神の教会は、人の教会になってはいけません。どんな立派な建物であれ、多くの教会員がいたとしても、メッセージの流暢な牧師がいても、献金が多く捧げられているとしても、それらが霊の教会の条件になるのではありません。教会の看板を掲げるだけでは神様の御心にかなう教会、神の喜ぶ教会とは言えないのです。
真の霊の教会とは、愛の満ち溢れる教会であり、信仰による希望と生ける望みによって満ち溢れる教会です。今、全てが荒れ果てて行くこの時代において、国と民族と神の教会の見張り台としての役割を担う真の教会の出現が切実に求められている時です。私たちは今日与えられた御言葉を通して、神様の御心にかなう、神様に喜ばれる真の教会の原型を学びたいと思います。
霊の教会は城壁の上にあるべきです。
霊の教会は山の下にあるのではなく山の上にあると記されてあります(15)。イエス様もクリスチャンをこの世の光と地の塩であると喩えながら、その光は山の上にあるために隠れることが出来ないといわれました(マタイ5:13~14)。
ここでいう光とはイエス・キリストを示します(ヨハネ1:4,8:12)。あかりは神様の御言葉を意味し(詩119:105)、燭台は家庭を意味します。したがって山の上にある町はこの世を照らす教会の模型です。この世と区別され世俗に染められず、誰もが新たな心さえあれば見ることの出来る高いところにあり、変わりなくその輝く光を照らし地にある人を招いているのです。
ラハブの家は山の上にありました。城壁の上にありました。しかし、この家は誰でも見ることは出来てもたやすい心で上ることの出来ない特別な家でした。
ノアの箱舟がアララテの山にとどまったように、城壁の上のラハブの家も霊の教会でした。なぜならば、この場所で神様の尊い救いの御わざがなされたからです。
霊の教会には神様の奥義が隠れています。
城壁の下の派手な酒場の窓には赤い糸のひもがありませんでした。すなわち神様の奥義を持っている人、預言者がありませんでした。しかしラハブの家には、神様によって遣わされた神の人ヨシュアが送った二人の斥候が亜麻の茎の中に隠れていました(6)。
最も人の出入りが盛んな繁華街では決してありませんでした。しかし救いの核心である神様の奥義がラハブの家には隠れていたのです。ラハブの家は特別な家であり、宝のようで、恵みに満たされた家です。すなわち神様によって備えられた避け所です(詩篇46:1)。神様は、闇の中にある教会と山の上にある霊の教会とをはっきりと区別します。エリコの町が崩された時、城壁の下にある全ての家は滅ぼされましたが城壁の上にあった霊の家は守られたのです。なぜでしょうか?それは、奥義であるイエス・キリストを迎え入れたために、この家は霊の家となったのです。これこそ私たちの教会のあるべき姿ではないでしょうか?
霊の教会には命の歌と霊の酒があります。
遊女ラハブの家は、旅人が憩う家でした。故郷を離れ、あてもなくさすらう人々の足がとどまるところが遊女ラハブの家です。
旅人は、この遊女の笑顔で疲れを癒し、彼女の歌声によって苦労を紛らし、彼女が注ぐ一杯の酒で旅の悲しさや寂しさを紛らわします。
霊の教会もこのような役割を果たすべきところです。私たちにとって人生は旅と同じです。この世の生活がどんなに華麗で豊かであったとしても、いつかは置いて行かねばならない時があります。永遠に所有できるものは何一つありません。
この家の門はいつも開かれています。誰でも入ることが出来ます。疲れ果てて、さまよい続ける孤独な心と魂が来て祈り、神様の御言葉と聖霊の新しい酒によって、天から与えられる慰めと平安を受け、喜んで賛美することが出来る場所です(使徒2:13)。
この家は、貧しいと言うことで、知識がないということで、傷を持っている、等の理由によって拒否されることは決してないのです。
そして、この霊の家は今、傷ついて苦しみの叫びを上げている人々に「入って休みなさい」と呼びかけています。
霊の教会には真の信仰告白があります
斥候の潜入の知らせを受けたエリコの王は、ラハブに斥候の人を出すように迫ります。しかし遊女ラハブは、心の中に隠した神様の奥義を暴露することなく、最後まで守ります(3)。これは彼女の真の信仰の力による行動であることを聖書は証ししています(11)。ラハブは、天においても地においても唯一の神様を告白する信仰を持っていました。
※(エリコの王は黙示録12,13章に登場するサタンの化身を象徴し、ラハブは荒野の神によって用意されたところで救われ、養育を受けた教会、すなわち黙示録の12章に記されている「女」を意味する、という見方も出来ます)
預言の御言葉を信じて従う霊の教会には、どんな荒野の中にあっても、いつも用意された避け所が備えられます。この場所で養われ、精錬されることによって、神様に対する力強い信仰告白をすることが出来るのです。
城壁の下にある家は、二人の証人を受け入れなかった為、王の迫害は受けませんでしたが、上にある霊の教会には、神様の御わざを妨げようとする策謀が追ってきます。しかし、それがどんな巧妙に仕組まれた策略であっても、私たち一人一人がラハブのように、追手が気づかない奥義を心の中に隠してあるならば、心配する必要はありません。神の奥義とは、イエス・キリストであり、神様の熱い愛です。この神様の豊かな愛の御言葉を保ってこそ、私たちは生きることが出来るのです。
結論:二人の証人と交わした約束の保証があった為に、遊女ラハブは艱難と逆境を乗り越えることができました。そして、愛する家族たちと共に生き残ることが出来ました。ラハブはエリコの町の滅びを知っていたと聖書に記されています。
ならば、聖徒たちも奥義を保つことによって、世の終わりの「時」を知ることが出来るということです。
ラハブにとって、窓に結ばれた赤い紐、すなわちキリストの血潮と権勢と力は、彼女が自分の命を呈して受けた真の命の贈り物です。自分の命を懸けて二人の証人を生かした結果与えられたこの赤い紐は、命の保障につながる奥義です。
私たちも地にとどまることを止めて、天を見上げましょう。そして、この糸のひもを受けることができる城壁の上にある霊の教会となり、この地にある全ての闇に光を照らし、霊の酒である御言葉によって憩わせることのできる教会となり、霊の見張り台、霊の見張り人としての使命を全うしましょう。
日本ナザレン教団 赤坂教会
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