(ガラテヤ6:7−10、ビリピ3:5〜14) |
序論:私たち信じる者にとって、捨てるべきものと捨ててはならないものがあります。放棄すべきものがあれば放棄してはいけないものがあります。もし、捨てるべきものを捨てず、捨ててはいけないものを捨ててしまうならば、その道は栄えるとは言えません。世のものは放棄するとしても、神様の御言葉は決して放棄してはなりません。今日与えられた御言葉を通して、何を捨て、何を選択すべきかをしっかりと心に踏まえ揺れ動く事のない信仰を持ちましょう。 1.あらゆる種類の悪から遠ざかるべきです。 第一テサロニケ5:21〜22に「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。」と勧めています。たとえば、聖書は「刺青(いれずみ)」を禁じています。レビ記19:28節「死人のために身を傷つけてはならない。また身に刺青をしてはならない。私は主である。」しかし、時代の流行に流されて行っている現状があります。 使徒パウロは「過去の自分にとって最も益であったものでも、キリストのために損と思い、それらのすべてのものを排泄物のように思った」と告白しています(ピリ3:7〜8)。この「排泄物のように思った」ということは、何の未練もなくすべてを放棄するということを意味します。このように如何なるものであっても神様に良しとされないものは、未練を持つ事なく捨てること、遠ざかることであり、これが信じる者の本分です。 人は自分の蒔いた通りを刈り取ることになります。すなわち、肉によって蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊によって蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ることになります。 詩篇の著者は「ヤコブの神を自分の助けとし、主なる神に望みを置く者は幸いである。」と言われました。これは、あらゆる種類の悪から遠ざかって徹底的に神の助けによって生きる聖徒のあるべき姿です。ダビデがゴリアテを倒す時もこのような信仰を持って立ち向かいました。ゴリアテは自分の巨体と身に付けた武器を信頼し戦いに挑みましたが、ダビデはただ万軍の主神の名を信じて戦いに挑んだのです。 私たちがいまだに固執して持ち続けているものは何でしょうか?世的な風俗と習慣、趣味など、どんなものであっても神に委ねることができなければ何の益にもなりません。神様に在って不必要なものは、大胆に捨てることの出来るクリスチャンになりましょう。 2.憎しみと妬み、嫉妬を捨てるべきです。 聖徒が捨てるべきものは、憎しみ、妬み、嫉妬のような心理的な事柄に関するものです。これらのものは目には見えませんが、私たちの人生を左右する最も重要な要因であり、私たちの幸いの妨げとなるので、必ず捨てなければなりません。 旧約の中からダビデとサウロ王との関係を探ってみるとき、サウロの衰退の原因が憎しみと妬みと嫉妬であったことが分かります。サウロは千を倒し、ダビデは万を倒す、と歌ったイスラエルの女たちの声を聞いた瞬間、サウロの心の中にダビデに対する憎しみと妬みと嫉妬が芽生えました。 サムエル上18:28〜29節の御言葉を見ると、「しかしサウロは見て、主がダビデと共におられること、またイスラエルのすべての人がダビデを愛するのを知った時、サウロは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウロは絶えずダビデに敵した。」と記されています。イスラエルの危機から救い出した人物であり、自分の婿でもあるダビデを愛することができず、絶えずダビデを憎み、敵となったのです。 神様がダビデと共にいることを知りながら、ダビデに敵対したことは、結果的に神様に敵対した事と同じです。このような肉の思いは、ローマ8:6節によると、「死」であり、ホセア10:13節の「悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの実を食べた」と記されている通りです。このような人々は自らを欺く人々です。 肉の思いは憂いと心配のみがあります。そして憂いや心配は、神様の愛と全能なる神様に対する信仰を妨げ、同時に霊の目を遮ってしまいます。サウロ王のように「恐ろしさ」に捕らわれてしまいます。恐れる者(おくびょうな者)は天国に入ることが出来ません。(黙示録21:8、第一ヨハネ4:18に節) 3.聖徒が放棄してはいけないものは赦しとあわれみの心です。 ヨセフが17歳の若さで兄たちの陰謀によってエジプトに売られました。そして、13年間囚人として苦しみ、やがて30歳のときにエジプトの総理になりました。ヨセフが夢で見た通り、エジプトの地に7年間の豊作と7年間の凶作が実際に起きた時、飢饉の地から穀物を求める為、過去にヨセフを売った兄たちが彼の前に現れました。その際、ヨセフはどう対応したでしょう?エジプトの総理がヨセフだということを知った兄たちは、報復されることを恐れ、怯えていました。しかし、ヨセフは「これらのすべてが神様の御こころでした」と彼らを赦し、あわれみの心で彼らを抱いて受け入れました(創世記45:4〜8)。 このようにヨセフの成熟した信仰の状態は、彼が結婚し、生まれた子供につけた名前を通しても分かります。初めの子の名前を「マナセ」と付けました。マナセとは「忘れた」と言う意味を持つ言葉です。憎しみと復讐など多くの苦しい記憶をすべて忘れ去り、心から相手を赦すことができる者に生まれ変わったという信仰の表れです。 その結果、二番目の子「エフライム」の名前のとおり「豊かに栄える祝福」をヨセフが享受することとなったのです。 結論:捨てるべきものを持っているならば、今日与えられた御言葉を通して速やかに捨てるよう願います。また、つかむべきものを、まだつかんでいないのなら、これもまた速やかにつかみましょう。神様の恵みから漏れることのないようにしましょう。(ヘブル12:15)神様のあわれみを受けて、時にかなった助けを受けるために大胆に神の恵みの座に近づく皆さんになりますように、主の御名によって祝福します。
日本ナザレン教団 赤坂教会 |