2004,11,7

神の宮は御心の止まる場所に建てられる』

エペソ2:20〜22


「またあなたがたは,使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である.このキリストにあって,建物全体が組み合わされ,主にある聖なる宮に成長し,そしてあなたがたも,主にあって共に建てられて,霊なる神のすまいとなるのである.」

導入:神の宮は神が宿るところであり(詩篇11:4、ハバクク2:20)、かつキリストの体であり(ヨハネ2:19〜21、黙示録21:22)、ひいてはキリストの体である教会です(コロサイ1:18)
私たちクリスチャンも、イエス.キリストを信じる聖徒として(1コリント3:16、6:19)、使徒たちと預言者たちの信仰の土台の上に聖霊の助けによって組み合わされ、神様の宿る聖なる宮として建てられていかなければなりません。

私たちの一生涯において、神様が宿る聖なる宮を建てることができるなら、なんと大きな祝福でしょうか。ダビデ王が神の宮を建てようとさまざまな努力を尽くしましたが、ダビデ王は、神の宮を建てることを許されずに、ダビデの子ソロモンを通して神の宮を建てるようにと神様から命じられました。

神の宮はどこにでも建てることができたのでしょうか?宮を建てる場所は、神様によって指定されました。ソロモンが神の宮を建てた場所は、エルサレムにあるモリヤに建てられたと聖書に記されています(歴代下3:1)。「モリヤ」と言えば、アブラハムの信仰とイサクの従順の行いを思い出すでしょう。では、なぜ神の宮が「モリヤの山」という指定された場所に建てられたのでしょうか?また、その場所の上に、どのような神の宮が建てられることを神様は求めておられるのでしょうか?今日与えられた御言葉を通して神様の御旨を悟り、御心にかなう信仰者として、神様に喜ばれる美しい宮を建てる者となりましょう。そして、全ての栄光を主に帰し、大いなる祝福を受ける尊い御わざが、主に在る皆様にありますように。

『ソロモンはエルサレムのモリヤの山に主の宮を建てることを始めた.そこは父ダビデに主が現れた所,すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である.』(歴代下3:1)

神様の宮は献身の場所、犠牲の場所の上に建てられました。このモリアの山はアブラハムが一人子イサクを捧げることによって、神様から信仰を認められた場所であり、イサクが従順によって、死から生へと復活を体験した場所です(創世記22:1〜9)。

1.信仰の土台があってこそ神の宮を建てられます。

アブラハムは、「イサクを燔祭として捧げなさい」との神様の命令に従った結果、その信仰を認められました。アブラハムは、自分の命よりも大切な息子を、神様からの「捧げよ」との命令に、「御言葉に従う」という従順を示しましたが、同時に「与えて下さった子を、神様は、必ず生き返らせてくださる!」と信じて捧げることができた『復活の信仰』の持ち主でした(ヘブル11:19)。アブラハムたち一行は、三日の道を歩いてモリアの山に着いたとき、若者とロバを山の入口に残し、イサクにたきぎを背負わせ、手には火と刃物を執ってモリヤの山に登ります(創世記22:5〜6)。ここで私たちはアブラハムの知恵を見ることが出来ます。神の御心を悟れない為に、妨げになりうる若者やロバと行動を共にしなかったアブラハムの姿です。

もしアブラハムがイサクを縛り、刃物で殺して燔祭(はんさい)として捧げようとする光景を若者たちが見て、「私たちの主人が年を取っておかしくなった」と、アブラハムの行動を理解できず、かえってイサクをロバに乗せて、慌てて逃げて行ったならどうなったでしょう。アブラハムが、神様の御言葉に従順することが出来なかった可能性も起こり得るのです。今日も私たちが信仰生活をする時、回りの多くの人々がすべてを理解してくれることはありえないでしょう。一人で決断しなければならない時もある、と言う事です。御言葉の奥義(神の御心)を悟ることの出来ない若者とロバ(生贄)を除外したアブラハムのような知恵が、私たちにも必要です。

『彼は,神が死人の中から人をよみがえらせる力がある,と信じていたのである.だから彼は,いわば, イサク を 生きかえして 渡されたわけである.』(ヘブル11:19)

2.従順の土台があってこそ神の宮を建てられます

その当時イサクの年は25〜30歳だと推定できます。そのイサクに対して突然父アブラハムが、朝早く起きて「神様に燔祭を捧げに行こう」と言います。しかし見ると火と薪はあるが、燔祭として捧げるべき子羊が見あたりませんでした。不思議に思いイサクが父アブラハムに、「燔祭として捧げるべき子羊はどこにありますか」と聞きます。その時アブラハムが「燔祭として捧げるべき子羊はお前だ」と、どうして言えるでしょうか?ありのままの事実を言えないアブラハムの心を推し量る事が出来ますか?結局アブラハムは「神様から備えられるであろう」と言うしか術がなかったのではないでしょうか。

モリアの山に登った時に「あなたが子羊として捧げられなければならない」と父アブラハムから告げられた時、自分の思いをすべて断ち、完全に従順したイサクの従順な姿はまさに偉大なる姿そのものです。神様からの啓示はイサクが直接受けたわけではありません。父アブラハムが啓示を受けてイサクに伝えたのです。

しかし、聖書を見るとこのような状況の中、イサクは一言も言い訳も、反抗をしたり逆らったりもせずに、そのまま従順して縛られ祭壇に上げられました。その時のイサクの心は死ぬことを覚悟した、完全に死んだ状態ではなかったのでしょうか?父アブラハムを通して神様の御言葉を聞いたイサクは、その御言葉の前で完全な従順を示した結果、死を見ずに再び生き返えらされた復活の祝福と、神様から備えられた、「アドナイ・エレ」の祝福を受けたことを聖書の御言葉を通して知ることが出来るのです。

アブラハムがイサクを連れて三日を歩いたのはイエス.キリストが三日目に復活することに対するしるしであり、アブラハムが二人の若者を連れて行ったのはイエス.キリストの復活を証した二人の御使いのしるしであり、イサクが薪を背負って登ったのはイエス.キリストが十字架を背負ったことのしるしであり、イサクが父アブラハムに死に至るまで絶対的に服従したことはイエス.キリストが父なる神に示した絶対的従順のしるしです。

このように聖なる神の宮が建てられる場所は代価が伴う場所でありました。アブラハムとその子イサクの従順は自分の命を捧げる従順でありました。彼らが命を捧げる瞬間、彼らには新しい命が与えられました。イサクは死なないで生き返らされました。これはイエス.キリストの復活のしるしとして私たちに語っているのです。

結び:今日、私たち信じる者の信仰は、死に至るまで従順されたイエス.キリストの土台の上に建てられています。神様は、イエス.キリストの命の代価によって私たちの命を買い取ってくださったのです。ですから私たちが今日生かされるのは、ただキリストの献身と犠牲の代価によってであります(气Rリント6:20、ガラ2:20)。今日の私たちはアブラハムのような信仰、イサクのような完全な従順な姿勢を模範として生き、父なる神様の御言葉に死に至るまで従順になられたイエス.キリストの血の代価に心から感謝を示しつつ、神の宮を建てる働きに最善を尽くして加わるならば、神様はその真心を受け取り、御心にかなう神の宮、喜ばれる神の宮、見てよしとされた聖なる神の宮が建てられる事を信じます。

『あなたがたは,代價を払って買いとられたのだ.それだから,自分のからだをもって,神の榮光をあらわしなさい.』(1コリント6:20)

『生きているのは,もはや,わたしではない.キリストが,わたしのうちに生きておられるのである.しかし,わたしがいま肉にあって生きているのは,わたしを愛し,わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって,生きているのである.』(ガラテヤ2:20)



日本ナザレン教団 赤坂教会



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