2004,4,18


小さな実でも求めているのに
マルコ11:12〜14



  イエス様はエルサレムに入り、翌日ベダニヤから出る時に、空腹を覚えられました。遠くから葉の茂った無花果(いちじく)の木を見て、そこに何かありはしないかと思い近寄りましたが、葉のほかに何もありませんでした。そこでイエス様は実のない無花果の木を呪いました(マルコ11:12〜14)。何気なく読んでしまう聖書の一説ですが、この箇所で不思議に思う点が幾つかあります。

1.無花果の時
マルコ11:13では、
「無花果の季節でなかった」と述べています。何ゆえ、無花果の季節ではないにかからわず、あえて無花果の木を呪ったのでしょうか?。イエス様が無花果の木を呪った理由は、この無花果の木を通して御自分の弟子たちとイスラエルの人々に対して実物教育をさせる御心があったからです。すなわち、無花果の木が枯れていたように(マルコ11:20)イエス様を受け入れないイスラエルの未来が、枯れた無花果の木のように滅ぼされることを前もって警告したのです。

 では無花果の木の季節ではないのに、何故イエス様は、遠くから葉の茂った無花果の木をご覧になり、「もし何かがありはしないか」とたずねていたのでしょうか?通常パレスチナでは無花果の木は、3月末頃に芽が出て、5〜6月に実り、6〜7月ごろに収穫をします。したがってイエス様が無花果の木のところに訪ねた4月ごろに実がないのは当たり前のことです。
しかし、そのことをイエス様が知らないわけがありません。ところが、一般的にはあまり知られていませんが、無花果が実る時期の前、葉が茂った後に小さな実がつきます。イエス様は、本物の実はまだ実っていなくても、ほんの少し、口しのぎでも出来ればいいと、小さな実を探していたのです。

 イエス様は、私たちがまだ完全に実った者ではないことを知っています。しかし、私たちが小さな実でも結ぶようにと願っているのです。私たちの小さな悔い改めの実が、私たちの小さな信仰の実がイエス様の糧となるのです。
ヨハネ4:34には、「わたしの食物というのは,わたしをつかわされたかたのみこころを行い,その御わざをなし遂げることである.」
イエス様は、私たちに多くのものを要求するのではありません。御自身の空腹を少しでもしのぐことができる小さな実でも与えてほしいと願っているのです。今まで私たちが、どんな立派な実もなかったとしても構いません。今、小さな悔い改めの実を結びましょう!今、小さな信仰の実を結びましょう!イエス様は、たとえ私たちの実がどんな小さなものであっても大いに喜んで下さるでしょう。
  
2.無花果の姿


 マルコ11:12〜13節を見るとき、
「翌日,彼らがベタニヤから出かけてきたとき,イエスは空腹をおぼえられた.そして,葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって,その木に何かありはしないかと近寄られたが,葉のほかは何も見あたらなかった.いちじくの季節でなかったからである.」と記されています。この無花果の木はどんな姿を持っていたのでしょうか?木の葉は茂っていましたが、実のない木でした。マルコ11:13節に「葉のほかは何も見当たらなかった.」と記されています(マタイ21:19)
その季節は、たとえ実らない時であったにしても、最も小さな実はあるはずだったのです。しかし、その無花果の木には何もありませんでした。葉だけ茂っている無花果の木が指す意味は、「偽りの信仰、外見上信仰」を表します。葉が茂っているという状況をみて人々は当然実があると期期待します。当時の宗教指導者たちはどうだったでしょう。週2回断食の祈り、毎日2回いけにえをささげ、十分の一と捧げの生贄を欠かさず捧げて道徳的に清い生活を送りました。
しかし、彼らは自分たちの正しさのゆえに、常に神様の前で高ぶりをもって威張る生活を送りました。しかし、彼らが信じていた神様が、人の姿形で来られましたが受け入れることが出来ず、却って十字架に追いつめたのです。

 今日に生きる私たちも、外側だけが輝く者になってはなりません。形式的な教会出席と献金、流暢な祈り、人に信仰深い人のように見られる生活をしながらも、実は死んだ信仰の所有者のようになってはなりません。
神様は、聖書のヨハネの黙示録の中で、サルデス教会に向かって、
「神の七つの醯と七つの星とを持つかたが,次のように言われる.わたしはあなたのわざを知っている.すなわち,あなたは,生きているというのは名だけで,実は死んでいる.」と宣言されました(黙示3:1)。このように外側だけ立派で実のない人々を、中身のない人と言います。ルカ11:39節でイエス様はこれらの姿を、「いったい,あなたがたパリサイ人は,杯や盆の外側をきよめるが,あなたがたの側は貪欲と邪とで 満ちている.」と言われました。イエス様は外見も大切にしましたが、先ずは、常に中身を大切にしました。
マタイ15:18〜20には、
「しかし,口から出て行くものは,心の中から出てくるのであって,それが人を汚すのである.というのは,悪い思い,すなわち,殺人,姦淫,不品行,盜み,僞證,誹りは,心の中から出てくるのであって,これらのものが人を汚すのである.しかし,洗わない手で 食事することは,人を汚すのではない。」と言われました。

結論

今日、私たちは各自の信仰が外側だけは立派で、実際中身は空っぽで実のない無花果の木ではないだろうかと、省みましょう。私の外側を立派に見せて誇り、人々から認められることを求めるのではなく、私の中身を持ってイエス様に認められるのが先です。「私はイエス様を信じています」と言い、人もそのように評価しているが、私の中身が本当にイエス様を信じているのか、またイエス様が喜ばれる小さな実でも結んでいるのかを点検しなければなりません。
神様の御言葉と、行いと、御わざとを完全に、真実に、信じているのかを点検するべきです。どんなに正しく信じていると言っても、肉体としてこられたイエス様を認めなかった人々は、実のない葉だけが茂っている無花果の木です。
人を騙すことが出来ても、自分の良心を騙すことはできません。ましてや、生きておられる神様を騙せないのは言うまでもありません。今日も、茂った葉の中の実を持って、主の空腹を満たしてあげる真のクリスチャンになりますように、主の御名をもって祝福いたします。




日本ナザレン教団 赤坂教会



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