ある面、結果というのは大切なものですが、結果だけが大切なものではありません。たとえ、その結果が自分の願いとは違っていたとしても、それを通して神はすばらしいことをしてくださいます。何故なら、神は私たちの理解を越えた大いなる方だからです。そこに目を留められるのが御霊に属した人です。神はその御霊に属する人になることを私たちに求めておられるのです。確かに結果は気になります。「気にならない」と言えば嘘になるでしょう。ですが、結果だけではないことも事実です。私たちの理解を越えた大いなる神に目を留め、結果が自分の願いとは違っていたとしても、それも神の導きであり、そのことを通して神はすばらしいことをしてくださると期待できる者とされたいものです。

3)信仰の成長を目指して
 ところが、コリント教会はそうではありませんでした。コリント教会の中にあったものは妬みや争いでした。そこには互いを受け入れ合い助け合って、キリストの身体である教会を建て上げていこうとする思いがありませんでした。そのようなコリント教会の人々のことを、パウロは3節と4節で「ただの人」と語っています。この「ただの人」とは、御霊にではなく肉に属する人のことです。それは神を信じていない人ではありません。言うなれば、「信仰は信仰」「実生活は実生活」と分けて過ごす人のことです。生活の中に信仰が生かされていない人のことです。
 キリスト者というのは、イエス・キリストの十字架による死と復活を信じ、新しく生まれ変えられた人です。結果を重視し、結果から全てを見ていた歩みから、根本的なことから全てを見る歩みに変えられた人です。今までの歩みから180度変えられた人がキリスト者です。「なのに何故」と思われるかもしれません。何度も話していますが、人は赤ちゃんとして誕生し大人へと成長していきます。その成長は一足飛びではなく徐々にです。それは霊的な面においても同じことが言えます。イエス・キリストを信じたら180度変えられ、一足飛びに完全な人になれるというわけではありません。やはり徐々に成長していくのです。そして、自分の信仰の成長を目指すのがキリスト者なのです。
 ところが、この信仰の成長は自然になるものではありません。信仰の年数が長ければ、信仰もそれなりに成長するというものでもありません。へブル5:12~14には「     」と書かれています。この箇所から想像できるのは、信仰年数が長いにも拘らず、その信仰が「全く」と言っても良いほど成長していないということではないでしょうか。この箇所からも、信仰は年数に応じて自然に成長するものではないということを知らされます。信仰の成長には戦いがあります。どのような戦いかと言いますと、外から押し迫って来る戦いではなく自分との戦いです。その自分との戦いを通して与えられています信仰は成長していきます。ですから、自分との戦いと戦おうとしないなら、信仰は成長することはありません。
 神を信じる者にはキリストの心が与えられています。キリストの心とは、先ほども話しましたように神を愛し人を愛することです。神は神を愛し人を愛することを通して、キリストの身体である教会を建て上げることを願っておられます。私たちの中には自分の思いや考えがあります。そして、その思いや考えが叶えられることを願います。でも、全てが叶えられるわけではありません。叶えられないときもありますし、ともすると全てが叶えられないかもしれません。たとえそうであったとしても、その結果を受け入れることが自分との戦いです。その自分との戦いを通して、与えられています信仰は成長していくのです。
 でも、今朝の箇所の「ただの人」というのは、その自分との戦いを戦っていこうとはしない人のことです。気に入らなければ協力しない。または、妬みや敵対心が生じて争いを引き起こしてしまう人です。言うなれば、利己的な信仰の人です。利己的信仰とは、自分が群れの一員であることを意識しませんから、群れのことに関心を寄せません。関心を寄せるのは自分のことだけです。ここでパウロはそのことを指摘しているのです。神が与えてくださったキリストの心・神への信仰は、成長するものとして与えてくださったのです。ですから、その信仰の成長を目指して歩むことをパウロは訴えているのです。私たち自身も自分の思いや考えがありますが、その自分との戦いを通して、与えられています信仰が成長するように神に祈っていきたいものです。

結)
 神は私たちに、「信仰」というキリストの心を与えてくださいました。しかも、そのキリストの心である信仰は、成長するものとして与えてくださいました。神を信じたら信仰は完成されるのではありません。神を信じたときが信仰の始まりです。神が与えてくださいました信仰が、さらに成長することを祈りましょう。そして、私たちが教会の一員であることを覚え、キリストの身体である教会を共に建て上げていきましょう。

Ⅰコリント2:13~16「新しく変えられた人」  16.01.08.

序)
 新年が明けて1週間が経ちました。この正月はどのように過ごされたでしょうか。私たち家族は、日曜日の午後に母が入居しているベタニヤハウスに行き、母を連れて実家で3日まで過ごしました。特別に変わったことはなかったのですが、イエス・キリストを信じると新しく変えられます。今朝の箇所ではありませんが、Ⅱコリント5:17には「     」と書かれています。「イエス・キリストを信じるなら全てが新しくなった」と語られています。これは「新しく変えられた」ということですが、「新しく変えられる」とはどういうことでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)視点が変えられる
 まずは、視点が変えられます。13節の最初に「この賜物について話すには」と書かれています。これは、自分が生かされていることの喜びについて話すことです。イエス・キリストを信じるまでは、生かされていることに本当の喜びを見出すことができませんでした。それは先月の時も話しましたが、生かされています社会から自分を見るとき、自分が小さな存在であり、居ても居なくても社会に影響を及ぼすことのない存在と思っていたからです。「それなら、イエス・キリストを信じたら社会に影響を及ぼす存在となれるのか」と言うとそうではありません。やはり、影響を及ぼすことのない小さな存在です。しかし、「そのような小さな存在である自分を神は必要としてくださり用いてくださる」という視点に変えられます。
 何度も触れていますが、ガラテヤ6:14に「     」と書かれています。特に、後半の部分に目を留めたいのです。14節の後半には「この十字架によって…つけられたのです。」と書かれています。これはどういうことかと言いますと、神を信じる者の見方・視点を示しています。イエス・キリストを信じる前までは、世界から自分を直接見ていましたし、自分から世界を直接見ていました。ですが、イエス・キリストを信じた後は、そのような直接的な見方からイエス・キリストの十字架というフィルターを通して見るようになったということです。
 先程も触れましたが、自分という存在は社会から見て居ても居なくても影響を及ぼすことのない小さな存在です。自分の代わりなどたくさんいます。自分が居なくなったら会社や組織が混乱してしまうのかというとそうではありません。自分の代わりの他の人が入って、その組織は以前と同じように機能するのです。そのように考えますと、自分が何のために存在しているのかが分からなくなってしまいます。ところが、イエス・キリストを信じた後は、そのような直接的な見方ではなくイエス・キリストの十字架というフィルターを通して見るように変えられます。確かに、信じても環境は変わりません。しかし、そのような小さな自分に神は目を留めてくださり、必要として用いてくださるという見方に変えられます。
 見方が変えられるということは、生き方が変えられるということです。それは否定的・消極的生き方から、肯定的・積極的生き方に変えられるということです。イエス・キリストの十字架は、私たちの生き方を変えるほど力のあるものなのです。そして、そのイエス・キリストの十字架を本当の意味で知るには、御霊の助けが必要なのです。その御霊の助けによって、生き方が変えられ今の自分が生かされていることに感謝と喜びを持つことができるようになるのです。これが13節の最初に書かれています「この賜物について話す」ということです。今までとは全く違う視点へと変えられ、生き方が変えられたことを話す賜物をイエス・キリストの十字架を信じることによって与えられるのです。

2)信じるものが変えられる
 次に、信じるものが変えられます。新しく変えられた人は生き方が変えられますが、新しく変えられていない人は生き方が変えられません。何故なら、信じているものが違うからです。ピリピ3:8で、パウロは「     」と語っています。パウロはイエス・キリストを信じるまでは、ユダヤ教の教えを一生懸命守っていました。そのことについてパウロは、ピリピ3:5~6で「     」と告白しています。彼はユダヤ教の教えに照らし合わせて自分の生き方は「非難されるところのない者」と断言できたのです。それほどの自信を持っていたのです。そこまで言い切れる人というのは本当に少ないのではないでしょうか。でも、パウロは言い切れたのです。そこまで言える自信があったのです。しかし、そのような生き方に対して、7節で「     」と告白しています。今まで自信を持っていた生き方が「損と思うようになりました。」と告白しているのです。ユダヤ教の人から見れば、「何と熱心な人だ」という評価です。多くのユダヤ教の人から尊敬され、称賛されていたことでしょう。ですが、パウロは「損」と思うようになったのです。何故でしょうか。信じるものが変えられたからです。
 ユダヤ教の教えは、神が与えてくださった戒めや教えを実践していたら、やがて来る救い主によって救われ神の国が実現するというものです。パウロはそのことを信じて一生懸命実践していたのです。しかし、彼の心の中にあったものは何かと言いますと、平安ではなく不安です。「神の戒めや教えを破ってしまったら神に義と認められず救われない」という不安です。ですから、神の戒めや教えを守り続けなければならないのです。しかし、守り続けられるという保証はありませんし、守り続けるのをやめたら神の審きを受けてしまうという不安。ですから、守ることに必死なのです。これはマインドコントロールのようなものです。パウロはイエス・キリストと個人的な出会いをすることによって、その不安からの生活から解放されたのです。「今まで信じていたもの」というのは、「今までしがみついていたもの」と言っても良いでしょう。でも、今までしがみついていたものを手放したとき、彼に与えられたものは審きではなく平安だったのです。
 パウロ自身、自分の弱さをよく知っていました。だからこそ、一生懸命神の戒めや教えを守り行っていたのです。イエス・キリストと個人的な出会いをして視点が変えられますと、信じるものも変えられ、今までしがみついていたものを手放すことができます。今まで信じしがみついていたものを手放すというのは簡単なことではありません。「本当に手放しても大丈夫だろうか」という不安があります。「本当に信じるに価するものなのか」という疑問が生じます。パウロもそうだったのです。彼は熱心なユダヤ教徒のとき、キリスト者を捕え牢獄に入れようとしていました。そのためには外国の地にまで行こうとしていたのです。ところが、その途中で天から声が聞こえました。それはパウロが熱心に迫害していたイエス・キリストでした。その後パウロはどうしたでしょうか。ガラテヤ1:14~17に「     」と書かれています。パウロはイエス・キリストと出会いアラビアに行って時を過ごしたのです。すると、ある方は「パウロはイエス・キリストと出会い信じてイエス・キリストを宣べ伝えたのではないか」と思われるかもしれません。使徒の働き9章には、パウロがイエス・キリストと個人的な出会いをしたことが書かれています。そして、9:18~20には「     」と書かれています。使徒の働きには、パウロがアラビアに行ったことなど書かれてはいません。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。そのイスラエルの東側にはナバテア王国が支配していました。このナバテア王国はアラビア半島からダマスコの近くまで支配していました。ところが、紀元106年にローマ帝国に滅ぼされてしまいます。ナバテア王国が支配していた地域を「アラビア」と呼んでいたようです。パウロは、その地域に行ったのでしょう。ですから、9:19の前半と後半の部分は数年間の空白があったと理解することもできます。そのように考えますと矛盾してはいないのです。
 話しは戻りますが、イエス・キリストと出会ったパウロは本当に悩んだと思います。今まで信じてきたものを捨てて良いものかどうかということをです。悩み・考え・祈った答えは、イエス・キリストを信じ従っていくということでした。そして、彼の生き方は変えられました。何が変えられたのでしょうか。「これがないとダメだ」という生き方から「これがなくても大丈夫」という生き方に変えられたのです。今までしがみついていたものを手放すことができたのです。そしてパウロは、模範的な生き方ではなく見本的な生き方に変えられたのです。見本的な生き方とは、「こんな者でも神は愛してくださり用いてくださる」という生き方です。イエス・キリストを迫害していた者を罰するのではなく、愛し赦し用いてくださる。完璧な者でなくても神は愛し用いてくださることを、自分の生き方を通して伝えたのです。新しく変えられた人は信じるものが変えられます。

3)キリストの心が生じる
 最後に、キリストの心が生じます。今朝の箇所の16節の最後に「私たちには、キリストの心があるのです。」と書かれています。キリストの心とは、神の御心を知ることができるということです。神が人に願っておられることは、神の戒めや教えを一生懸命守り行うことではありません。人が神によって造られ生かされていることに感謝し喜びをもって歩むことです。人が人らしく生き生きと過ごすことです。人は「ありのままの自分が愛されている」と知るとき喜びを覚えます。そのとき、感謝と喜びをもって生きることができます。キリストの心は、私たちにそのことを悟らせてくださいます。逆に、私たちが神にありのままの自分が愛され受け入れられていると知ることができるのは、キリストの心が私たちの内にあるということです。
 では、人はどのようにして神の愛を知ることができるのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架による死と復活という福音です。神は私たちにご自身の愛を知らせるために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。それは、人が神の愛を知ってありのままの自分を愛し受け入れ自分らしく生きるためです。それと同時に、ありのままの人を愛し受け入れるためでもあります。イエス・キリストは、律法の専門家から「聖書の教えの中で何が一番大切なのか」と尋ねられたとき、「神を愛し人を愛すること」と答えられました。これがキリストの心なのです。争うのではなく愛することがキリストの心であり神の御心なのです。ですから、神によって新しく変えられた人は、神を愛し、自分を愛し、他人を愛する者へと変えられるのです。
 今まで、結果という目に見えるものでしか評価できなかった自分が、結果ではなく根本的なものによって評価する者へと変えられたのです。結果から評価しますと、弱さや足りなさに目を留めてしまいやすくなります。しかし、根本的なものから見ますと、可能性に目を向けやすくなります。この視点の違いは全く違ってきます。最初の方でも話しましたように見方・生き方が違ってきます。その見方は自分に対してだけでなく、他の人に対してもそのような見方へと変えられます。人に対する評価も結果からの見方ではなく、根本的なことからの見方に変えられます。すると、人に対しても否定的な見方から、肯定的な見方に変えられます。これが新しく変えられた人の生き方です。
 コリント教会には、1:11に書かれていますように争いがありました。「教会の中に争いがある」と聞かれますと驚かれるかもしれません。でも、教会であっても争いが生じるのです。何故なら、一人ひとりの考え方は違いますし、物事の受け止め方も違うからです。そのため、自分の考え方を主張してしまいやすくなるのです。ともすると、私たちは教会の中に争いがあることを問題にしてしまいやすくなります。しかし、教会の中に争いがあることが問題ではありません。何故なら、先ほども話しましたように考え方・受け止め方が違うからです。その違いの中で、みことばと祈りによって違いを受け止め、互いに助け合っていくのが教会なのです。そして、それを実践していくことがキリストの心なのです。イエス・キリストを信じる私たちには、そのキリストの心が与えられているのです。ですから、「できない者」ではなく「できる者」へと変えられているのです。その生き方も御霊の賜物の一つです。神によって新しく変えられた人は、見方・生き方が変えられる「キリストの心」という御霊の賜物が与えられているのです。

結)
 人は「自分が必要とされている」と知るとき、生きることに喜びを見出します。イエス・キリストを信じる全ての人には御霊の賜物が与えられています。神から御霊の賜物が与えられたということは、神がその人を必要とされているからです。神によって新しく変えられた人は神が必要とされている人です。この1年、「神が私を必要とされている」ということを覚えつつ歩まされていきましょう。

マタイ2:1~12「神への献げ物」  16.12.25.

序)
 クリスマスおめでとうございます。一昨日はクリスマスコンサートが行われ、昨晩はイヴ礼拝が行われ、そして今日はクリスマス礼拝の後に祝会が行われます。クリスマス行事が3日続き慌ただしいですが、今年最後のクリスマスを感謝と喜びをもって過ごしたいと思っています。日本の社会ではクリスマスは楽しい時であり、楽しく過ごすことが大切なように思われていますが、クリスマスは神に感謝し神に献げるものです。今朝は、博士たちが贈り物を献げた箇所から、神への献げ物について共に教えられたいと願っています。

1)黄金
 まず、博士たちが献げた贈り物は黄金です。今の金の価格を調べてみますと1g約4600円です。これは11年1月の時よりも約1000円上がっています。また、06年1月の時よりも約2600円上がっています。イエス・キリストがお生まれになられたときも金は高価なものでした。そして、その金は王に献げるものとして用いられていました。イスラエルの国においても、神と王に献げられていました。神はイスラエルにとって王なる方でした。そのため、出エジプト記に書かれています聖所や列王記に書かれていますソロモンが建てた神殿には金が用いられています。これは神がイスラエルの王であられることを示しています。ですから、黄金を献げるということは、その相手が王であることを表してもいます。
 すなわち、博士たちがイエス・キリストに黄金を献げたということは、イエス・キリストが王であられることを表してもいます。事実、博士たちはヘロデ王に「ユダヤ人の王として…どこにおいでになりますか。」と尋ねています。博士たちは、イエス・キリストが王であられることを告げています。コロサイ1:16~17には「     」と書かれています。この「御子」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは、私たちが生かされています世界を造られた方であり、私たちが生かされています世界を支配されている方なのです。すなわち、この世界の王なるお方なのです。イエス・キリストは神ご自身です。その神が人としてお生まれになられたのがイエス・キリストです。ですから、イエス・キリストはお生まれになられる前から存在されていたのです。神は目に見えないお方ですが、見えるものとして来られたのがイエス・キリストなのです。そのイエス・キリストに博士たちは黄金を献げたのです。ですから、黄金の献げ物はイエス・キリストが王なるお方であることを意味しているのです。
 イエス・キリストは王なる方としてこの世に誕生されました。では、誰の王なのでしょうか。それは、私たちの王として誕生されたのです。では、王とはどのような存在でしょうか。その国を治めている存在です。その国を治めているのですから、その国で生きる人たちは王に従う必要があります。ですから、私たちは王であられるイエス・キリストに従う存在でもあるのです。私たちは、自分の心の中にそのイエス・キリストを王として迎えているでしょうか。イエス・キリストを王として心の中に迎えるとは、心の中心にイエス・キリストがおられるということです。私たちの心の中心は誰でしょうか。イエス・キリストでしょうか。それとも自分でしょうか。
 また、王は国を治める存在ですが、同時に国を守る存在でもあります。国を守るということは、その国の中で生きている人を守るということでもあります。ですから、イエス・キリストが私たちの王であられるということは、私たちを守ってくださる方でもあるということです。私たちは生きている中で様々なことを経験します。それは感謝し喜ばしいことだけでなく、辛く悲しいこともあります。それら全てをイエス・キリストは守ってくださるお方なのです。守ってくださるというのは、辛く悲しいことも取り除いてくださるということではありません。辛く悲しいことを経験しつつも、それらを通してすばらしいことをしてくださるということです。イエス・キリストは、辛く悲しいことだけで終わらせるような方ではありません。そのことを通してすばらしいことをしてくださるお方です。何故なら、イエス・キリストは王なるお方だからです。イエス・キリストが私たちの王であられるなら、私たちはそのイエス・キリストに従う存在でもあります。黄金はそのことを表してもいるのです。

2)乳香
 次に、博士たちが献げた贈り物は乳香です。乳香というのは香ばしい香りとして神に献げられていました。今でも香水の原料として用いられています。その乳香について出エジプト記30:34では「純粋な乳香」と書かれています。当時においては、純粋な乳香を作るには手間暇がかかり貴重な品物とされていました。純粋な乳香ですから、他のものは混ざってはいけません。ですから、それは聖さを表してもいます。ですから、乳香を献げるというのは、その相手が聖い方であることを表してもいるのです。博士たちは、その聖さを表す乳香をイエス・キリストに献げたのです。それは、イエス・キリストが聖い方であることを表してもいるのです。そして、本当に聖い方は神しかおられません。私たち一人ひとりは決して聖い存在では決してありません。それは自分の心の中を探れば分かることではないでしょうか。
 その聖いお方が家畜小屋でお生まれになられたのです。先週の礼拝でも触れましたが、家畜小屋は決してきれいな所ではありません。今我が家には「五右衛門」という犬を飼っています。この犬は家の中でトイレをしないように躾けられていますが、散歩に行きますと何処ででもトイレをします。躾けられていない家畜は、家畜小屋でも平気でトイレをします。家畜の臭いとトイレの臭いが漂っています。家畜小屋は臭くて汚(よご)れている所であり、決して衛生的な所ではありません。そのような所に聖いイエス・キリストがお生まれになられたのです。先週の礼拝でも話しましたが「汚(よご)れ」という字は、「汚(けが)れ」とも読むことができます。そして、私たちの心は聖いものではなく汚れたものです。聖なるイエス・キリストが汚(よご)れた家畜小屋にお生まれになられたのは、汚(けが)れた心を持つ私たちと共にいてくださることを先週の礼拝で見ました。
 人というのは「分かったらできる」という存在ではありません。分かっていてもできないのが私たちです。犯罪が良くないことは誰でも分かっています。でも犯罪はなくなりません。人を妬むことが良くないことは分かっていますが妬んでしまいます。それが私たちなのです。本当に私たちの心は汚れています。でも、そのような汚(けが)れた心を持つ私たちをイエス・キリストは決して見放さず見捨てることはされません。そのような私たちと共にいて励ましてくださるのがイエス・キリストなのです。イエス・キリストは聖いお方ですが、汚(けが)れた心を持つ私たちと共にいてくださるお方なのです。そして共にいてくださるだけでなく、私たちの心を聖めることのできるお方でもあるのです。何故なら、イエス・キリストは聖いお方だからです。博士たちが献げた乳香は、イエス・キリストによって聖められることを表しているのです。

3)没薬
 最後に、博士たちが献げた贈り物は没薬です。没薬は強い殺菌力と良い香りを持っているもので、やはり貴重な品物とされていました。古代エジプトにおいては、没薬をミイラにするのに用いられていました。ですから、没薬は死者の葬りを意味するものだったのです。すなわち、イエス・キリストの死を表しているのです。誕生というのは、とても喜ばしいお祝いの時です。それなのに、「いくら高価なものだから」と言っても没薬を献げるのは常識外れのようにも思えます。しかし、イエス・キリストに限ってはそうではありません。何故なら、イエス・キリストは死なれるためにお生まれになられたからです。
 人は誰もが死を経験します。ある面では「死に向かって生きている」ということができます。しかし、全ての人は死ぬために生まれたのではありません。確かに死を経験しますが、それは生きたことの結果であって目的ではありません。誰一人、死ぬために生まれた人はいないのです。しかし、イエス・キリストだけは死ぬためにお生まれになられたのです。イエス・キリストの誕生は、十字架による死と切り離すことはできないのです。イエス・キリストは、私たちの罪のために身代わりとなって死なれるためにお生まれになられたのです。それは私たちが神にとって高価で尊い存在だからです。私たち一人ひとりは、神の目から見て宝物なのです。ですから、神は一番大切なイエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。イエス・キリストの誕生であるクリスマスは、神の愛のしるしでもあるのです。
 私たちは罪を抽象的に捉えたり、法律に違反する行為と捉えたりしてしまいやすいです。しかし、聖書は「妬みや高慢も殺人や盗みと同じである」と語っています。何故なら、殺人や盗みというのは結果だからです。法律で定める犯罪は、「自分の心を満たしたい」という自己中心の見える形として表されたものに過ぎないのです。妬みも人を殺すほどの力のあるものです。そのように思いますと、私たちの中に罪があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。その私たちの罪の身代わりとなって死なれるために、イエス・キリストはお生まれになられたのです。
 没薬はイエス・キリストの死を表していますが、同時に私たちの死をも表してもいるのです。それは、古い私がイエス・キリストにあって死ぬということです。イエス・キリストにあって死ぬとはどういうことかと言いますと、イエス・キリストは死なれた後に甦られました。古い自分がイエス・キリストにあって死ぬとは、新しい自分がイエス・キリストにあって生きるということです。人は死んで終わりではありません。死んだ後にも、その人の人生は続くのです。そして、イエス・キリストを信じる者には「甦り」という人生が備えられているのです。死の先にも希望があるのです。ですから、イエス・キリストにあって生きるということは、希望をもって生きるということでもあるのです。私たちは様々な事柄に遭遇します。それは口には出せない程の苦難に遭遇することもあると思います。しかし、どのような苦難に遭遇しようとも希望が与えられているのです。博士たちが献げた没薬は、イエス・キリストの死と復活を表しています。そして、そのイエス・キリストにあって私たちも死んでお終いではなく、甦りという希望が与えられていることを表してもいるのです。

結)
 博士たちが贈り物として献げた黄金と乳香と没薬には、そのような意味があります。私たちは、そのイエス・キリストによって守られ、聖められ、望みが与えられています。それと同時に、イエス・キリストに従う存在ともされています。1週間後は新年です。このクリスマスのとき、改めてそのことを決意して新しい年を迎え、イエス・キリストに従い続けられるように祈っていきましょう。

ルカ2:1~7「神が用いられたもの」 16.12.18.

序)
 いよいよクリスマスまで1週間となりました。先週の木曜日には、女性クリスマス会が行われました。人数的には少なかったのですが、良いひとときを過ごさせていただきました。料理も美味しかったですし、良い交わりのときでもありました。お祈りと奉仕に感謝します。そして、今週は金曜日にクリスマスコンサート、土曜日にイヴ礼拝と続きます。これらの集会が神によって用いられ、一人でも多くの方が集われることを祈っています。イエス・キリストが誕生されるとき、神は何を用いられたでしょうか。今朝は、その神が用いられたものについて共に教えられたいと願っています。

1)時
神が用いられたものの第1は時です。1節に書かれています「皇帝アウグスト」というのは、ローマの内乱を治めた初代皇帝です。その皇帝アウグストは人口調査を命じました。その目的は税金を徴収し、ローマ帝国の安定を図ってのものです。そのためヨセフは婚約者であり身重になっているマリアを連れて、ナザレの町から先祖ダビデが住んでいたベツレヘムの町に行くこととなります。そして、そのベツレヘムの町でイエス・キリストがお生まれになられました。ナザレという町からベツレヘムの町までの距離は直線で約100㎞です。名古屋市から直線で100㎞を見てみますと、西では京都市、北では高山市、南では伊勢市よりさらに南で道方町、東では浜松市を越えて磐田市となります。そのような距離をロバに乗ってではありますが身重の女性が行くというのは大変なことです。それほど住民登録の勅令は従わなければならないものだったのです。
旧約聖書のミカ書5:2には「     」と書かれています。ここには救い主がベツレヘムの町でお生まれになることが告げられています。もし、皇帝アウグストが住民登録の勅令を出さなければ、イエス・キリストはベツレヘムの町ではなくナザレの町で誕生されたことでしょう。このような勅令が出されていなかった方が、ヨセフとマリアにとっては苦労せずに出産することができたのです。ですが、そうなりますと旧約聖書が預言していたことと異なってしまいます。神は告げられたことを必ず成就されるお方です。「イエス・キリストがベツレヘムの町で誕生されるように導かれた」と捉えることもできます。そのように言われますと、ある方は「それは勝手なキリスト教の捉え方だ」と言われるかもしれません。確かにそうなのかもしれません。しかし、「どの視点で見るか」というのは大切なことではないでしょうか。
先日、「ナカイの窓」という番組を見ていました。この番組は毎回6名程のゲストが主演して討論し、そのことばや仕草を4名の心理学者が見て、一つのテーマの答えを出すというものです。今回は「東大卒VSおバカスペシャル」で、「どちらが幸せか」というテーマで行われました。これはあくまでも、心理学から見たものですが「おバカさんチーム」の方が幸せであるという結果でした。それは、東大卒チームの方々から出たことばは将来に対して不安することばが多く出たというものでした。ところが、おバカさんチームの方々から出たことばは肯定的なことばが多かったという評価です。1つの事柄に対してどの視点で捉えるかによって、否定的・消極的になるか、それとも肯定的・積極的になるかが分かれてきます。アウグストがローマ帝国の初代皇帝となり、国の安定のために様々なことを行いました。その中の1つである住民登録は偶々(たまたま)のように思えます。しかし、「それも神の備えであり導きである」と捉えるのも1つの視点です。
その視点で見るならば、「神は時代や時間などをも用いることのできる方である」という捉え方ができます。4日の礼拝で「神にとって不可能なことは一つもない」ということを見ました。これからマリアにとっては想像もつかない困難が待ち伏せています。しかし、それらに対して神は道を開いてくださることを見ました。身重である自分が直線で100㎞も離れた町に行かなければならないというのは、マリアは想像もしていなかったことでしょう。でも、ローマ皇帝の命令ですから従わなければならないのです。ですが、それによって旧約聖書の預言どおりに、救い主としてお生まれになられるイエス・キリストはベツレヘムの町で誕生されたのです。私たちの歩みにおいても、想像もしなかったことが生じることがあります。しかし、神はそれらをも用いてすばらしいことをしてくださる方であることを知らされるのではないでしょうか。伝道者の書3:11に「神のなさることは時にかなって美しい。」と書かれています。「美しい」とはグッドタイミングのことです。神は時代や時間をも用いることのできるお方です。

2)ヨセフとマリア
 神が用いられたものの第2はヨセフとマリアです。新約聖書の最初はマタイの福音書です。そのマタイの最初にはイエス・キリストの系図が書かれています。アブラハムの子孫としてダビデ王が誕生し、その子孫としてイエス・キリストが誕生されました。そのイエス・キリストの父はヨセフです。ですから、ヨセフという人はダビデ王の子孫です。日本でも、昔の有名な人の子孫が今も健在されています。有名なのが織田信長の子孫がフィギアスケートの織田信成さんです。彼が登場するまでは、私は織田信長の子孫に全く興味がありませんでした。また、NHKの大河ドラマで放映されています真田幸村の子孫について調べてみましたら、仙台におられるようです。兄の信之の子孫も健在されているようです。話しは戻りますが、そのヨセフの職業は何かと言いますと大工です。イスラエルの王であったダビデ家の子孫が大工という職業をしていたのです。これはダビデ家の衰退を表しています。当時では名が知れ渡っていたけれども今では有名ではないように、ダビデ家の子孫もイエス・キリストが誕生される時代では有名ではありませんでした。
 ですが、神は名もないヨセフとマリアを用いられたのです。当時のユダヤ教は形式的な信仰を持つ人たちが多かった時代です。それはユダヤ教指導者の中にもいました。しかし、そのような時代であっても、敬虔なユダヤ教指導者もいたと考えられます。ですが、神はそのような敬虔なユダヤ教指導者を用いられたのではなく、何処にでも居そうな敬虔な一般人の中から選び用いられたのです。その神の選びについて、Ⅰコリント1:28に「また、…神は選ばれました。」と書かれています。この世から見れば居ても居なくても大きな影響を及ぼすような存在ではない人を神は選ばれたことが書かれています。ヨセフとマリアもそうです。無名な存在であり、居ても居なくても大きな影響を社会に及ぼすような存在ではありません。しかし、神はそのようなヨセフとマリアを選び用いられたのです。聖書を読んでいますと、神に用いられた人は様々ですが、今でこそ有名ですが当時は無名な人が用いられていたということに気づかされます。
 例えば、アブラハムがそうです。今でこそ有名ですが当時は無名です。モーセにしてもそうですし、ダビデにしてもそうです。ダビデにしては、まだ少年だったのです。ダビデの前の王であったサウルもそうです。聖書は神に用いられた人に焦点を当てて書かれていますから今では有名人物となりましたが、当時においては無名な人が多かったのです。新約聖書においてもそうです。イエス・キリストの弟子たちは無名な人ばかりでした。新約時代で有名な人が用いられたのはパウロぐらいではないでしょうか。その事実を知らされるとき、有名であるか無名であるかは関係がないことを知らされます。また、4日の礼拝で見ましたように、特別な才能があるかないかも関係ありません。無名な人であれ、特別な才能がない人であれ、神に用いられるならすばらしい働きができるということです。そして、神は聖書に登場する人たちを用いられたように、私たち一人ひとりを用いてくださいます。神は人を用いられるお方です。

3)家畜小屋
 神が用いられたものの第3は家畜小屋です。聖書には家畜小屋とは書かれていませんが、イエス・キリストが寝かされていたのが飼い葉おけです。飼い葉おけとは御存知のように家畜のエサ箱です。ですから、イエス・キリストがお生まれになられたのは家畜小屋と考えられます。家畜小屋は決してきれいなものではありません。家畜の臭いが漂っていますし、衛生的な所ではありません。でも、赤ちゃんが生まれるのですから、生まれた赤ちゃんを寝かせる所が必要です。家畜小屋には赤ちゃんを寝かせる場所などありません。そのため、飼い葉おけが用いられたのでしょう。おそらく、ヨセフもマリアも飼い葉おけをそのまま使ったとは考えられません。きれいに拭いたことと思います。その飼い葉おけにわらを敷いたことでしょう。そうだとしても、生まれたばかりの赤ちゃんを飼い葉おけに寝かせるというのは、現代の日本人の感覚では考えられないことではないでしょうか。どれだけきれいにしたとしても、所詮は飼い葉おけです。でも、そのような汚(よご)れた所にイエス・キリストは誕生され寝かされたのです。
 神が人として誕生されたイエス・キリスト。神は聖なるお方ですから、イエス・キリストが誕生される所も聖なる場所であるなら分かります。ですが、聖なる場所とは程遠い汚(よご)れた家畜小屋で誕生されたのです。それが表しているのは、神は汚(よご)れた人の中に住んでくださるということです。人の中に住んでくださるとは、「共におられる」ということです。もしイエス・キリストが聖なる場所で誕生されていたのであれば、神は汚(よご)れた人の中には住まわれませんから、汚(よご)れた人とは共にはおられないということになります。今朝の箇所ではなく来週の箇所になりますが、神がイエス・キリストの誕生を最初に知らせたのは羊飼いでした。ユダヤ教の指導者や社会的身分の高い人たちではありませんでした。それは神が汚(よご)れた人と共にいてくださる方だからです。
 私たちの心は決してきれいなものではありません。むしろ汚(よご)れているものです。この「汚(よご)れ」という字は「汚(けが)れ」とも読みます。私たちの心が汚(よご)れているものであるならば、汚(けが)れているものでもあります。イエス・キリストは、心の汚(けが)れている人の中に住んでくださる方であり、共にいてくださる方であることを示してもいます。神が汚(よご)れた家畜小屋を用いられたことの意味はそこにあるのです。神は心の汚(けが)れた私たちを審いたり見捨てたりするためではなく、赦し共にいてくださる方であることを示すために、イエス・キリストを家畜小屋で誕生させられたのです。イエス・キリストが家畜小屋で誕生されたことに感謝したいものです。

結)
 あと1週間でクリスマスです。今週は金曜日にクリスマスコンサート、24日はイヴ礼拝と続きます。そして、来主日はクリスマス礼拝です。神は様々なものを用いることのできるお方です。何よりも心の汚れた私たちを用いてくださるお方です。その私たちを神は赦し共にいてくださることを示すためにお生まれになってくださったイエス・キリストを一人でも多くの人に伝えるために、このクリスマスのとき私たちが用いられるように祈っていきたいものです。

天におられる父なる神様。あなたは様々なものを用いることのできるお方です。あなたは汚れた家畜小屋を用いられました。聖なるイエス・キリストは汚れた家畜小屋にお生まれになられました。それは心の汚れた私たちを赦し共にいて用いてくださるためです。どうぞ、このクリスマスのとき、私たちが用いられることを祈っていくことができますように助けてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン。

マタイ1:18~25「クリスマスが現すもの」  16.12.11.

序)
 この時季になりますと、街の至る所でイルミネーションが飾られ、クリスマスが近いのを思わされます。今年は25日が日曜日です。幾つかの教会は、この日にバプテスマが授けられます。私自身も12月25日にバプテスマを受けた一人です。今から39年前です。丁度40年前なら嬉しかったのですが、そうではありませんでした。今まで様々なことがありましたが、ここまで信仰が守られ支え導かれたことを神に感謝しています。バプテスマを受ける前の私は、「バプテスマを受けることが信仰のゴール」と思っていましたが、そうではなく信仰のスタートということを知らされ受ける決心をしたことを思い出します。皆さんは、クリスマスのとき何を思わされるでしょうか。今朝は、そのクリスマスが現すものについて共に教えられたいと願っています。

1)罪からの救い
 クリスマスが現すものの第1は罪からの救いです。21節に書かれていますように、神の使いは「この方こそ…方です。」とヨセフに現れて告げました。イエス・キリストは、ご自分の民を罪から救うためにお生まれになってくださったのです。それは、イエス・キリストを信じる人を罪から救ってくださるためにお生まれになられたのです。聖書は「全ての人は罪を犯した」と語っています。ですから、全ての人が罪人なのです。聖書が定めています罪とは、この世が定めている罪とは違います。この世が定めています罪とは、法律を犯してしまうことです。盗みや詐欺や傷害や殺人などです。結果として表れるものを罪と定めています。ですが、結果として表れないものに対しては罪とは定めてはいません。例えば、欲望や妬みや憎しみなどがそうです。これらをどれだけ心の中で抱いたとしても、決して罪と定められることはありません。何故なら、人に見える形としての害を与えてはいないからです。しかし、聖書はこれらのものも罪と定めています。聖書が定めています罪とは、結果ではなくて根本的なものを指しています。人の中に欲望や妬みや憎しみが生じてしまいますから、法律を犯してしまうような罪を犯してしまうのです。この根本的なものは、全ての人が持っているものです。ですから、聖書は「全ての人は罪人である」と語っているのです。
 罪とは、ギリシャ語で「ハマルティア」と言います。これは「的外れ」という意味です。人が罪を犯してしまう原因は、人が的外れな生活をしているからです。では、何から的を外しているのでしょうか。それは神の法則の生活から的を外しているのです。では、神の法則とは何でしょうか。神は、神のすばらしさを現す生活を人に求めておられます。私たちは神のすばらしさを現す生活とは、「神のために働くこと」とか「教会の奉仕を一生懸命すること」とか「品行方正な生活をすること」と思いやすいのではないでしょうか。確かに、これらはすばらしい生活です。でも、これらが一番大切なことではありません。一番大切なのは、神に感謝しつつ生活することです。すなわち、神に目を向ける生活です。
 ところが、人は神に目を向けることをしないで、自分のことに目を向けてしまいます。「神のために働く」とか「教会の奉仕を一生懸命する」とか「品行方正な生活をする」というのは、神に目を向けている生活ではないかと思われます。ところが、人は「私はこういうことをした」とか「私はああいうことをした」と言ってしまいやすいものです。それは神に目を向けているのではなく、自分に目を向けていることになります。何より自分のことに目を向けるというのは自己中心です。それが聖書の語る罪です。本当は神に目を向けた生活が求められているのに、その的を外して自分に目が向けられている生活が的外れな生活なのです。それが罪なのです。それが神に目を向けるようになり、神に感謝して歩めるようになることが罪からの救いなのです。イエス・キリストは、私たちが神に目を向ける生活ができるようになるために、お生まれになってくださったのです。

2)神の確かさ
 クリスマスが現すものの第2は神の確かさです。22節に「このすべての…成就するためであった。」と書かれています。この「すべての出来事」というのは、イエス・キリストが処女マリアの胎に宿られ、ベツレヘムでお生まれになられたまでのことです。御使いは、そのことを「主が預言者を通して言われたこと」と語っています。イエス・キリストの誕生は、ずっと前から預言されていました。イエス・キリストの誕生は、その神の約束の成就だったのです。イエス・キリストの誕生によって、神は約束されたことを必ず成し遂げてくださるという、神の確かさを表しているのです。神の約束は、イエス・キリストの誕生だけではありません。罪からの救い、神の愛、神の臨在も約束されています。イエス・キリストの誕生は、罪からの救い・神の愛・神の臨在の確かさを表しているのです。
 まず罪からの救いですが、イザヤ43:1で神は「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。」と語られました。贖いとは、代価を支払って買い取られたということです。すなわち、買い取るために犠牲が払われたというのです。「神は何を贖われたのか」と言いますと罪です。先程話しましたように、人は自己中心という罪を持っています。その罪を神は犠牲を払って買い取ってくださったのです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かられ、父なる神の罰を受けてくださったのです。聖書は、「イエス・キリストを信じる者は罪が赦される」と語っています。でもそれは、何の犠牲もなく罪が赦されたということではありません。イエス・キリストというお方の尊い命が支払われているのです。そのことによって、人は神に目を向けることができるようになったのです。
 教会の集会の多くは無料の集会が多いです。今週行われます女性クリスマス会は500円が必要ですが、それは材料費の一部を負担していただくためです。ですが、その他のクリスマス集会は無料です。何故無料にしているのかと言いますと、人が来やすくするためというよりも、罪からの救いはお金に換算できないから無料なのです。決して、罪の赦しはタダではないのです。私たちが罪から救われるために、イエス・キリストの尊い命が支払われているのです。神は「罪を贖う」と言われました。罪の赦しは、イエス・キリストによって確かなものとされたのです。
 また神は、イザヤ43:4で「わたしの目には…あなたを愛している。」と語られました。神の目から見て、私たちは高価で尊い存在なのです。かけがえのない存在なのです。何故なら、あなたは世界で一人しかいないからです。自分に似た人はおられます。今ではクローンで外見上は同じ人を誕生させることができます。しかし、性格や考え方・感じ方まで全て同じというわけではありません。私という人間は一人しかいないのです。その私たち一人ひとりを神は愛してくださっているのです。その神の愛は徹底的な愛です。決して中途半端な愛ではありません。愛し通してくださるのです。愛し通してくださるというのは、決して見捨てることはないということです。私たちがどんな弱さを持とうとも、神は決して私たちを見捨てることはされません。私たちを守り支え導いてくださいます。何故なら、私たちのためにイエス・キリストをこの世に誕生させてくださったからです。私たちを愛するが故に、私たちの身代わりとなって死なれるために、イエス・キリストはお生まれになられたのです。それほど私たちは神に愛されているのです。イエス・キリストの誕生によって、神の愛が確かなものであることが現されたのです。

3)神の臨在
 クリスマスが現すものの第3は神の臨在です。神は、イザヤ43:5で「恐れるな…いるからだ。」と語られました。神はいつも私たちと共にいてくださいます。神が共にいてくださるというのは、先週の礼拝でも話しましたが「何の試練もない」ということではありません。イスラエルの民は、神によって奴隷として生活していたエジプトから救い出され、神の約束の地であるカナンの地に入る直前に、自分たちの指導者であるモーセを亡くしました。神はモーセの後継者としてヨシュアを立てられました。そのヨシュアに「わたしは、あなたを見放さず見捨てず、どこに行っても共にいる」と告げられました。その後、ヨシュアはイスラエルの民の指導者として立たされ、カナンの地に進んで行きました。カナンの地での戦いは、ヨシュアを始めイスラエルの民にとっては信仰の戦いでもありました。その戦いの中で、破れたこともあれば、恐れを抱いたこともありました。神が共にいてくださっているにも拘らず、決して平坦な歩みではなかったのです。ですが、最終的にはイスラエルの民はカナンの地を征服することができたのです。神が約束を成就されたのです。それは神が共にいてくださったからです。神が共におられるというのは、平坦な歩みができるということではありません。信仰生活は決して平坦なものではありません。不安や恐れを抱いたり、失敗して落ち込んでしまうこともあります。ですが、神はそのような経験をする私たちに対して、「わたしは、あなたを見放さず見捨てず共にいる」と約束してくださっているのです。弱い私たちに対して、神は決して見捨てることをされず共にいてくださるお方なのです。ヨシュアは様々な戦いを経験し、その経験を通して神が共にいてくださることを深く覚えさせられたのです。神の恵み深さを知らされたのです。私たちもそうではないでしょうか。様々なことを経験しつつ、その経験を通して神の臨在を深く覚えさせられているのではないでしょうか。もし、そのような経験がなれれば、神の恵みを忘れてしまい、自分自身を誇り神に目を向けなくなってしまうのではないでしょうか。イエス・キリストの誕生は、神が私たちと共におられることの現れです。神がどのような時においても、私たちを守り支え導いてくださることの現れなのです。私たちは、これからも様々なことを経験させられます。しかし、神は共にいてくださり守り支え導いてくださいます。私たちはそのことを覚えたいものです。

結)
 クリスマスが現すものは、罪からの救いであり・神の愛・神の臨在です。これらは全て私たちのためです。イエス・キリストは、私たちのためにお生まれになってくださったのです。先週はマリアを見ました。そのマリアは、その後「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」と告白しています。今年1年、神はどのようなことをしてくださったでしょうか。そのことを思い巡らしつつクリスマスを迎えたいものです。また同時に、そのことを思い巡らすだけでなく、「今後神はどのようなことをしてくださるのか」という神のみわざにも期待しつつクリスマスを迎えたいものです。

ルカ1:26~38「神の約束」  16.12.04.

序)
 いよいよ12月に入りました。昨日は教会のクリスマス行事として最初の子供クリスマス会が行われました。お祈りと奉仕に感謝します。クリスマスはイエス・キリストが誕生されたのを祝うときです。そのイエス・キリストの母はマリアです。マリアは天の御使いのことばから、38節に書かれていますように「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と告白しています。何故、このような告白ができたのかと言いますと、神の約束を信じていたからです。今朝は、マリアへの受胎告知から神の約束について共に教えられたいと願っています。

1)神が共におられる
 神の約束の第1は、28節の最後に書かれていますように、主であられる神が共におられることです。聖書から想像しますマリアという女性は、特別に何かができる女性ではなかったように思えます。今、月に1度行われていますオリーブの会では、旧約聖書に登場する女性を学んでいます。先月はルツという女性を見ました。その時にも触れましたが、ルツという女性は教会の中では有名な女性の一人ですが、特別な才能を持っていた女性ではありませんでした。何の取り柄もない、何処にでもいそうな女性です。でも、神はそのルツに目を留められたのです。ルツ記の中には、神の特別な介入というものは描かれてはいません。誰もが経験するような出来事の流れの中で、ボアズという男性と出会い結婚へと導かれます。でも、聖書はその背後に神の導きがあったことを描いています。そのルツの子孫がイスラエルの2代目の王であるダビデであり、さらにその子孫としてイエス・キリストが誕生されるわけです。ですから、系図から言えばルツはイエス・キリストの先祖となるのです。そのルツの取り柄があると言えば忠実であったということです。
 今朝の箇所に登場しますマリアも、そのルツと似ているところがあります。彼女も特別な才能が与えられている女性でもなければ、何の取り柄もない女性です。あるとしたら、ルツと同じように忠実であったということです。神はそのようなマリアに目を留められ御使いを送られたのです。その御使いは、マリアに「おめでとう、恵まれた方。」と語りました。何がめでたいのかと言いますと、神に特別に目を留められたからです。その神はマリアにイエス・キリストを身ごもらせられます。まだ結婚していないマリアが妊娠するのです。今では結婚する前に妊娠され、結婚される女性がおられます。「できちゃった婚」とか「おめでた婚」などと言われますが、マリアにとって妊娠は決して喜ばしいものではありません。何故なら、当時は結婚する前に身ごもりますと石打という死刑に処せられるからです。
 私たちは、このマリアへの受胎告知から「神の恵みというのは、時には私たちの想像を越えたものである」ということを知らされるのではないでしょうか。神の恵みというのは、その時には喜ばしくないものもあるのです。「何故」とか「何のために」と思える事柄に遭遇することがあるのです。でも、それは私たち人間の側の視点であって、神の視点から見れば恵みそのものなのです。その時には恵みとは思えないのです。むしろ災難なのです。ですが、マリアは神が共にいて導いてくださっているという神の約束を信じたのです。神が共におられるというのは、超自然的な方法をもって導いてくださるということではありません。確かに、そのような方法を用いて導かれることもあります。しかし、ルツの歩みのように、ごく自然の流れの中にも神の導きがあるのです。むしろ、そちらの方が多いのです。その流れの中で何に目を留められるかが大切なのではないでしょうか。すなわち、「神が共におられることに目を留められるか留められないか」ということにです。神は共におられることを約束してくださっています。いつも、そのところに目を留められるように祈っていきたいものです。

2)聖霊が臨み、神の力が覆われる
 神の約束の第2は、35節に書かれていますように、聖霊が臨み神の力が覆われるということです。「聖霊があなたの上に臨み」ということばから、使徒の働き1:8のみことばを思い起こさせられます。そこには「聖霊が…力を受けます。」と書かれています。「聖霊が臨む」とは何かと言いますと、「聖霊なる神がその人の内に住まわれる」ということです。聖霊なる神がその人の内に住んでくださるのですから、神が共にいてくださるということです。聖霊なる神がその人の内に住んでくださるとどうなるかと言いますと力を受けるのです。今朝の箇所には「いと高き方の力があなたをおおいます。」と書かれています。これは「神の力を受ける」ということです。今朝の箇所にも使徒の働きにも、聖霊が臨むとき力を受けることが語られています。聖霊と力には関係があることが示されています。では、聖霊が与える力とはどのようなものでしょうか。
 ある方は「使徒の働き」を「聖霊の働き」と話されていました。彼らがすばらしい働きをすることができたのは、その背後に聖霊なる神の働きがあったからです。ところが、使徒の働きを見てみますと、その働きは決して順調なものではありませんでした。ユダヤ教徒から迫害を受け、異邦人からは馬鹿にされたりしました。聖霊が臨むとは神が共におられるということですが、それは必ずしも何の苦難もなく物事が順調に進むということではありません。神が共におられても苦難に遭遇し、悩み苦しむことがあるのです。使徒の働きを読みますと、そのことがよく分かるのではないでしょうか。先程も話しましたように、ユダヤ教徒からは迫害を受け、異邦人からは馬鹿にされました。使徒の働き1:8でイエス・キリストから約束を受けたのに、様々な苦難に遭遇するのです。しかし、彼らは遭遇する苦難に耐えて、与えられている務めを忠実に果たしていくことができたのです。何故でしょうか。それは力を受けていたからです。
 聖霊が与えてくださる力というのは、迫ってくる様々な苦難を倒すというものではありません。ともすると、私たちは「力を受ける」とは「相手を倒すこと」と捉えてしまうのではないでしょうか。そのように捉えるのは男性の方が多いかもしれません。ですが、聖書が語っています「力」というのはそうではなく耐えることです。迫ってくる苦難の中で、与えられていることを忠実に果たし続けることのできる力です。「何故果たし続けることができるのか」と言いますと、神が全てのことを働かせて益としてくださることを信じているからです。そのところに目を向けさせるのが、聖霊が与えてくださる力です。
 マリアは結婚もしていないのに、子どもを授かるということを御使いから聞きました。これから様々なことがマリアに迫ってきます。まずは両親からの目です。聖書にはマリアの両親は登場しません。しかし、マリアは両親と共に住んでいたと理解するのが自然です。バプテスマのヨハネの両親であるザカリヤ夫妻とは親類関係でありますから、両親もザカリヤ夫妻のことを聞いていたことでしょう。マリアから話しを聞いた両親は、ザカリヤ夫妻のことを思い出し受け入れられたかもしれません。しかし、近所の人たちはどうなのか。様々なことがマリアの頭の中をよぎったことと思います。ですが、神の力に覆われて乗り切られることを信じたのです。その神の力は、私たちにも覆われています。神が全てのことを働かせて益としてくださることを信じ、目の前の事柄に忠実に果たし続けられるように祈っていきたいものです。

3)神にとって不可能なことは一つもない
 神の約束の第3は、神にとって不可能なことは一つもないと知ることです。この「不可能」と訳されていますことばは、力を現す「ドゥナミス」ということばが用いられています。これはダイナマイトの語源であり、「力のないものはない」と訳すことができるそうです。それはどういうことになるかと言いますと、「神の全てのことばは力のないものはない」となり、さらに言いますと「神が語られた全てのことばは力そのものである」ということです。それは、「どのような不可能も爆破し、粉々に砕く確かな約束である」ということです。別の表現をするならば、「神が全てのことを働かせて益としてくださる」ということです。
 私たちは遭遇します様々な事柄に遭遇します。そして、回りを見渡しても「どうしようもない」という経験をすることがあります。そのようなものに遭遇しますと、私たちは悩み・恐れ・不安を抱いてしまいます。でも、それらを神は爆破して粉々に砕いてくださるのです。爆破するということは、道を開いてくださるということです。これからのマリアの歩みには困難が待ち伏せています。想像もしなかったことを経験するかもしれません。ですが、神が道を開いてくださるのです。「だから、神の約束のことばに信頼し歩み続けるように。」と御使いはマリアに告げているのです。それに対して、マリアは38節で「ほんとうに…この身になりますように。」と告白しています。「はしため」とは仕える者のことであり奴隷を意味しています。彼女は「主のはしため」と告白しています。仕える者は、主人のことばに従います。ここでマリアは、神のことばに仕えていくことを告白しているのです。「この身になりますように」とは、「体験できますように」ということです。そして、体験するには行動が伴います。これからも日々の生活の中で、どのようなことが起ころうとも神の約束のことばに信頼して歩み続けることを決断したのです。
 このマリアの決断は、私たちにとっても大切なことではないでしょうか。先程も話しましたように、私たちは様々な事柄に遭遇します。時には四面楚歌のようなものにも遭遇します。どれほど回りが大きな壁であったとしても、私たちには上を向くことができます。神に祈ることができます。神はその壁を爆破することができます。Ⅱサムエル記5:22~25に「     」と書かれています。ダビデはペリシテ人との戦いのとき神に祈りました。すると、神はペリシテ人の前に立つのではなく、うしろに回ることを命じられました。そして、ダビデは神が命じられた通りにしたとき勝利を得ました。ここから幾つかのことを教えられますが、その1つは「神のことばを信じるというのは行動が伴う」ということです。マリアは神の約束のことばを信じ日々の生活を過ごしたのです。それと同じように、神は私たちが直面します様々な事柄に対して益としてくださることを信じ、神のことばに信頼して歩み続ける者とさせられたいものです。

結)
 今朝は、マリアへの神の約束を見ました。神が共におられ、聖霊が臨み神の力が覆われ、全てのことを働かせて益としてくださるという約束は、マリアだけでなくイエス・キリストを信じる全ての人になされているものです。そうなのですから、イエス・キリストを信じる私たちにとって大切なことは、38節のマリアの告白です。私たちも、「本当に私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことば通りこの身になりますように。」と祈りつつ、日々の生活を過ごせるように祈っていきましょう。

ヨハネ4:24「霊とまことによる礼拝」  16.11.27.

序)
今日からクリスマスに備えるアドベントに入りました。昨日は、上岡姉のご主人と松山姉のご主人のご協力によってイルミネーションを飾ることができました。また、このお二人によって、イルミネーションのクリスマス人形を入れる箱を作っていただきました。今年の春に樹木を伐採しました。今までは、その樹木にイルミネーションを飾っていましたが、今年からは飾ることができなくなりました。ですが、お二人のご奉仕によって、別のイルミネーションを飾ることができるようになりました。お二人には本当に感謝したいものです。クリスマスは、御存知のようにイエス・キリストの誕生を記念して祝うときです。クリスマスの「クリス」とはキリストのことで、「マス」とはミサのことで礼拝を意味します。ですから、「クリスマス」とはキリストを礼拝するという意味です。そのクリスマスに備えるアドベントにおいて最も大切なことは、イエス・キリストの誕生の意味を思い巡らしつつ心から主を礼拝することです。今朝は、霊とまことによる礼拝について共に教えられつつ、アドベントの時を過ごさせられたいと長っています。

1)場所に囚われない
 まず、礼拝は場所に囚われないということです。このヨハネ4:24は、イエス・キリストがサマリヤの女性との会話で話されたものです。サマリヤ人は「ゲリジム山が礼拝の場所である」と信じていました。その根拠は申命記11:29に書かれています「ゲリジム山には祝福を」ということからです。これはヨシュア記8:33に書かれていますように、ヨシュアがアイの町に勝利したとき実行されました。ですが、ユダヤ人は「エルサレムが礼拝の場所である」と主張します。何故なら、神殿がエルサレムに建てられているからです。それらに対して、イエス・キリストは「場所に囚われずに礼拝する時が来る」と話されたのです。すなわち、何処でも神を礼拝できるということです。何故でしょうか。何処にいても神が共にいてくださる時が来るからです。実際に復活されたイエス・キリストが天に挙げられてから、聖霊なる神がイエス・キリストを信じる者の内に住まわれました。それによって、イエス・キリストを信じる者の身体が神の神殿とされたのです。何処にいようとも神を礼拝できるようになったのです。礼拝というのは、礼拝堂の中でしか行えられないものではありません。何処に居ようとも神に礼拝を献げることができるのです。
「それならば、教会に行かなくても良いのではないか」という考えが起こらなくもありません。私自身そのような考えを持っていたのです。大阪から金沢に転勤になりました。私は元々津の教会出身です。村上先生からは、同盟教団の金沢中央教会を紹介されたのですが、その前に自分で教会を探し行くようにしていました。私たちの団体はバプテストですから、バプテスト教会を探したのです。ところが、当時は自動車免許を持っていなかったのでバス・電車・バスと乗り換えて、約1時間半かかって通っていました。すると、次第に教会から遠のくようになりました。そして、ある日「教会に行かなくても、聖書を読み祈っていれば良い」と考えるようになったのです。そして教会に通わなくなりました。会社の寮で聖書を読み祈っていたのです。それが約2年半続きました。もし、村上先生が紹介してくださった金沢中央教会でも1時間半ほどかかりましたから同じようなものです。ある日、「これは聖書的ではない」と思わされ、遠い教会は嫌なので近くの教会を探しました。すると車で5分もかからない所に教会がありました。当時は民家を改装して建てられた教会です。駐車場もありませんがその教会に通うようになり、献身へと導かれ、今日に至っているわけです。
Ⅰコリント14:33に「神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」と書かれています。この「混乱」ということばは、本来「無秩序」という意味のことばで、秩序がないことを意味しています。このことから「平和」というのは、混乱の逆と考えるのが妥当です。すなわち「秩序がある神」ということです。秩序を乱すことを嫌われる神なのです。その場所で賛美され、聖書の説き明かしがなされていようとも、教会の秩序を乱した礼拝は受け入れられないのです。ですから、教会に通わず家で礼拝しても良いということではないのです。これは間違いなのです。イエス・キリストが話されています礼拝は、場所には囚われませんが秩序が伴った礼拝を求めておられるのです。

2)霊による礼拝
イエス・キリストが話されています礼拝は、場所には囚われませんが秩序が伴った礼拝です。その秩序が伴った礼拝とは、霊とまことによる礼拝です。では、霊による礼拝とは何でしょうか。神は人を霊的な存在として造られました。神が造られたもので霊的な存在として造られたのは人間だけです。神は霊なるお方です。そして、人も霊的な存在です。ですから、神と人とは霊を通して交わり合うことのできる関係とされているのです。人が霊的な存在に造られた目的は、霊なる方であられる神と交わり合うためです。24節の「霊とまこと」の「霊」とは人間の霊のことです。私たちの霊は、身体の内にあります。内にある霊が外にあふれ出る礼拝が霊による礼拝です。詩篇には、喜びの声を上げることが何度も書かれています。そして、喜びというのは心の中から生じるものです。礼拝は心の中から生じるものであり、環境によって整えられるものではないのです。ですから、場所や建物は関係ないのです。
では、霊によって心から神を礼拝するには何が必要でしょうか。第1は、自分自身を聖霊なる神に明け渡すことです。先週の礼拝の箇所ですが、Ⅰコリント2:11に「神のみこころ…知りません」と書かれています。この箇所から、「神の御心を知るというのは、神の救いのご計画を知ることではなく、神の救いの目的を知ることである」と話しました。自分が何のために救われたのかという目的を知るには、聖霊なる神が私たちの心に働かれない限り知ることはできません。先週の礼拝でも話しましたが、神が私たちに願っておられることは、今生かされていることに感謝し喜びをもって生きることです。今までⅠコリントの手紙を見てきた中で言うならば、「居ても居なくても変わらないような小さな自分ではありますが、そのような自分に神が目を留めてくださり用いてくださる」ということに感謝し生きることです。そのような生き方に変えてくださるものはイエス・キリストの十字架を知るしかないのです。イエス・キリストを救い主として信じるしかないのです。神に生かされていることに感謝し、喜びをもって生きる者とされるなら、その神に感謝し喜びをもって礼拝を献げることができます。これが霊による礼拝です。ですから、霊による礼拝はイエス・キリストを信じることが大切なのです。
霊によって心から神を礼拝するに必要な第2は、自分自身の思いを礼拝に集中することです。詩篇86:11でダビデは「自分の心を一つにしてほしい」と願いました。何のためにでしょうか。11節の最後に「御名を恐れるように。」と告白しています。「御名を恐れる」とは礼拝することです。ダビデは「神を礼拝するために、自分の心を一つにしてほしい」と願ったのです。このことは、ダビデの心の中に神を礼拝する思いと神を礼拝しない思いがあったということです。その戦いの中でこのように祈ったのです。神を礼拝しない思いとは何かと言いますと、礼拝に集中しないということです。礼拝中に他のことを考えるというのは、私たちにも起こるのではないでしょうか。礼拝中に他のことがふと浮かぶということがあるのではないでしょうか。礼拝に関連したものを思い出すのならまだしも、全く違うものがふと思い浮かぶことがあるのです。例えば、「家の鍵をちゃんと閉めただろうか」などです。そういうのがダビデにもあったのです。だからダビデは礼拝に集中できるように祈ったのです。「礼拝とは全く違うものが思い浮かんでしまうということが悪い」と言っているのではありません。私たちは思い浮かんでしまうのです。だからこそ、礼拝に集中できるように祈るのは大切なことです。
霊によって心から神を礼拝するに必要な第3は、自分自身の罪が赦されることです。礼拝は神との聖い交わりの場でもあります。その場に入れられるには、汚れである罪が処理される必要があります。詩篇139:23~24で、ダビデも自分自身で完全に自分の心を理解していないことを告白しています。自分自身では気づかない罪があるかもしれない。だから、そのために赦しをいただく必要があり祈っているです。このことは私たちも同じです。自分では気づかない罪があるかもしれません。そのために礼拝の前に赦しのために祈るのは大切なことです。
これら3つが、霊によって心から主を礼拝するために必要なことです。礼拝の前の黙想は短い時間ではありますが、自分の罪の赦しと礼拝に集中できるように祈る時でもあります。あらゆる雑念から解放され、神にだけ心を向けられるように祈る時でもあるのです。それは、汚れた者である私が聖い神の御前に出ることが許されていることへの感謝と、あらゆる雑念から解放され礼拝に集中できるように祈る時なのです。

3)まことによる礼拝
礼拝は霊によって心から神を礼拝することが大切です。しかし、イエス・キリストは「まことによっても礼拝する必要がある」ことをも話されています。礼拝は心からの感謝と喜びをもって礼拝することは大切なのですが、それはまことの上に築かれたものでもあるのです。詩篇145:18に「     」と書かれています。ここには「まこと」が、神に受け入れられる礼拝のために欠かせないことが書かれています。そのまこととは何でしょうか。そのことについてヨハネ18:37~38を見てみたいと思います。イエス・キリストは、ピラトに対して「わたしは真理の証しをするために生まれ、このことのために世に来た」と話されました。するとピラトは「真理とは何か」とイエス・キリストに尋ねました。ところが、イエス・キリストの答えは書かれていません。イエス・キリストが答えられなかったのか、答えたけれどもかかれなかったのか、それともピラトがイエス・キリストが答えられる前に出て行ったのかは分かりません。ですが、その答えが17:17に「あなたのみことばは真理です。」とイエス・キリストは祈られました。真理とは神のことばです。ですから、礼拝は神のみことばを理解することの上に築かれているのです。
パウロはⅠコリント14:23~25で「     」と語っています。パウロは異言で礼拝が行われているコリント教会を非難しているのです。何故でしょうか。それはことばが理解できないからです。礼拝は神のみことばが説き明かされて初めて成り立つのです。神のみことばの説き明かしがないないなら、それは礼拝とは言えないのです。メッセージにしても、興味深いものや面白かったり楽しかったりするものを望む人がいないわけでもありません。しかし、その中心にあるものは何かと言いますと「自己満足」です。礼拝とは自己満足させるものではありません。受けるものではなく献げるものです。教会の礼拝の中でなされます説教とは神のみことばの説き明かしです。「神がどのような方であるか」というのを聖書を通して語られるものです。神のみことばと説教を通して、私たちに語りかけてくださるという姿勢を持つことが大切です。
まことによる礼拝とは、神についての正しい知識をもった礼拝です。神についての正しい知識は、神のみことばの説き明かしである説教を通して与えられます。礼拝は神のみことばと説き明かしが中心ですから、その神のみことばに聞き従う礼拝を献げることが大切です。どれだけ熱心であったとしても、神のみことば抜きの礼拝を神は受け入れられません。「それはどういうことか」と言いますと、一番良い例がレビ記10:1~2に「     」と書かれていますアロンの2人の息子であるナダブとアビフでしょう。彼らは神が定められたものと異なった火を神の前に献げました。すると、神の怒りに触れ焼き尽くされたのです。ナダブとアビフは祭司ですから、神の教えを無視して行ったとは考えにくいです。考えられることは「この方がより良い」と思っての、神に対する善意の思いで行ったと考えられます。それでも、神が定められた方法の方が大切なのです。
新約時代では、事細かな儀式的なことや場所については囚われなくなりました。しかし、神が求めておられる礼拝は、霊とまことによる礼拝です。神のみことばに聞き従う礼拝です。どれだけ良いと思っても、神が求めておられない仕方での礼拝であるならば、決して神に受け入れられることはないのです。

結)
礼拝は場所や儀式的なものに囚われませんが、霊とまことによる礼拝が求められています。その霊とまことによる礼拝は、神のみことばの上に築かれた心からの感謝と喜びによる礼拝です。主は私たちが生かされていることに感謝し、喜びをもって生きることを望んでおられます。そのためにイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。それがクリスマスです。私たちは、そのイエス・キリストによって希望のある人生を過ごすことができるようになったのです。そのイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを覚えつつ、霊とまことによる礼拝をこれからも献げていきましょう。

Ⅰコリント2:10~12「聖霊なる神の働き」  16.11.20.

序)
 先週の金曜日に、私たちの団体の愛知県にある教会の牧師夫妻による祈り会が、名古屋教会の牧師館にて行われました。以前は東海地区の牧師・宣教師夫妻が集っていましたが、自然消滅した状態でした。近隣の方が良いということで、愛知県地区に絞り数年ぶりに再開いたしました。すると、以前に行われていました祈祷会で参加していたのは私たち夫婦だけというものでした。それだけ長い間行われていなかったのです。会話の中で自然と救いの証しの話しになっていきました。すると、背後に働かれる聖霊なる神の働きに全員感動させられました。今朝は、その聖霊なる神の働きについて共に教えられたいと願っています。

1)救い
 聖霊なる神の働きの第1は救いです。10節の最初に「神はこれを」と書かれています。この「これを」とは何かと言いますと、9節の聖書の引用を指しています。すなわち、神の救いのご計画のことです。そして、その後の「御霊によって…啓示されたのです。」と書かれています。この「啓示」とは、「覆いをはずす」とか「隠したものをとる」という意味です。それは、7節の隠されていた奥義が明らかにされたことを表しています。神の救いのご計画は、人間には明らかにされず隠されていました。しかし、それが明らかにされたのです。どのような方法で明らかにされたのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架と復活によってです。このイエス・キリストの十字架による死と復活は歴史的事実です。神の救いの啓示というのは、何か不思議な現象をもって表されるのではなく、現実に起きた出来事を通して表してくださったのです。その神の救いのご計画を理解できる方法は、聖霊なる神の働きしかありません。
 聖霊なる神が人の内に働かれますと、その人の心の全てのことを探られます。この「探らせる」とは、「点検させる」という意味で、「自分の罪深さに気づかせる」ということです。また、「神の深み」とは、神の奥義のことで神の救いのことです。その神の救いにまで及ぶのですから、主を自分の神として信じるということです。ですから、聖霊なる神が人の内に働かれますと、自分の罪深さに気づかされ、その罪を悔い改めて神を信じる者とされるのです。人が神を信じる者とされるのは、その人の力でもなければ行いでもありません。聖霊なる神がその人の内に働いてくださったからです。
 このことは、私たちの救いについても同じことが言えます。私たちが神を信じるようになったのは、私たちの力でもなければ行いでもありません。聖霊なる神が私たちの内に働いてくださったからです。日本のクリスチャン人口は1%にも及びません。なかなか神を信じる人が起こされないというのが現状です。私たちの教会においてもそうです。その理由はいろいろとあることと思います。しかし、究極的に言いますと聖霊なる神がその人の内に働いておられないからです。そのことを逆に言いますと、そのような中で、聖霊なる神が私たちの内に働いてくださり、神を信じる者とされたというのは大きな恵みではないでしょうか。数少ない中で、私たちを神が選んでくださったことに感謝したいものです。
 またチラシを配ったり人を誘ったりしても、なかなか教会の集会に集われませんし、集われたとしても続かないという現状の中で、時には落ち込んでしまうこともないわけではありません。その理由は先程も話しましように、究極的には聖霊なる神がその人の内に働いておられないからです。ですから、聖霊なる神がその人の内にはたらいてくださることを祈っていきたいものです。来月になればクリスマスの集会が幾つか持たれます。聖霊なる神が一人ひとりの内に働いてくださり、クリスマスの集会に集うことができるように祈っていきましょう。また、集われた一人ひとりの中に、続けて聖霊なる神が働いてくださり、神をさらに強く求める思いや信じる決心をする方々が起こされるようにも祈っていきたいものです。

2)神の御心
 聖霊なる神の働きの第2は、人に神の御心を知らせてくださいます。それは神の救いのご計画を知るということではなく、「神は何のために私を選び救われたのか」という救いの目的を知るということです。神の救いの目的は何でしょうか。何度も話していますが、私たちが自分の罪が赦され、神の審きから救われたのは、私たちが天の御国に入るためではありません。もし私たちがそのように捉えるなら、それは非常に残念なことです。今年も年末に近づき、受験生はラストスパートに入りました。目指している学校に入るために受験勉強をされています。ですが、入ることが目的の勉強ですから、合格して入学できたという目的が達成されますと学生は遊んでしまうという大学生が多いのも現状です。
 このことは信仰のことについても言えます。神を信じるまでは熱心に教会に来ますが、信じて少し経ちますと休むようになり、やがて教会に来なくなるという方も少なくはありません。その大きな原因は、信じ救われることが信仰のゴールになっているからではないでしょうか。ですが、神を信じ救われることが信仰のゴールではありません。神を信じ救われるのは信仰のスタートです。以前にも話しましたが、人が赤ちゃんとして誕生するのはゴールではなくスタートです。それと同じように、神を信じ救われたという新しい誕生は、新しい人としてのスタートです。
 では、神は何のために私たちを選び救われたのでしょうか。その神の救いの目的は、神ご自身のご栄光が現されるためです。さらに言いますと、私たちが神のすばらしさを現して生きる者となるためです。では、どのようにしたら私たちは神のすばらしさを現すことができるのでしょうか。神を信じる者として聖い生活をすることによってでしょうか。確かにそのことを通して神のすばらしさを現すことができます。ですが、一番は神によって生かされていることに感謝し、喜びつつ生きることです。さらに言うならば、自分らしく生きることです。自分らしく生きるとは、自分の思いを優先する生き方ではありません。神は利己的な信仰生活を求めてはおられません。もし、自分らしく生きることが自分の思いを優先する生き方であるならば、「神を信じ救われたのだから、もう教会に行かなくても良い」ということにもなります。
 そうではなく、自分らしく生きるとは、自分を造ってくださった神の目的にそって生きるということです。聖書は「キリストは身体の頭であり、教会はキリストの身体であり、キリスト者はキリストの身体の各器官である」と語っています。神は教会を通してご自身のご栄光を現されます。ですから、神を信じる私たちは、キリストの身体なる教会を通さずに神のご栄光を現すことはできないのです。神が私たちを救いに導いてくださったのは、私たちが教会を通して神のすばらしさを現すためです。それが救いの目的です。それは救われた者が共に教会に集い、共に神を賛美し礼拝し、そして教会から各々の場所に遣わされ、各々の場所で生かされていることに感謝し喜びをもって生きることです。それが救いの目的であり、神のご栄光を現すことです。それは、このような者を救いのために選んでくださったことへの感謝と同時に、このような者を用いてくださることへの喜びです。それが神の願っておられる生き方であり御心です。そのような生き方を示してくれるのは、聖霊なる神の働きしかありません。聖霊なる神は、神を信じる私たちに神の御心を示してくださいます。

3)賜物
 聖霊なる神の働きの第3は、一人ひとりに賜物が与えられていることを知らせるということです。ですから、賜物は神を信じる全ての人に与えられているのです。「私には何の賜物もありません」と言われる方がおられます。以前の私もそうでした。「自分には何ができるのだろうか」と考えたとき、絵を描くのも上手なわけではありませんし、音楽関係で何かができるわけでもありません。何の取り柄もない自分を見て「私には何の賜物もない」と思っていました。ですが、そうではないことに気づかされました。神に祈るというのも賜物の一つであることに気づかされたのです。以前は、祈りを神の賜物の一つとは考えてもいませんでした。何故なら、祈るというのは神を信じる全ての人がしていることだからです。「何故、祈りを神の賜物と捉えることができなかったのか」と言いますと、「賜物は特別な才能」と思っていたからです。確かに、特別な才能を「賜物」ということができます。しかし、賜物というのは何かができる特別な才能のことではありません。経験を通して与えられる賜物もあります。例えば、何かの出来事を通して大きな痛みを経験したことによって、大きな痛みを経験された人の痛みが分かるというのも賜物の一つではないでしょうか。
 聖書が語る賜物とは、特別な才能のことだけではありません。救いの目的に向かって、与えられているものを用いるものが賜物なのです。神に感謝し喜びをもって生きるために用いられるものであるならば、それが賜物なのです。賜物の評価は、どれだけたくさんのことができるかではなく、救いの目的のために用いているかいないかです。イエス・キリストご自身、種まきの譬え話の中で良い地に落ちた種について話されました。その種はどうなったでしょうか。30倍、60倍、100倍の実を結んだのです。「100倍の実を結んだ人はすばらしく、60倍の実を結んだ人はぎりぎりの合格で、30倍の実を結んだ人はもう少し頑張りましょう」と言われたのではありません。同じ良い地に落ちても、実を結ぶ結果は違うのです。あの種の譬え話の中でイエス・キリストが言われていることは、良い地に落ちた種は必ず実を結ぶという約束です。
 ところが、私たちはそれよりも30倍・60倍・100倍という数字に目を留めてしまいやすいのではないでしょうか。これは私たちの弱さです。私たちは見えるものに目を留めてしまいやすいものです。賜物も見えるもので評価してしまいやすくなります。だから、「何かができる特別な才能が賜物である」と思ってしまいやすくなります。ですが、聖書は「そうではない」と語っています。救いの目的に向かって用いられるものであるなら、全てが神から与えられた賜物なのです。その賜物は、神を信じる全ての人に与えられているのです。一人ひとりが神の救いの目的のために用いられる存在とされているのです。聖霊なる神の働きは、私たちにそのことを示してくださいます。

結)
 聖霊なる神は、私たちに神の救いと御心と賜物を示してくださいます。それは神を信じる私たちが感謝と喜びをもって生きるためだけでなく、まだ神を信じていない人も神を知り感謝と喜びをもって生きることができるためです。そのことのために、神は私たちを用いようとされています。そのことに気づかせてくださるのも聖霊なる神の働きです。私たちの中には、その聖霊なる神が住んで働いてくださっています。その聖霊なる神に働きによって、神の救いの目的が達成されるように用いられていきたいものです。そして、私たち自身が神に用いられる器とされるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント2:6~9「生かされている喜び」  16.11.13.

序)
 先週の礼拝で、「弱さや足りなさも神の賜物の一つということができる」ということを触れました。「マイナス」と思えていたものが「マイナスではない」ということを知ると、生き方も変えられていきます。何故なら、「希望がない」と思えていたものから、「希望がある」という捉え方に変えられるからです。そのような見方・捉え方を変えるのは神の知恵によるものです。神の知恵は人に生きる喜びを与えてくださいます。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)神の知恵
 パウロは6節の最初に「私たちは成人の間で知恵を語ります。」と語っています。1~5節では「私」という1人称単数を用いていましたが、今朝の箇所では「私たち」と1人称複数のことばが用いられています。何故かと言いますと、1~5節はパウロの個人的なことについて書かれていますが、今朝の箇所以降はキリスト者全体のことが書かれているからです。この「私たち」ということばの中には、もちろんコリント教会の人々も含まれています。ですから、「コリント教会の人々も含む私たちは成人の知恵を語ります。」と語っているのです。この「成人」とは、「完全な者」とか「大人」という意味です。
 では、聖書が語る成人とはどのような人のことでしょうか。成人とは完全さを表していますから、キリスト者の完全とはどのようなことでしょうか。神の教えを何一つ破ることなく、右にも左にも反れない人のことでしょうか。もしそうであるなら、私たちは完全な者になることはできません。何故なら、神は人を造られたとき、完全なる神に劣る者として造られたからです。完全な神に劣るということは「不完全である」ということです。不完全な者として造られたものが、完全な者になることは絶対にできません。では、聖書が神を信じる私たちに求めている完全とはどのようなものでしょうか。
 それは神の知恵を持つことです。さらに言うならば、神の知恵が与えられることです。では、何のために神の知恵が与えられるのでしょうか。それは神の奥義を知るためです。その神の奥義とは何でしょうか。神の奥義とは、神の救いのご計画のことです。人は神に対して罪を犯しました。しかし、神はそのような人間を見捨てることをされませんでした。神に対して罪を犯したにも拘らず、私たちを愛してくださいました。そのことは創世記3:15です。ここに「     」と書かれています。人は神に敵対するサタンの誘惑に陥って、神に対して罪を犯しました。言うならば、神に敵対するサタンの側についたのです。なのに、神はサタンに対して「わたしはお前や女との間に敵意を置く。」とは言われなかったのです。「わたしは、お前と女との間に敵意を置く。」と言われたのです。すなわち、神に対して罪を犯したにも拘らず、神は人間の側についてくださると語られたのです。そして、その人の罪を赦すために、神は救いのご計画を立てられ実行されたのです。それがイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは神であられるのに、人としてこの世に来られ、私たちの罪の身代わりとなって父なる神の審きを受けてくださいました。本来なら、神に対して罪を犯した私たちが受けなければならなかった神の審きを、イエス・キリストが身代わりとなって受けてくださったのです。それによって、神の審きから救われたのです。これが神の救いのご計画です。人は神の知恵が与えられることによって、神の愛と神の救いのご計画を知ることができます。その神の愛と神の救いのご計画は、この世の知恵では知ることができません。神の知恵が与えられない限り知ることはできません。何故なら、神の救いのご計画は理解することではなく信じることだからです。

2)神の知恵が与えられる目的
 人は神の知恵が与えられることによって、神の愛と神の救いのご計画を知ることができます。では、その神の知恵が与えられる目的は何でしょうか。7節の中程に「それは、神が、私たちの栄光のために、」と書かれています。ここで注目したいのは、「私たちの栄光のため」ということばです。私たちは、よく「神の栄光のために」ということばを耳にするのではないでしょうか。「神の栄光を現すために○○しましょう」とか、「神の栄光が現されますように」ということばをです。聖書の多くは「栄光は主のもの」として書かれています。ですが、今朝の箇所では「私たちのための栄光」と書かれているのです。
 では、私たちの栄光とは何でしょうか。一言で言いますと存在の喜びです。先程も触れましたように、人は神に劣る者として造られました。ですから、不完全な者として造られたのです。ですが、そのような不完全な者を神は愛してくださっているのです。先週の礼拝で、弱さを用いてくださる神を見ました。弱さというものを私たちはマイナス的に捉えてしまいますが、その弱さは神が一人ひとりに与えられたものでもあり、その弱さを神が用いてくださるなら、弱さは決してマイナス的なものではないことを見ました。むしろ、弱さはプラス的なものです。神を知るまでは、居ても居なくても大きな影響を与えない存在である自分の存在の喜びを見出すことができませんでした。しかし、神を知ることによって、そのような者であっても神は目を留めて愛してくださり、自分にある弱さを用いてくださることを知ったとき、「このような自分が生かされても良い」ということに気づかされたのではないでしょうか。
 そして、この世から見たら、居ても居なくても分からないような小さな自分ですが、そのような自分が世界を造られた神に用いられる存在であることを知らされたとき、そこに存在の喜びを見出したのではないでしょうか。本当に小さな自分であり弱さを持っている自分ですが、そのような自分に神が働いてくださっているのです。そして、神に用いられるのです。その存在の喜びが、今朝の箇所に書かれています私たちの栄光なのです。
 パウロ自身、Ⅱコリント12:9の最後で「むしろ…誇りましょう。」と語っています。パウロは自分の弱さを誇ることができました。何故でしょうか。それは、その弱さの内に神が働いてくださり、神が用いてくださることを知ったからです。そして、それは何もパウロだけではありません。神に造られた全ての人にも神は働いてくださっているのです。私たちにも神は働いてくださっているのです。「自分の弱さを誇る」とは、自分の弱さの内に働いてくださっている神を誇るということです。私たちの栄光とは、自分のすばらしさを誇ることではありません。自分の弱さの中に働いてくださる神を誇り、生かされ用いられることを神に感謝することが私たちの栄光なのです。

3)神の知恵を与えるための神の備え
 人の栄光とは、自分の弱さの中に働いてくださる神を知り、生かされ用いられていることに感謝することであると見ました。それは、神の愛を知ることと存在の喜びでもあります。私たちがそのことを知るために、神は知恵を備えてくださいました。そのことが7節の後半に「世界の始まる前から、あらかじめ備えられていたのです。」と書かれています。すなわち、神は初めから備えていてくださっていたのです。神は私たちが生まれる前から、私たちのことを御存知であり、私達が喜びをもって生きることができるために、このような備えをしていてくださっていたのです。それほど私たちは神に愛されている存在なのです。何故でしょうか。それは私たちが神のかたちとして造られた存在だからです。
 イエス・キリストを十字架につけた人たちは、その神の知恵を悟ることができませんでした。そのことについて、パウロは9節で「     」と語っています。これは下の欄外に記されていますようにイザヤ64:4からの引用です。この神の知恵は、自然の方法や人間の知性では絶対に知ることのできないものです。これは特別なものです。ところで、今朝の箇所の9節とイザヤ64:4とを比べてみますと、一つ大きな違いがあることに気づかされるのではないでしょうか。イザヤ64:4には「神を待ち望む者のために」と書かれているのに対して、今朝の箇所の9節では「神を愛する者のために」と書かれている点です。これはパウロが意識的に変えたように考えられます。何故変えたのかと言いますと、そこには2つの意味があるからです。
 一つは、今はもう神の知恵を待つ時代ではなく、神を愛する時代に入ったからです。イザヤが生きていた時代は、まだイエス・キリストがこの世に来られていませんでした。ですから、神の救いを待ち望む時代でもあったのです。ところが、パウロが生きていた時代は、すでにイエス・キリストは来られ十字架に架かられ死から甦られた時代です。神の救いの計画が実行された時代です。ですから、待ち望む時代ではないのです。「では、どのような時代なのか」と言いますと、それを実行された神を愛する時代なのです。だから、「神を愛する者」と書かれたと考えられます。
 もう一つは、コリント教会に対しての注意を含めてです。コリント教会の人々は、自分たちは神の奥義と知識に通じていることを誇っていました。ところがパウロは、同じⅠコリント13:1~2で「     」と語っています。「いくら神の奥義や知識に通じていても、愛がないなら何の値打ちもない」と語っています。コリント教会は、愛が欠けていたから分派や争いが生じてしまったのです。神の知恵を持つとは「愛する」ということです。神を愛し人を愛することです。だから、パウロは「神を愛する者のために」と書いたのではないかと考えられます。
 人が神を愛する者となるためには、何よりも神の愛を知らなければなりません。人が愛する者として生きるには、何よりも神の愛を経験しなければなりません。そして、その神の愛は「このような者が神に愛されている」ということを受けるだけで終わることはありません。さらに、「あの人も私と同じように神に愛されている存在なのだ」ということに気づかせてくれます。そして、その人をも愛し敬う者とさせてくださるのが神の愛です。私たちが愛する者として歩むために、神は神の知恵を私たちに備えてくださったのです。

結)
 その神の知恵を持つには、イエス・キリストの十字架と復活という福音しかありません。神は私たちが感謝と喜びをもって生きる者となるために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。それほど私たちは神に愛されている存在なのです。イエス・キリストの十字架と復活は、私たちが生かされていることに感謝と喜びをもって歩むためであることを覚えましょう。確かに、私たちの歩みには様々なものがあります。決して喜ばしいものばかりではありません。ですが、喜ばしくないところにも神は働いてくださいます。生かされていることに喜びをもって歩むことができるためにも、弱さの内に働いてくださる神を見上げていきましょう。

Ⅰコリント2:1~5「弱さを用いられる神」  16.11.06.

序)
 先週は交換講壇の日でした。春日井にはナカノ・ユリ宣教師がみことばのご用をしてくださいました。私は伊勢教会にて、9年ぶりにみことばのご用をさせていただきました。夕方には道方チャペルで奉仕させていただき、渋滞もあって帰宅したのは11時前でした。この日は本当に歩きませんでした。牧師という仕事は、歩くことが少ない仕事です。FBを見てみますと、何人かの先生方は「体力作り」と言いましょうか、「体力維持」と言った方が正しいかもしれませんが、何かしら努力をされているようです。私自身も週に2回ほどジムに通って体力維持をしています。体力維持を心がけるということは体力が落ちているということです。「落ちる」「弱くなる」というのはマイナス的に捉えてしまいやすいですが、今朝はその弱さについて共に教えられたいと願っています。

1)コリントでの宣教
 まず、パウロはコリントの町でどのような方法で福音を宣べ伝えたのでしょうか。1節には「私は…しませんでした。」と書かれています。この「すぐれたことば」「すぐれた知恵」とは、この世的なことばや知恵のことです。パウロはそのようなものを用いないで、神のあかしを宣べ伝えたのです。この「あかし」を下の欄外を見ますと「奥義」と書かれています。別の写本には「奥義」と書かれているのです。どちらが正しいかは難しいものです。もし新改訳聖書のように「あかし」と理解するなら、この世的なことばや知恵ではなく、別のことばや知恵を用いて神を証ししたことになります。「その別のものとは何か」と言いますと自分自身の証しです。「神が自分をどのように導いてくださったのか」という自分自身の体験です。それは、神は自分自身を通して働いてくださるということを表しています。また、別の写本のように「奥義」と理解しますと、別のものは「聖霊」ということになります。何故なら、神の奥義は聖霊の働きなしでは理解することができないからです。
 どちらにしろ、この世的な知恵では理解できないことが書かれています。では、何故パウロはこの世的なことばや知恵を用いなかったのでしょうか。考えられることは、パウロがコリントの町に入る前の出来事です。パウロがコリントの町に入ったことが使徒の働き18章に書かれています。ですから、その前の出来事は17章の後半に書かれています。その場所はアテネでした。パウロはアテネの人々に福音を語りました。アテネの人々は哲学的な人々ですから、おそらくパウロも哲学的な宣教方法を用いたことでしょう。しかし、結果はパウロが期待していたほどではありませんでした。確かに、それを通して神を信じた人々も起こされましたが、パウロが期待していたほどではなかったのです。そのとき、パウロは知らされたのではないでしょうか。「何を知らされたのか」と言いますと、「いくら哲学的な宣教方法を用いても、その人の中に聖霊が働かれないと理解できない」ということをです。そのため、コリントの町ではこの世的なことばや知恵を用いなかったのだと考えられます。
 では、どのような方法で福音を宣べ伝えたのでしょうか。その方法は、イエス・キリストをストレートに語るという方法です。それはイエス・キリストの十字架と復活です。まさしく、福音をストレートに語ったのです。召天者記念礼拝の時にも語りましたが、神は私たちに理解することを求めてはおられません。信じることを求めておられます。パウロがコリントの町で語ったことは、神が私たちを愛するがために、私たちの罪の身代わりとしてイエス・キリストが十字架に架かって死んでくださり、3日目に死から甦られました。ですから、イエス・キリストを信じる者は、死んだ後も甦るという希望をもって生きることができるということです。死の先にも希望があるということは、生きている中にあっても希望があるということです。イエス・キリストをストレートに語るというのは、いつの時代においても大切なことではないでしょうか。

2)御霊と御力によって
 パウロはコリントの町で福音宣教を始めました。そのときのパウロの様子が3節に「     」と書かれています。使徒18:9~10で神はパウロに「     」と語られました。特に9節のことばに注目したいと思います。神がパウロに「恐れないで」と語られたということは、パウロは恐れを抱いていたということです。また、「黙ってはいけない」と言われたのは、パウロ自身が福音を宣べ伝えるのを止めようと思っていたからです。それほどパウロの中には恐怖心があったのです。そのようなパウロの心を変えたのは神のことばです。ここには神の約束が語られています。神は恐怖心や失望感に陥っているパウロを責めてはおられません。むしろ、そのようなパウロを慰め励ましておられます。パウロは、その神のみことばに力づけられて、コリントの町に1年半留まって福音宣教を続けたのです。
 その結果、コリントの町に福音を信じる人々が起こされたのです。パウロはそのことを今朝の箇所の2:4で「     」と語っているのです。コリントの人々が福音を信じるように導いたのは、御霊と神の御力によるものだったのです。コリントの町で、神はパウロに「恐れないで語り続けなさい。」と励まし、「この町にはわたしの民がたくさんいるから」と約束されました。その神の励ましと約束がなければ、パウロは挫折していたかもしれません。私たちが聖書から受けるパウロのイメージは、「信仰の強い人」というものではないでしょうか。ところが、そのパウロは「恐れを抱く」という弱さを持っていた人でもあったのです。また、Ⅱコリント12:9に「     」と書かれていますように、パウロは肉体的な弱さも持っていました。パウロは、その弱さを取り除いていただくように何度も神に祈りました。そして、その祈りの答えはどのようなものだったでしょうか。それは「わたしの恵みはあなたに十分である。」というものでした。これは「弱さも神の恵みである」ということです。
 私たちは、自分の弱さや足りなさを「神の恵み」と捉えにくい者です。ですが、神は「弱さも神の恵みの一つである」と語られているのです。何故そのように言われるのでしょうか。それは、その弱さの中に神が働いてくださるからです。神がその弱さや足りなさを用いて働いてくださるのです。そのように考えますと、弱さや足りなさも神の賜物の一つということができるかもしれません。ともすると、私たちは「そのようなものは神の賜物ではない」と思いやすいのではないでしょうか。「神の賜物とは神のために用いられるもの」と考えてしまいやすいのではないでしょうか。そうであるなら、弱さや足りなさを神が用いてくださるのなら、それも神の賜物と言えるのではないでしょうか。
 福音は、この世から見れば愚かなものかもしれません。しかし、信じる者にとっては神の力なのです。弱さや足りなさというのは、この世の価値観からすれば価値のないものであり、愚かなものかもしれません。しかし、そこに神が働いてくださるのです。そのことを通して、神のみことばの確かさを知らされていくのです。それは、まさしく御霊と神の御力によるものではないでしょうか。

3)神の力を知るため
 コリントでのパウロは、恐れおののくという弱さを持っていました。ですが、その弱さを神は用いてくださり、パウロはコリントの町で宣教活動を続けることができました。それによって、コリントの町の中で神を信じる人々が起こされ教会を形成することができたのです。神はパウロを用いられました。何故神は、パウロの弱さを用いられたのでしょうか。それはパウロ自身が神の力を知り支えられるためではなかったのでしょうか。それまでのパウロは、神の力を知らなかったわけではありません。彼は神の力を知っていました。知っていましたが、その神の力については自分が経験してきたことの中での知識です。コリントの町でのパウロは、今まで経験したことのないものだったのです。だから、恐れおののいたのです。
 私たちもそうではないでしょうか。神を信じる信仰が与えられても苦しみを経験します。最初は小さな苦しみであれ恐れを抱きますが、その苦しみを神が解決させてくださったことを経験しますと、同じような経験なら「大丈夫」という思いが起こされます。ところが、今までに経験したことのない苦しみに遭遇しますと、信仰生活が長くても恐れを抱いてしまいます。それが私たちなのです。そして、パウロも同じだったのです。誰もがそうですが、初めての出来事には不安を抱きます。だから、パウロも恐れおののいてしまったのです。
 パウロはその経験を通して、コリントの町で福音を宣べ伝え続けました。そして、神を信じる人々が起こされたのです。パウロが宣べ伝えたものでは何でしょうか。それは福音です。福音とは、イエス・キリストの十字架と復活です。ですが、その福音を一番宣べ伝えたかったのではありません。パウロが一番宣べ伝えたかったのは神のすばらしさです。ですが、人が神のすばらしさを知るには、まず福音を知る必要があるのです。福音を知らないと神のすばらしさも知ることができません。だから、福音を宣べ伝えていたのです。パウロが目標としていたものは、人が福音を聞いて神を信じることではありません。神を信じて神のすばらしさを知ることだったのです。何故なら、パウロ書簡は神を信じている人々に書かれた手紙だからです。ですから、福音を宣べ伝える必要はないのです。しかし、パウロ書簡には福音が記されています。それは、福音が神のすばらしさを知ることの原点だからです。
 福音はイエス・キリストの十字架と復活ですが、その十字架と復活を通して私たちは神の愛を知ることができるのです。このような者を神は愛してくださっており、罪を赦してくださり、いつも共にいてくださり、全てのことを導いてくださっている。そのことをパウロは伝えたかったのです。何故なら、それがパウロの確信していることだからです。パウロは、自分が確信していることを宣べ伝えていたのです。だから、自分の弱さを隠そうとはしなかったのです。何故なら、神はその弱さをも用いてくださるすばらしい方だと確信していたからです。そして、事実神はパウロの弱さを用いられたのです。何故でしょうか。それはパウロ自身が神のすばらしさを改めて知るためであり、そのパウロを通して神を信じる人々が神のすばらしさを知るためです。それは「弱さを持っていることが悪いことではない。弱さを持っていても良い。神がその弱さを用いてくださる」と知るためです。一人ひとりが神の力によって支えられていることを知るためです。

結)
 コリントの町で福音宣教を始めた頃のパウロは、恐れおののくという恐れを持っていました。しかし、神はそのパウロの弱さを用いられました。その目的は、パウロ自身が神のすばらしさを改めて知るためと同時に、福音を通して会を信じる人々も神のすばらしさを知るためです。人は誰しも弱さを持っています。ともすると、「弱さはマイナス的なもの」と捉えてしまいます。しかし、神の目から見れば決してマイナス的なものではありません。何故なら、神がその弱さを用いてくださるからです。神が弱さを用いてくださるというのなら、弱さも神の賜物の一つということができるのではないでしょうか。

ヨハネ11:25~26「望みのある約束」 16.10.23.

序)
 本日は召天者記念礼拝です。当教会から天に召された方々が2名おられます。大野姉のご主人であられた大野秀樹兄と小林姉のご主人であられた小林春夫兄です。大野兄は2005年2月8日に葬儀が行われ、小林兄は2011年9月26日に葬儀が行われました。今、教会の礼拝で用いています電子オルガンは、大野兄が天に召されたことを覚え、大野姉から献品されたものです。家族の死は悲しいものです。それは主を信じる者であっても同じです。ですが、主にある者は死んで終わりではありません。死の後にも「再会できる」という望みが与えられています。今朝は召天者記念礼拝を通して、死の後にある望みについて共に教えられたいと願っています。

1)死の原因
 私たちは誰もが死を経験します。この世に造られた全てのものは死を経験します。何故、「死」というものがあるのでしょうか。ローマ6:23には「罪から来る報酬は死です。」と書かれています。また、ヤコブ1:15には「欲がはらむと…死を生みます。」とも書かれています。死の原因は、私たちの心の中にある罪が原因です。しかも、罪の源は何かと言いますと「欲」と語られています。私たちの中にあります欲望が原因なのです。
 私たちの社会の中には、多くの犯罪事件が起こります。それらの犯罪事件を突き詰めますと、その人の中にあります欲望が原因です。自分の心を満たすことを優先するがために犯罪を起こしてしまいます。言うなれば自己中心です。その罪はどのようにして生じたのでしょうか。そのことが創世記3章に書かれています。人は神と約束を交わしました。それは「善悪を知る木の実を食べてはならない」という約束です。ところが、人はサタンの誘惑によってなのですが、その約束を知りつつも破ってしまったのです。6節に「     」と書かれています。この「まことに…好ましかった」とは、神のことばよりも自分の思いを優先したことを示しています。これが罪の原因です。
 創世記2:17に、神が人に「しかし…必ず死ぬ」と告げられたことが書かれています。ですが、人はその神のことばよりも自分の思いを優先してしまったのです。人は神のことばを忘れてしまい、過って神との約束を破ったのではないのです。何故そのように言えるかと言いますと、人が神との約束を破る前に、サタンはエバに神のことばを思い起こさせているからです。人は神のことばと自分の思いとを測って、自分の思いの方を選んでしまったのです。そして、神との約束を破ってしまったのです。「それによって死が世界に入った」と聖書は語っているのです。
 死には2つの死があります。人は神に造られたとき肉体だけではなく、霊も入れられました。ですから、「死」というのも肉体的な死と霊的な死の2つがあります。肉体的な死とは、この肉体の機能が止まってしまうことです。多くの人が考える死というものです。では、霊的な死とはどのようなものでしょうか。それは「心の死」と言っても良いかもしれません。私たちは食物を得ることによって、この肉体を生かすことができます。では、私たちの心は何によって生きるのでしょうか。それは関係によってです。そして、むしろ生きることにおいて大切なのは関係の方です。他人との関係や自分自身との関係です。その関係が壊れてしまいますと、いくら物質的に豊かであっても人は生きていけなくなります。すなわち、死んでしまうのです。いくら物質的に豊かであっても、心が満たされないで苦しんでおられる方が大勢おられます。それは関係がうまく築かれていないからです。その関係を築くのに一番大切なのは、私たちを造ってくださった神との関係を築くことです。ところが、人は神との関係を壊してしまいましたから、神とのより良い関係を築くことができなくなりました。神は「神との関係が壊れてしまったとき必ず死ぬ」と告げられたのです。そして、人は神との約束を破り関係が壊れてしまいましたから、肉体的にも霊的にも死ぬ者となったのです。死の原因は、私たちの心の中にあります罪なのです。

2)イエスとは
 ところがイエス・キリストは、そのような私たちに「わたしはよみがえりです。いのちです。」と話されました。イエス・キリストご自身が甦りの方であり、いのちなるお方なのです。ルカ18:31~33には、イエス・キリストが弟子たちに、ご自分の死と復活を告げられたことが書かれています。ですが、34節には「弟子たちには理解できなかった。」と書かれています。当然と言えば当然です。死者の復活は教えとしては聞いていても、「実際にあった」などとは今まで聞いたことがないからです。弟子たちは、自分の頭の中で分かることしか理解できませんでした。それは弟子たちだけでなく、私たちも同じではないでしょうか。死んだ人が甦るというのは理解できるものではありません。そして、神は私たちに死者の復活を理解することを求めてもおられません。何故なら、理解できないからです。神が私たちに求めておられることは信じることなのです。何を信じるのでしょうか。それは神の約束を信じることです。イエス・キリストは「わたしはよみがえりであり、いのちなのです。」と話されました。イエス・キリストは私たちの理解を越えたお方です。イエス・キリストこそが甦りの源であり、いのちの源なのです。そのことを信じることを神は私たちに求めておられるのです。
 いのちの源は、人を造り人にいのちの息を入れられた神しかおられません。イエス・キリストは、ご自分が神であられることを告げられているのです。イエス・キリストは、弟子たちに告げられた通り、ユダヤ教指導者たちに捕えられ、十字架につけられて死なれました。それは私たちの罪のためです。「自分を造ってくださり、愛してくださっている方を神と認めない」という罪のためです。聖書が語っています罪とは、何か悪いことをすることではありません。私たちを造られた方を神と認めないで従わないことです。私たちを造られた神と良い関係でないことが罪なのです。人は、自分を造ってくださり愛してくださっている神との関係が悪くなったがため、犯罪を起こすようになったのです。ですから、罪の源は自分を造り愛してくださっている方を神と認めないことです。
 聖書が語る罪とは「的外れ」という意味があります。本来あるべき方向に進まなければならないのに、間違った方向に向いている状態のことを表しています。何度も話していますが、自分を生み愛し育ててくれた人を「親」と認めないことは間違っています。ですが、法律で「罪」と定められているわけではありません。ですから、どれだけ親が裁判所に訴えても審議すらしてもらえません。法律上では「罪」と定められませんが明らかに間違っており、的外れな行為です。それと同じように、自分を造り愛し導いてくださっている方を「神」と認めないのは間違っています。法律上では「罪」ではありませんが的外れな行為です。それを聖書は「罪である」と指摘しているのです。神は「その罪を審く」と語られています。その罪のために、イエス・キリストが身代わりとなって十字架に架かって神の審きを受けてくださったのです。ですが、イエス・キリストを死なれただけではありません。3日目に死から甦られたのです。死に打ち勝たれたのです。何故でしょうか。イエス・キリストご自身がいのちなる方だからです。イエス・キリストがまことの神だからです。

3)イエスの約束
 まことの神であられるイエス・キリストは、何と約束されているでしょうか。25節の後半~26節前半にかけて、「わたしを信じる者は…死ぬことがありません。」と約束されています。私たちの肉体はいつかは滅びます。ですが、死んでも生きることができるのです。甦ることができるのです。神を信じる者は、死んで終わりではないのです。甦るという望みが与えられているのです。何故でしょうか。神が甦らせてくださるからです。先月の終わりに、神戸で行われる日本伝道会議に参加するために新幹線に乗りました。新幹線が開通した頃は、ひかりで名古屋~大阪まで約1時間かかりました。でも、今はのぞみなら40分で行くことができます。のぞみが開通した頃、ある天文台の所長が「世界で一番早いのは光です。しかし、私は光よりも速いものを知りました。それは望みです。」と話されたのを覚えています。これは新幹線にひっかけて話されたわけです。新幹線の「のぞみ」は、「ひかり」よりも速いのです。
 望みというのは、将来のことを見据えさせてくれます。本当に光よりも速いのです。私たちの肉体はいつかは滅びてしまいます。ですが、神を信じる者はその先にある望みが与えられているのです。復活という望みが与えられているのです。イエス・キリストは「このことを信じますか。」と26節で問いかけておられるのです。私たちに決断を求めておられるのです。すなわち、この甦るという約束を信じるか、信じないかという決断を求めておられるのです。先に天に召された大野兄や小林兄は亡くなられました。でも、それは肉体であって、霊は天で生きておられるのです。そして、その後イエス・キリストが再び来られるとき、肉体をもって甦らせてくださるのです。私たちもいつかは死にます。ですが、天で先に召された方々とお会いすることができるのです。
 神を信じない人には死は絶望です。しかし、神を信じる者にとって死は終わりでもなければ絶望でもありません。その先にも望みがあるのです。甦るという望みが与えられているのです。「絶望」と思えるような死にも望みがあるのですから、私たちが生かされていますあらゆる問題に対しても望みがあるのです。何故なら、死以上の問題はないからです。私たちが直面します問題は、本人にとってはとても大きな問題であり苦しいものです。ですが、決して絶望的なものではありません。ローマ10:11には「彼に信頼する者は失望に終わることはない。」と書かれています。この「彼」とは、イエス・キリストご自身のことです。イエス・キリストを信じる者にあるのは望みだけなのです。これが私たちへのイエス・キリストの約束なのです。

結)
 イエス・キリストの十字架による死は歴史的事実です。そして、イエス・キリストの復活も歴史的事実です。決して空想話しではありません。神が私たちに与えてくださるものは望みです。死んでも生きるという望みです。甦ることができるという望みです。この望みを神は私たちに約束してくださっているのです。そして、「このことを信じますか。」と問われておられるのです。その問いに対して何と答えられるでしょうか。先に天に召された方々と再会できることを思い、この望みある約束を信じ続けられるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント1:26~31「神に選ばれた人」 16.10.16.

序)
 先週の月曜日は、娘が学んでいます東京基督教大学の「シオン祭」という学祭に家内と行ってきました。その日は、昨年の私たちの団体の集会にて奉仕してくださいました「リラ」という賛美グループも来ており、彼らのライヴも聴くことができました。その証しの中で、「いろいろな所を通らされて来たけれども、それらを通して今があることに感謝したい」というようなことを話しておられました。人それぞれ用いられ方は違いますが、神は用いるために選んでくださいました。今朝は、その神に選ばれた人について共に教えられたいと願っています。

1)選ばれた人
 まず、神に選ばれた人はどのような人でしょうか。そのことが26~28節に書かれています。神に選ばれた人の比率は、どちらかと言えばエリートや権力者ではなく、ごく普通の人が多いと書かれています。この世の方法を見てみますと、何事においても中心人物に焦点を合わせます。私は献身する前は医療機械のセールスをしていました。医療器具を売らなければなりませんから、当然いろいろな病院を回りました。私が働いていた会社は小売業者でもなければメーカーでもありませんでした。確かに自社製品はありましたし、大学病院などには直接出入りしていました。しかし、殆どは卸関係の仕事でした。ですから、「病院回り」と言っても病院と直接取引しているわけではありません。そのため、飛び込みが多かったわけです。その相手は、その商品を使い相手で、しかも購入するにおいてある程度の権限を持っておられる人でした。その部の中心的な人に商品を宣伝し、ある程度話が煮詰まってきますと、その病院に出入りしている業者に報告します。宣伝して話しを進めているのは私ですから、業者を選ぶのも私に権限があります。当然、その病院に出入りしている業者の中で、その部に影響力の強い業者を選びます。そうでないと商品は売れません。ですから、中心的な業者を選びます。
 ところが、神の選びというのはそうではありません。この世の中心的な人を選び、神のすばらしさを現される方法をとられなかったのです。では、どのような方法をとられたのでしょうか。それは27節に書かれていますように、この世の愚かな者を選ばれたのです。「この世の愚かな者」とは、文字通り愚かな人のことではありません。極端な言い方をすれば、その人が居ても居なくても影響がない人のことです。「その人が居なくなったら困る」というのではなく、「その人が居なくなっても大きな痛手は受けることがない」という人のことです。私たちは社会組織の中で生かされています。ともすると、自分がその社会組織の部品の一つであり、同じような部品は幾つもあるため、「自分は居ても居なくても大きな影響はない」と思えたりもします。神は、そのような人を選ばれたのです。
 パウロは26節で「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。」と語っています。この「召しのこと」とは、救いに入れられたことです。すなわち、罪が赦されキリスト者として立たされていることです。また「召し」とは、選びを表しています。ですから、「召された」とは、罪が赦され神の審きから救われるために選ばれたことです。ですから、キリスト者は神に選ばれた人なのです。そのような私たちは、この世から見れば居ても居なくても大きな影響を及ぼすような者ではないかもしれません。いや、そのように思えるのではないでしょうか。ですが、神はそのような者を選んでくださったのです。決して、何処かが優れているから選んでくださったのではありません。ただ、神の一方的な恵みによって選ばれれたに過ぎないのです。神に選ばれたキリスト者は、その神の一方的な恵みと憐みによるものです。

2)選びの目的
 その選びというのには必ず目的があります。目的なしで選ぶということはしません。では、何のために選ばれたのでしょうか。今度は、その選びの目的について見てみたいと思います。その神の選びの目的が、29節に「     」と書かれています。何故でしょうか。その理由が27節に書かれています。それは、知恵ある者や強い者を辱めるためです。この「辱める」とは、文字通りに辱めるということではありません。それは29節に書かれています「誇らせない」ということです。知恵のある人は、自分に知恵があることに誇りを持っています。また強い人は、自分の強さに誇りを持っています。この誇りは頼りにしているものでもあります。知恵のある人は自分の知恵を頼りとし、強い人は自分の強さを頼りとします。ところが、どれほど知恵があっても強さがあっても、不安を消し去ることはできません。不安というのは誰もが抱くものです。そして、その不安の中には平安がありません。
 ところが、神によって選ばれた人は不安を抱くことがありますが、その不安の中に平安を持つことができるのです。「どのような平安なのか」と言いますと、「神が必ず益に変えてくださる」という平安です。確かに、私たちはこの世の中心的な存在ではないでしょう。そのような面からすれば、居ても居なくても構わないような存在かもしれません。ですが、そのような私たちに神は平安を与えてくださったのです。知恵のある人や強い人は、自分の中にあるそのようなものに頼ろうとします。ところが、それでは解決できないとき不安を抱き希望を見出すことができなくなります。しかし、神に選ばれ信じる人は、そのような状況の中に置かれても平安を持つことができるのです。自分の中にあるものに頼っていた人は、不安の中に置かれても平安を持つことができる人を見ますと、「何故そのような状態で居られるのか」と不思議に思われます。そして、今まで自分が頼ってきたものが当てにならないことを知らされます。それが27節に書かれています「辱める」ということです。
 神がこの世において無に等しい物を選ばれたのは、神の御前で誰も誇らせないためです。この「誰も」というのは、知恵のある人や強い人のことだけではありません。神に選ばれた私たちをも含んでいます。ともすると、神に選ばれたことによって、選ばれた自分を誇ってしまいやすくなります。ですが、聖書は「そうではない」と語っています。私たちは神に選ばれたことによって、それを誇ってはいけないのです。では、どうすれば良いのでしょうか。ただ、神が自分を選んでくださったことに感謝すれば良いのです。それが選びの目的でもあります。

3)選ばれた者として
 神の選びの目的は、神の御前で誰も誇らせないためであり、選ばれたことに感謝するためです。では、その神に選ばれた者としてどのように歩めば良いのでしょうか。最後に、選ばれた者としての歩みについて見ていきたいと思います。その歩みが31節に書かれています。この31節はエレミヤ9:23からの引用です。エレミヤ9:24には「わたしを知っていることを誇れ」と書かれています。私たちが用いています新改訳聖書では、神がご自分のことを言われるときは平仮名で「わたし」と書かれています。そして、神以外の者が自分のことを言うときには、漢字で「私」と書かれています。第2版や第3版はありませんが、第1版ではそれを区別するために漢字の「私」を「わたくし」とルビがふられている箇所があります。エレミヤ9:24は平仮名で「わたし」と書かれていますから、これは神がご自分のことを言っておられるということです。神に選ばれた者が誇ることは、選んでくださった神を知っていることを誇るのです。それは、神がどのような方であるかを誇るということです。
 では、神はどのようなお方でしょうか。何よりも、私たちが生かされていますこの世界を造られ人を造られました。何度も話していますが、造るというのには目的があります。目的を持たずに造るということを私たちはしません。皆さんが座っておられる椅子は座るという目的をもって造られたものです。料理を作るときも、食べるためや食べてもらうため、或いは見せるためかもしれませんが、全て目的があって作られます。神が人を造られたということは、神は目的をもって人を造られたということです。ですから、私たち一人ひとりの人生には目的があるのです。その人生の目的は何かと言いますと、私たちを造ってくださった神のすばらしさを現すというものです。
 では、神のすばらしさを現すとはどのようなことでしょうか。まだ神を信じていない人が、神を信じるように福音を宣べ伝えることでしょうか。或いは、神は義であられ聖なる方ですから、その神を信じる者として品行方正な生活をすることでしょうか。これらも神のすばらしさを現す方法でしょう。ですが、ともするとそのようなことは義務的なものとなってしまいます。「こうであらねばならない」という生き方になってしまいます。例えば、「神を信じる者は神によって罪が赦され救われ聖められたのだから、どのようなときも良い証しをして、機会があれば福音を伝え、どのような人にも優しく接し、真面目な生活をする」というものです。これは間違っているでしょうか。決して、間違ってはいません。確かにその通りなのです。しかし、それを実践できないのが私たちではないでしょうか。ともすると、それらを実践できないことに苦しみを覚えるのではないでしょうか。
 神は、それらを実践できない私たちを御存知の上で愛してくださり、罪を赦してくださったのです。先週の礼拝で、「ありのままの自分とは罪に汚れた存在であると同時に神に愛されている存在である」ということを話しました。実は、ありのままの自分が神に愛され受け入れられていることに感謝し喜ぶ生き方が、神のすばらしさを現す生き方なのです。何故なら、そこには義務的なものがないからです。「こうであらねばならない」という生き方は、誰かから指摘されて行うものであり、自分から出たものではありません。しかし、感謝から始まる生き方は、誰からも指摘されず自分の中から出てくるものです。「そこには苦しみはない」とは言いませんが、その苦しみをプラスに捉えることができます。同じことをしていても、義務的な生き方と感謝から生まれた生き方とは、質的に全く異なります。そして、感謝から生まれた生き方が、神のすばらしさを現す生き方なのです。神のすばらしさを現す生き方のスタートは感謝からです。ですから、神に選ばれた者としての歩みは神への感謝からです。

結)
 私たちは、この世から見れば無に等しい存在です。しかし、神はその無に等しい私たちを選んでくださいました。人が造られた目的、私たちが選ばれた目的は、品行方正な生活をするためではありません。ありのままの自分が神に愛されていることを知るためです。確かに欠点はありますが、今の自分が神に愛されていることに感謝しましょう。今の自分が神に愛されていることに目を向けるとき、大きな力が与えられます。いつも神の愛に目を留め歩まされていきましょう

Ⅰコリント1:18~25「福音は神の力」   16.10.09.

序)
 先月の最後の週に、第6回日本伝道会議が3泊4日のプログラムで神戸にて行われました。2千人ほどの方々が集い、4回の講演とプロジェクトや分科会などが開かれました。教会の理解をいただいて、私も全日程を参加させていただきました。とても有意義な時で、教えられたことが多々あります。その教えられたことを分かち合えたら良いと思わされています。私にとって新鮮だったことの一つは福音についての理解です。今まで私の理解の中では、「福音宣教と社会的責任」という理解だったのですが、講演の中で講師の方が「伝道と社会的責任」ということばを使われ、「その両方を繋げているのが福音である」と話されました。「その通りだな」と思わされ新鮮さを覚えました。さらに、講師は「その福音に生きる生き方が周りに影響を及ぼす」とも話されていました。今朝は、その福音について共に教えられたいと願っています。

1)ユダヤ人にとって
 第1に、福音はユダヤ人にとってはつまずきとなったということです。何故ユダヤ人につまずきとなったのでしょうか。「キリスト教はユダヤ教から出たもの」と言っても過言ではないでしょう。何故なら、キリスト教の背景にはユダヤ教が信じている旧約聖書があるからです。少し整理をしますと、私たちが使っています聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」から成り立っています。旧約聖書はイエス・キリストがお生まれになる前に書かれた書物であり、新約聖書はイエス・キリストがお生まれになられた後に書かれた書物です。旧約聖書に書かれている内容を一言で言いますと、「救い主を送る」という神の約束が書かれています。そして、ユダヤ人はその救い主を待ち望んでいました。イエス・キリストがお生まれになられた時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。当時のユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配から解放され、自分たちの国が建てられるのを願っていました。そして、「そのローマ帝国から解放してくれるのが救い主である」と信じていたのです。当時のユダヤ人から見れば、救い主とはモーセのようなヒーロー的な存在だったのです。当時のユダヤ人は、そのような救い主を待ち望んでいたのです。
 しかし、実際に来られた救い主は、そのようなヒーロー的な存在ではありません。ローマ帝国の支配から解放してくれる働きなど全くされませんでした。むしろ、当時のユダヤ人たちの罪を指摘し、ユダヤ教指導者たちを中心として反感を買われました。そして、最後には十字架につけられて死なれました。十字架刑とは、重い罪を犯した人がつけられる、当時としては最も重い処刑方法でした。その十字架につけられた人は、「神に呪われた人」と理解されていました。ですから、その十字架につけられたイエス・キリストは神に呪われた人だったのです。そのようなイエス・キリストを「救い主」と信じ受け入れることは到底できなかったのです。ですから、ユダヤ人にとって福音はつまずきとなったのです。
 確かにイエス・キリストは十字架につけられ、神に呪われた者として死なれました。でも、それは私たちの罪の身代わりとしてのものです。イエス・キリストが十字架につけられた原因は何でしょうか。マルコ15:10に「     」と書かれています。イエス・キリストが十字架につけられた原因は、ユダヤ教指導者たちの妬みによるものだったのです。妬みというのは、法律で審くことはできません。何故なら、自分の心の中のことであり他人を傷つけてはいないからです。しかし、その妬みは人の命を奪うほどの力のあるものです。人の命を奪うというのは結果です。神は結果よりも、その根本にあるものに目を留めておられるのです。ユダヤ教指導者たちの妬みがなければ、イエス・キリストは十字架につけられて殺されることはなかったのです。イエス・キリストを十字架につけて殺したのは、人の中にある妬みによってなのです。その妬みというのは、私たちの内にもあります。私たちの内にある妬みが罪なのです。ですから、本当は私たちが神の呪いを受けなければならなかったのですが、イエス・キリストが私たちの身代わりとなって神の呪いを受けてくださったのです。でも、ユダヤ人たちにはそのことが分かりませんでした。何故なら、妬みという罪が真理に覆いをかけていたからです。ですから、福音がつまずきとなったのです。

2)異邦人にとって
 次に、福音は異邦人にとっては愚かなものでした。ここに書かれています「異邦人」とは、主にギリシャ人を指しています。ギリシャ人が追求していたものは知恵でした。彼らは、人間の知恵を最高のものと理解していました。ですから、人間の知恵で理解できないものは信じていませんでした。さらに言えば、理解できないものを見下していたのです。例えば、福音の中心の一つである死からの甦りもそうです。そのことが、使徒17:32に「     」と書かれています。何故、彼らは死者の復活の話しを聞いた時、そのメッセージに対してあざ笑ったのでしょうか。それは、今まで自分たちが見たこともなければ聞いたこともない話しだったからです。聖書を信じない現代の多くの人は、「聖書は昔の書物である」と言われます。そして、「当時の人は信じたかもしれないが今の時代は通用しない」と言われます。でも、どうでしょうか。当時の人も福音をあざ笑い、バカにして受け入れなかったのです。当時と現代と全く変わっていないのです。その大きな原因は「理解できないものは信じるに価しない」という考え方だからです。「人間の知恵が最高である」と考えているからです。だから、福音を受け入れようとしないのです。
 このように見ますと、福音に閉ざしているものが何であるかが分かってきます。「人間の知恵は最高のもの」としますと、それに固執してしまいます。そして、それを基準として物事を見てしまいます。物の見方・捉え方が偏ってしまいます。物事の見方の違いは視点の違いです。例えば、創世記5章に書かれていますエノクとレメクの違いがそこにあります。レメクは、自分に生まれた子どもの名前を「ノア」と名づけました。ノアとは「慰め」という意味です。レメクは、自分が生まれた子どもが慰めを与えてくれることを願い、その子の名前を「ノア」と名づけたのです。ここでの主語は「この子」なのです。決して「主」ではないのです。レメクは「主はこの子を通して慰めを与えてくれるだろう。」とは語っていないのです。レメクの地上での生活は苦しいものでした。彼は、その苦しみから逃れたかったのです。生活の苦しみについては、レメクの祖父であるエノクについても同じです。ですが、エノクは神と共に歩んだ人として紹介されています。しかし、レメクについては「神と共に歩んだ」とは紹介されていないのです。その違いは視点の違いによってです。
 レメクは、地上での苦しみしか目を留めていなかったのです。確かに、人が神に対して罪を犯したことによって、地上は神に呪われたものとなってしまいました。そのため、人は顔に汗を流して食物を得なければならなくなりました。しかし、その苦しみの中にも神の恵みがあったのです。でも、レメクはその神の恵みに目を留めることができなかったのです。彼の父親はメトシェラという人です。このメトシェラは、聖書に登場する人物の中で一番長生きした人です。そのメトシェラの子どもであるレメクの目からすれば、人がどれほど長生きしても苦しみしかないように見えたのです。地上が神に呪われたがために苦しみが生じたことはエノクにおいても同じでした。しかし、エノクはその苦しみの中にある神の恵みに目を留めていたのです。だから、エノクは神と共に歩むことができたのです。自己中心的な見方・視点に陥ってしまいますと、見えるものも見えなくなってしまうことを創世記5章から教えられるのではないでしょうか。レメクは自分中心に物事を見ていました。それは、自分の知恵に頼っていたことをも表しています。そして、異邦人も人間の知恵を最高のものと考えていました。そのために、人間の知恵では理解できない福音を愚かなものと判断してしまったのです。

3)信じる者にとって
 福音はユダヤ人にはつまずきとなり、異邦人には愚かなものとなりました。では、信じる者にとってはどのようなものでしょうか。18節に書かれていますように、福音は信じる者にとっては神の力なのです。見えるものをしっかりと見せてくれるものが福音なのです。以前にも見ましたが、創世記21:8~21にハガルとイシュマエルがアブラハムの家から追い出されたことが書かれています。彼らは荒野の中をさ迷い歩きましたが、ついに与えられたパンと水はなくなってしまいました。それで、ハガルは息子イシュマエルの死を見たくないために、投げ出して泣き崩れました。すると、そのとき神がハガルに声をかけられました。そして、神はハガルの目を開かれたので、ハガルは井戸を見つけイシュマエルと共に水を飲むことができました。ここで不思議に思えることは、「何故ハガルは井戸を見つけることができなかったのか」ということです。前にも触れましたが、神がハガルの目を開かれたので井戸ができたのではありません。井戸は前からその場所にあったのです。でも、ハガルには見えなかったのです。何故でしょうか。それは「ない」と思い込んで見渡しているからです。
 今は天に召されましたが、田原米子さんという方がおられました。彼女は、高校3年生のときに新宿駅で飛び降り自殺をはかりました。その後、病院で目覚めます。生きていることが分かり、自分の身体を見ますと、残ったのは右手の親指・人差し指・薬指だけでした。「明日なったら少しは戻るかも」と思いましたが、何日経ってもそのような気配はありません。「退院しても、この身体で何ができるのか」という思いで、これからの人生絶望しかなかったのです。そのようなとき、宣教師とクリスチャン青年が訪問されました。彼女は、「神が居るなら何故こんな目に遭わせたのだ」と文句を言いましたが、彼らは黙ったままです。ある日、暇なので何かしようと思いましたが何もできないので、近くにあった宣教師らが置いていった聖書でも読もうとしました。すると、読んでいる中であることに気づいたのです。それは「ページをめくることができる」ということをです。今まで「何もできない」と思っていましたが、できることを発見したのです。それから肯定的に見られるようになったのです。ハガルもそうです。神に声をかけられ励まされて見渡したとき、見えなかった井戸が見えるようになったのです。この出来事は、私たちにおいても同じことが言えます。「自分はできない」「自分はダメだ」と思い込んで自分を見てしまいますと、本当はできるのにできなくなってしまいます。しかし、自分への見方を変えるとき、自分の可能性に目を留めるように変えられます。これが福音の力なのです。
 福音は、本当の自分に気づかせてくれます。ありのままの自分に気づかせてくれます。ありのままの自分とは、どのような存在でしょうか。まずは罪を犯してしまう存在です。ついつい自分のことを優先させてしまう存在であり、自己中心的な存在です。しなければならないことを知りつつ、しないことがあります。そして自己弁護をしてしまいます。そのような自分を客観的に見ますと、心の醜い存在であることを知らされます。でも、それがありのままの自分なのです。しかし、それだけではありません。そのような自分を神は愛してくださっています。心が醜く自己中心的な私を神は愛してくださっています。良くなった自分を愛してくださるのではなく、ありのままの自分を神は愛してくださっているのです。神は「私という人間がどのような者であるか」を知りつつ、そのまま愛し受け入れてくださっているのです。自己中心的で罪深い存在であるにも拘らず、神に愛され受け入れられている存在。それがありのままの自分なのです。
 福音は、そのところに目を留めさせてくれます。どのようにしてでしょうか。それはイエス・キリストの十字架によってです。「人は分かれば変われるか」と言いますと、分かっても変われないのです。だから苦しむのです。ですが、できない今の自分が受け入れられていることを知るとき、その苦しみから解放されます。何故なら、「今の自分で良い」ということを知るからです。福音は、人に生きる力を与えてくれます。何故でしょうか。18節の最後に書かれていますように、福音は神の力だからです。

結)
 人はことばによって傷つき、ことばによって力づけられます。福音はユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かなものかもしれません。しかし、実は神の力なのです。人を新しく生まれ変えさせ、人を生かすことのできるものなのです。その福音が、さらに私たちが生かされています地域で広がるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント1:10~17「キリストにある一致」  16.10.02.

序)
 私たちが生かされています社会には、様々な組織というものがあります。働いている職場も組織の一つです。学校も組織の一つです。2人以上でなされている働きは「組織」ということができます。そのような点で言いますと、教会も組織の一つです。その組織に欠かすことのできないものは一致です。一致しないと、組織というのはうまく機能することができません。何によって一致するかは、組織によって異なってくることでしょう。教会はイエス・キリストを中心とする組織ですから、キリストにあって一致する組織です。そのキリストにある一致の目的は何でしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)教会を建て上げるため
 キリストにある一致の目的の第1は、教会を建て上げるためです。パウロは10節の後半で「一致して」「仲間割れすることなく」「同じ心」「同じ判断」と、一つになることを繰り返し語っています。ことわざの中の一つに「船頭多くして、舟山に上る」というものがあります。昔の舟は上流から下流に進んでいました。しかし、船頭を多いと「こっちが良い」とか「いやあっちが良い」と口々に言って、舟は上流に上ってしまうということで、一つの目標に向かわず各々が好き勝手なことをしてしまうと、とんでもない方向に進んでしまうという意味です。コリントの教会は、まさしくそのような教会でした。聖書には少なくとも4つのグループがコリント教会の中に存在していたことが書かれています。教会の中で幾つかの派閥が生じていたのです。そのコリント教会に対して、パウロは一つになることを願っています。何故なら、一つにならないと前に進むことができないからです。パウロは「同じ心になってほしい」と願っています。この「同じ心」とはどのようなことでしょうか。幾つかあるグループの中で、話し合ってどれか一つのグループの考え方に統一するということでしょうか。そうではありません。この「同じ心」とは、2:16に書かれています「キリストの心」のことです。
 では、その「キリストの心」とはどういうことでしょうか。イエス・キリストが願っておられたのは、自分の思いを叶えることではなく父なる神の御心を実践することでした。それがキリストの心だったのです。ですから、「私たちがキリストの心になる」というのは、自分たちの願いが叶えられることよりも父なる神の御心が実現されるように願うことです。人には各々自分の思いというものがあります。その自分の思いを持つことは悪いことではありません。それが「より教会のため神のため」と思われています。ですが、それが必ずしも正しいとは言えません。例えば、申命記27:5~6には「     」と書かれています。自然のままの石を祭壇とするよりも、道具を当てて綺麗にした方が神のすばらしさを現せられるようにも思えます。これも神のためです。ですが、神はそのことを禁じられました。また、レビ記10:1~2には「     」と書かれています。ナダブとアビフの行為は「神が定められた方法よりも、この方法がより神のためである」というものだったと考えられます。しかし、神はナダブとアビフを怒られました。これらのことは、神のためであったのですが、神の思いではなく自分の思いを優先しているからです。
 神はそのことを願ってはおられません。神が願っておられることは、神の心と自分の心が同じようになることです。すなわち、自分の思いよりも神の思いに合わせることを願っておられるのです。神が私たちに願っておられることは一致することです。皆がキリストの心と同じようになり、一つになって教会を建て上げていくことを願っておられるのです。何故なら、建物は一つにならないと建て上げられていくことができないからです。建物には土台があり柱があり横木があり角を支えるものがあります。それら一つひとつが助け合って一つの建物を建て上げています。もし、各々が自分の好きなようなことをしますと、決して建物を建て上げていくことはできません。キリストにある一致の目的の第1は、教会を建て上げるためです。

2)使命を果たすため
 キリストにある一致の目的の第2は、神から与えられた使命を果たすためです。パウロは14節で「     」と語り、17節でも「バプテスマを授けるためではなく」と語っています。これは、パウロ自身がバプテスマを低く見ているということではありません。バプテスマは、イエス・キリストからの直接の命令ですから、教会にとって大切なものの一つです。なのにパウロがこのように語っているのは、使命について語っているからです。パウロに与えられた使命は、バプテスマを授けることではなく福音を伝えることです。14節のことばから、パウロはバプテスマを授けるのは他の人の役目と理解していたのかもしれません。ただ必要があればバプテスマを授けていたのかもしれません。パウロは何もかも自分一人で行おうとしていたのではありません。やってやれないことはないかもしれませんが、優先順位をはっきりとさせていたのです。
 使徒の働き6;1~6に「     」と書かれています。教会の中で食事のことで問題が生じたとき、使徒たちもできたのですが他の人に任せました。それは大切な働きではないから他の人に任せたのではありません。この働きも大切なのですが、使徒たちが優先すべき働きは神のことばを語ることと祈ることだったからです。これが使徒たちに与えられた使命です。その使命を果たすために、食卓のことを他の人に任せるようになったのです。そのようにして教会は、各々が与えられている働きをして教会を建て上げていったのです。
 このことは、現代の教会においても同じです。神は一人ひとりに使命を与えられました。その使命は福音を伝え、教会を建て上げるというものです。Ⅰコリント12:27に「     」と書かれています。頭が考えたことを、身体が果たすことができるように各器官は働きます。例えば、私の頭が「水を飲みたい」と思ったら、コップのある所に足は動きます。そして、目はコップがあることを確認し、手はそのコップを取り蛇口から水を出してコップに入れ、そのコップを口に持って行きます。そして、口は開いて水を入れ、喉は水を体内に入るようにします。水を飲むという一つのことだけで、様々な器官が働きます。その一つひとつの器官の働きは大切なものです。先程の使徒の働き6章に書かれていますエルサレム教会の働きもそうです。食卓に関することは、福音宣教とは直接関係のないように思えます。確かに直接関係はありません。しかし、その働きによって使徒たちは福音宣教の働きに専念できたのも事実です。そのように考えますと、福音宣教のために食卓の働きも大切なものということができます。
 一人ひとりの働きは違いますし、任せられるものも違います。時には「何故私がこのようなことをしなければならないのか」と思えることもあります。その働きは福音宣教に直接関係ないものかもしれません。しかし、その働きは大切なものなのです。もし、奉仕でそのように感じたことが生じましたら、「これも教会の働きのために大切なものである」と受け留めていただきたいと願います。確かに自分の思いがあります。ですが、私たちが優先すべきものは自分の思いではなく教会を建て上げることです。神は教会を建て上げるために、各々に使命を与えておられるのです。私たちに与えられている使命は教会を建て上げることです。そのことを覚え、互いに助け合いつつ与えられている務めを果たしていきたいものです。

3)神の知恵を持つため
 キリストにある一致の目的の第3は、神の知恵を持つためです。17節に「キリストの十字架が空しくならないため」と書かれています。これは、信仰が与えられた後のことを語っています。それは信仰が与えられても、キリストの十字架が空しくなる時があることを表しています。イエス・キリストの十字架の意味を知り、イエス・キリストを信じ受け入れたときには喜びが湧いています。ですが、月日が経つにつれ過去の出来事となって、信じたときの喜びが薄れてしまうというのです。そのようなことは、私たちの内にもあるのではないでしょうか。何故そのようになってしまうのでしょうか。聖書はそのことについてはっきりと語っています。それは「ことばの知恵」によるからです。
 17節の最後の「ことばの知恵によってはならないのです。」とは、ことばの知恵に頼ってはならないということです。「ことばの知恵」とは、この世の知恵のことです。この世の知恵に頼るとは、この世の基準において判断するということです。すなわち、この世の価値観で判断してしまうということです。ことばの知恵・この世の知恵は、キリストの十字架を空しくさせてしまいます。何故でしょうか。キリストの十字架が表しているものは神の力です。人はキリストの十字架によって、神のみことばに耳を傾けるようになります。そして、神のみことばは「罪の赦しや人の歩みの全ては神によるものである」と語っています。人がどれほど頑張ったとしても、そこには限界があることを示しています。しかし、神は限界のない方であり、どのようなこともできる方です。だから、その神に頼ることを勧めているのです。
 しかし、ことばの知恵はそうではありません。ことばの知恵はこの世の知恵であり、この世の知恵は「その人が頑張ることによって得ることができる」と思わせます。ですから、この世の知恵は自分に頼ることに目を留めさせようとします。自分に頼ることに目を留めさせようとしますから、自分のすばらしさを現そうとします。ことばの知恵であるこの世の知恵は、何事においても自分が中心なのです。恵みについても「ありがたいもの」とか「御利益的なもの」といった自分が受けるものと理解しています。ですが、神の恵みはそうではありません。確かに恵みは「ありがたいもの」です。しかし、そこで終わってしまうのではなく、さらに踏み込んで「神はこの恵みを通して私に何を願っておられるのか」を気づかせるものです。さらに言えば、「神から受けている恵みに対して、私は神にどのようなことができるのか」を考えさせてくれるものが神の知恵です。
 この捉え方は大きな違いがあります。この世の知恵は自分が受けることに関心を寄せますが、神の知恵は自分の対応に関心を寄せさせます。例えば、「神は私に何をしてくださるのか」に関心を寄せさせるのはこの世の知恵です。しかし、「私は神に何ができるのか」に関心を寄せさせるのが神の知恵です。それは、神と私たちの関係だけではありません。「何をしてくれるのか」は受けることです。「何ができるか」は与えることです。様々な事柄に対して、受けることに関心を寄せるか与えることに関心を寄せるかで、その人の生き方は大きく違ってきます。受けることに関心を寄せる生き方は消極的人生と言えるでしょう。そして、与えることに関心を寄せる人生は積極的人生と言えるのではないでしょうか。その生き方は大きく違ってきます。神の知恵は、人を積極的人生へと導いてくださるものです。

結)
 パウロは、コリント教会にキリストにある一致を願っています。キリストにある一致は教会を建て上げるためです。教会を建て上げるためには、その教会に集う一人ひとりが与えられている使命を果たしていくことが大切です。そこには「自分が神のために何ができるのか」という知恵が必要です。神は私たちにもキリストにある一致を求めておられます。そのキリストにある一致によって、共に教会を建て上げていきましょう。