主日聖誕礼拝 2004/12,19

誕生の祝いの杯と犠牲の苦しみの杯
マタイ2:6〜12



導入:イエス・キリストの誕生は特別啓示であり、最も優れた奇跡のひとつです。そして、私たち人間にとって永遠の希望でもあります。それ故に私たち信じる人々は、イエス・キリストの聖なる誕生の意味を正しく理解した上でクリスマスを守る必要があります。もし、聖なる誕生の奥義を知らずに、世的な雰囲気にのまれてクリスマスを楽しむならば、それは救い主の誕生ではなく、人の誕生の祝いになってしまいます。
旧約聖書には、救い主の聖なる誕生を正しく迎え入れ、備えるための多くの預言の御言葉が記されています。しかし、イスラエルの民は救い主イエス・キリストを正しく迎え入れることができませんでした。もし、彼らが旧約聖書に記されている御言葉の奥義を悟り、理解していたならば、聖なる誕生の出来事を通じてイエス・キリストを快く迎え入れたことでしょう
(使途13:27)
今日私たちは、聖書に登場する東方の博士たちが捧げた贈り物の意味は何なのか?また、何故イエス様は馬小屋の飼い葉おけに寝かされたのか?など一連の経緯を通してイエス様の聖なる誕生を心から受け入れ、父なる神様の御旨を悟り、正しい信仰の心構えについて学ぶ必要があります。

本論1.ベツレヘムの飼い葉桶に寝かされたイエス    
      
ベツレヘムは「ベイツ」(家)と「レヘム」(パン)が合成されたことばで、パン屋と言う意味を持っています。神様はこの「パン屋」に永遠の命のパンであるイエス・キリストを生まれさせたのです。
イエス様も「わたしは命のパンである」と語られました。このパンを食べるならば死ぬことがなく永遠に生きると言われました(ヨハネ6:48〜51、58)。
イエス・キリストを食べると言うのは、命のパンであり、天から下ってきた生きたパンであるイエス・キリストを信じて心に迎え入れるということを意味します。

「イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。   
−ヨハネ11:25〜26−

この命のパンであるイエス・キリストが馬小屋でお生まれになり、飼い葉おけに寝かされたことにも大きな意味があります。イエス・キリストが来られた時、人々は罪に溺れ、まさに獣のような状態であり、神を失った人間の本能のままに暮らしていました。すなわち生きているというのは名だけで実は死んだ姿でありました(黙示録3:1)。ですからイエス・キリストは人間の糧であるパンとしてベツレヘムに、そして、獣の餌として馬小屋の飼い葉おけの餌として来るしかなかったのです。
しかし、それを食べる者は獣から人へ、人から神の子へ、死から命へと生まれ変わるのです。また、その命のパンによってますます新しい力を得るのです。今年のクリスマスはイエス・キリストの誕生に贈り物を備えて心から祝い、イエス・キリストの真のパン、命のパンを食べて新しい力と新しい希望に生きる者になりましょう。

本論2.捧げられた贈り物の奥義  
                
「東方の博士ら」という言葉は、「東の博士たち」(文語訳)、「東からきた博士たち」(口語訳)、「占星術の学者たちが東の方から」(新共同訳)と、聖書の訳によって多少記述に相違があります。この人たちがユダヤ人の王として生まれたイエスを拝みに来たと記されています。
東の博士たちは各々宝の箱を開いて黄金と乳香ともつ薬の贈り物を捧げました。この贈り物はイエス・キリストの誕生を心から喜び、受け入れようとする人々になくてはならない信仰の要素を示しています。

1)黄金の贈り物について
黄金は変わらない信仰のシンボルです。
黄金は古代の世界において最高の指導者や大切な人に自分の忠誠心を誓うときに捧げられる贈り物として東西古今を問わず、もっとも貴重なもので、変わらない性質の金属です。ですから彼らが黄金を捧げられたのはイエス・キリストは世のすべてのものを所有するほどの富んだお方であり、絶対的な権威を持つ王としてイエスを認める行為です。したがって彼らが捧げられた贈り物としての黄金は、王の王であるイエス・キリストに対する変わらない信仰を意味します。
今年も変わりなく私たちはイエスの誕生を迎えました。信じる私たちはイエス様の誕生を心から喜び祝うために黄金の贈り物であるイエス・キリストに対する変わらない信仰を備えて心の中に主をお迎えしましょう。(气yテ1:7、黙示録3:18)。

「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス_キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変わるであろう。」− 第一ペテロ1:7−

「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精跖された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。」                      − 黙示録3:18−

変わらない信仰、火に精錬された金のような信仰が、私たちにとって必ず必要とされる時が来ることを覚えましょう。

2)乳香について
乳香は、神のところに立ち上る祈りのシンボルです。
乳香はアラビア地方で取れる香ばしい松脂(まつやに)で神殿祭儀や捧げ物としてよく用いられる高価な香料です。黄金が王としてのイエス・キリストを象徴する贈り物であるなら、乳香は祭司長としてのイエス・キリストを象徴する贈り物です。
特に旧約時代において乳香は神様に捧げられる香料のひとつでした。出30:34〜38節には、神殿の香の壇から神に捧げられる香料にはナフタ香、セェヘレト香、ヘルベナ香、乳香であると記されてあります。
しかし、これらの香の壇から神様に捧げられる香とは聖徒たちの祈りを象徴するものであると黙示録5章8節には記されているように、信じる者の祈りは、香をたく祭壇から捧げられる香と共に神の御前に立ち上ります。

「香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。」(黙示録8:4)

このように、博士らが捧げた贈り物としての乳香は、暗闇の中にあっても常に目を覚まし、祈ることによって、夜を照らす光として到来するイエス・キリストを迎え入れようとする行為です。このように神に捧げられる生きた祈りは神様に捧げられる最も好まれる贈り物であると同時に、今日世の終わりを生きる聖徒たちも、祈りによって目を覚ましていなければなりません。

「これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」(ルカ21:36)。


3)没薬について

没薬は忍耐ある信仰のシンボルです。
没薬はおもに防腐剤として使用されますが、誰しもが用いる事は出来ず、最も身分の高い人や大切な人の死体にのみ塗る大変高価なものです。ですから没薬はイエス・キリストの受難と死に対する備えの贈り物でもあります。
罪人に赦しを与え、神と人の和解と平和のために来られたイエス・キリストは同時に人間のすべての不幸と苦しみのために自分の命を捨てられたお方です。ですからイエス・キリストの誕生とコルゴダの十字架を切り離して考える事はできません。天の御使いの歌声と、イエス・キリストの両手足に刺される釘の音を同じ耳で聞く時に、イエス・キリストの誕生の意味を悟ることができるのです。救い主の誕生を真に祝う事ができる人は、「わたしの罪の為に十字架の苦しみを受けて下さった主の誕生なされた日」と、喜びの祝杯と犠牲の苦い杯につなげてその意味を生かすことができる人です。イエス・キリストは、それらの人々の中にこそ生まれます。

以上のように、博士らが捧げた没薬は、救い主の誕生を祝うと同時にイエスの犠牲の苦しみに備える為の行動です。

この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。」(マタイ26:12)

更に言えば、この没薬は忍耐の信仰を象徴し(第2ペテロ1:6)終わりの時を生きる聖徒たちに絶対的に要求される信仰の要件です。

とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。」(黙示録13:10)

結論:東邦の博士たちがお生まれになった幼子イエス・キリストに捧げた三つの贈り物は、終わりの時を生きる聖徒たちが備えるべき信仰の要件であり、その象徴です。これらの贈り物は、後に幼子イエスを連れてヨセフとマリアがエジプトへ脱出する際に最も重要な助けになったことでしょう。同じように、私たちが備えるべき三つの信仰の要件も、神様の御旨を成し遂げる為に必ず必要な道具となるでしょう。

主に在る皆様が、信仰における霊の贈り物を備えて、神様の尊い御旨を成し遂げる為に惜しむことなく捧げる聖徒になりますようお祈りいたします。



日本ナザレン教団 赤坂教会



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