2004,10,31


険しい道の生ける望みと祝福された望み』
テトス2:13、气yテロ1:3〜4


序論

 今、私たちが生きているこの世の中は、不安をもたらせる材料が溢れています。経済は揺り動き、失業者は増えています。貧しい人はますます貧しくなります。人格形成を担って、将来の国の宝を作り上げるはずの教育までもが揺れています。進学と就職の不安は、若い人々をますます不安の中に落としいれようとしています。水と空気の汚染など、地球環境の汚染や、生活環境の悪化によって、人々は生きる気力を失いつつあります。戦争に対する不安、種々の病に対する不安の中で暮らしているのが現代人の姿であると言っても過言ではないでしょう。
 イエス・キリストも自ら「難しい時代が来る」と言われ
(マタイ24:1〜2)、「ノアの時にあったように,人の子の時にも同樣なことが起るであろう.」と言われ(ルカ17:26〜27)、「また日と月と星とに,しるしが現れるであろう.そして,地上では,諸国民が悩み,海と大波とのとどろきにおじ惑う」と言われました(ルカ21:25)。それで、多くの人々は世界に起ころうとすることを思い、気絶すると言われながら(ルカ21:26)、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、と言われました(ルカ21:31〜36)。
 わたしたちは、今のこのような人間の不安と恐れをどのように克服すべきでしょうか。これらは政治、教育、文化などの共通の課題であって、すべての宗教も含めて、それらの問題の解決策を模索し苦労しています。では、『聖書』はどのように示唆しているのでしょうか?主が提示する解決策は、どのような方法なのでしょうか?

1.からし種のような命の力を持つべきです。

 人類の望みは、神様から与えられる汚染されていない永遠の命です。私たちは、その命を受けてこそ問題を解決することが出来ます。からし種は非常に小さなものですが、成長すれば空の鳥が来て安らぎを得ることができるほどに大樹になります。同じように見るに足りない私たちが、永遠の命なるイエス・キリストに在る時、祝福された望みを得ることができるのです。その時、私たちは永遠の命なるイエス・キリストを所有するようになり、血筋によらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらない系図へと変わり(ヨハネ1:12)、力の無い者が、力を得て力と能力と聖霊の勢いを受けるようになります。ですからイエス・キリストは、「信ずる 者には,どんな事でもできる」と言われました(マルコ9:23)。 使徒パウロも、「わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる.」と言われました(ピリピ4:13)。
 イエス・キリストが、マリヤとマルタの家を訪ねて御言葉を語ったとき、「一言葉を逃さないで聴こう」とイエス様のそばで耳を傾けた信仰の人マリアと言う女性がいました。しかし、力の主イエス・キリストの側近くにいて、御言葉を頂いていながらも、兄のラザロが死んだ時に駆けつけたイエス様に対して「主よ,もう臭くなっております.四日もたっていますから」と、現実に起こった『兄の死』という状況を目の前にした時に、マリアの信仰が揺れていることを見ることが出来ます。それを感じたイエス・キリストは、愛するラザロの死の前で揺れているマリアの信仰を回復して下さったのです(ヨハネ11章)。
 私たちは、辛い生活のゆえに、耐えられない悲しみのゆえに、それまで、「人生の主人である」と信じ、委ね、従ってきたイエス・キリストの力をすっかり忘れることもあるでしょう。そして自分に追い迫っている現実だけが、ラザロの墓の入り口にあった大きな石のように、自分自身を押しつけている「大きな石」となっているのではないでしょうか。その時こそ私たちは御言葉に従って石を移す信仰を持ち、再び生き返らせることのできるイエス・キリストの力を経験すべきです。
自分の中に、「信仰の視点」ではなく「否定的で現実的な視点」にのみ固執し、塞いでいる大きな石はないですか?思い巡らせてみましょう。
 愛する皆さん!主の命を所有する時、たとえ天下を与えても取り替えることの事の出来ない、死なないで生きる、イエス様の栄光の体と同じかたちになるのです(ピリピ3:21)。信じる聖徒らは「宝である」と呼ばれます(イザヤ33:6)。


2.狭い門に入るよう努力すること。
 狭い門に入るのはまことに難しいことです(マタイ7:13〜14)。しかし、入る努力をすべきです。狭い門は、命に導く門です。決して放棄してはいけません。

イスラエルに行くと、救い主イエス・キリストがお生まれになった馬小屋の場所だったのではないかと言われる場所に、現在、記念の教会が建てられています。その教会の門は低く、頭を下げて腰を屈めないと入ることが出来ません。この門を思う時、私たちも、主に出会うためには頭を下げて、腰をかがめる「謙遜」があってこそ会えるのだと考えさせられます。狭い門は謙遜な者が入ることが出来るのです(箴言22:4)。
 エルサレムの宮の大きな門のそばに、小さな門があります。一人がやっと通るくらいの門です。人々はその門を「針の穴の門」と呼んでいます(マタイ19:24)。その門を通るためにはすべての荷物を下ろして、体だけ通らなければなりません。これは「心を無にしなさい」と言う意味です。イエス・キリストのように心を無にしなければなりません(ピリピ2:5)。このように、自分を十字架に釘づけにするまでに自分を無にし、謙遜にならなければ、決して狭くて低い門を通ることが出来ません。 

旅人は荷物が軽ければ軽いほど、行程を楽に過ごすことが出来ます。荷物をたくさん抱え、重ければいくらも進まず倒れてしまいます。
 愛する皆さん!皆さんの前に置かれた門は確かに狭い門です。しかし私たちは、そこを通らなければなりません。決して安易に通りやすい道(門)に行っては行けません。その門は滅びに導く道であり、門である、と聖書は警告しています。狭い門は、そこを通る私たちにとって苦しく、困難な門ですが、通過すれば、それは命にいたる門になるのです。


3.神様から定められた道を行くべきです。

 パリサイ人たちがイエスを訪ねて、ヘロデ王がイエスを殺そうとする陰謀を企ていると教えました。その時イエス・キリストは、この地に来た目的に対して、「きょうもあすも,またその次の日も,わたしは進んで行かねばならない」(ルカ13:33)と言われました。すなわち、神様が定めておいた御計画のとおり人類の罪を贖うために行くべき道を行かなければならないことを言われたのです。ヘロデ王の陰謀にもイエス・キリストの心は動揺せず、ただ十字架に向かって歩かれたのです。全人類に対するイエス・キリストの生き方のプログラムは変わらなかったのです。神様の定まれた時間に合わせて歩かれたのです。イエス・キリストは自らの使命のプログラムをルカ13:31〜33節の御言葉を用いて発表されました。
 イエス・キリストは、今日も父の御旨であり、明日も父の御旨であり、明後日も父の御旨であると信じたのです。そんなイエス・キリストは常に孤独でした
「きつねには穴があり,空の鳥には巣がある.しかし,人の子にはまくらする所がない」と言われました(ルカ9:58)。イエス・キリストは十字架を目の前にして心が苦しかったのです。死にそうに苦しんでいたのです。しかし、誰一人、イエス・キリストの枕するところになってあげる人はいませんでした。イエス・キリストは一人、十字架の狭い門を通らねばならなかったのです。


結び

からし種はとるに足りない小さな種ですが、無限大の「命の力」を持ち、呼吸し、成長を続けます。狭い門を通るのは緊張し、辛くて厳しいけれども、「命にいたる道」となります。使命の道には危険と艱難と孤独が待っていますが、「完成と栄光の約束」があります。神様は、私たちに生きる望みを与えて下さいました(詩篇119:49)。生きる望みをしっかり持って、すべての不安と心配と憂いを克服し、勝利するわざがありますように、主の聖なる御名によって祝福いたします。




日本ナザレン教団 赤坂教会



NEXT BACK  HOME