2005/1/16

私たちの望みは父なる神にある
詩篇146:5、ローマ15:7〜13



2004年は様々な事故や大きな災害にみまわれた一年でした。しかし、過去をやり直すことができない私たちが今成すべき事は、過ぎ去った月日に学びつつも、心を新たにして、新しい一年を希望をもって待ち望むことです。個人においても、社会や教会においても、望みに満ち、恵みあふれる平安な一年でありたいと願う心で一杯です。

さて、「希望」は生きる人々にとってなくてはならない勇気をもたらせる大きな力です。如何なる困難の中でも希望を持っているならば、挫折することはないからです。第一コリント9:10節には、「耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。」と言う御言葉が記されています。
学生たちはその勉学を通して将来性のある学校に入り、将来を約束してもらいたいという希望を持って、夜を通しながらも熱心に勉強するわけです。また、子供を育てる親は、その子供たちが将来立派な人になる、という希望があるゆえに子供のためには犠牲を払ってまでも尽くすことができるのです。

では、私たちクリスチャンが毎週教会に集まって礼拝をするのはなぜでしょうか。私たちは、「神様が私たちの歩みをより豊かに満たしてくれる」という希望を持っているから熱心に怠る事なく教会生活をしているのではないでしょうか。

聖書のヨブ記の中でヨブは「わたしの命は息にすぎないし、望みの絶えた者の語ることは風のようなものだ。」語っているように(ヨブ記7:7、6:26)、私たちの弱い人生の中にも「主よ、わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。」(詩篇39:7)と告白しつつ歩む新たな一年を過ごすべきではないかと思います。さらに、神は私たちの望みであり、頼みであることを詩篇の著者も告白しています(詩篇71:5)。


過ぎ去った一年間、一つも希望に満たされた生活を経験できなかったかもしれません。しかし、私たちの信仰と望みはつねに神にあります。(第一ペテロ1:21)日々望みを抱いて、ますます神を賛美しましょう(詩篇71:14)。渾沌とした今の時代を生きるうえで、私たちが求むべき望みに対して今日の本文はこう教えています。「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」私たちが求めるべき望みは、人でもなく物でもなく唯一なる神様にのみあるのです。

聖書は神様に対するさまざまな呼称を用いています。全能の神、創造の神、愛の神、公義の神、恵みの神、慈悲の神、慰めの神、怒りの神、裁きの神などそのほかにも数多くの呼称を神様につけて使っています。たくさんの呼称がありますが、新しく与えられた一年を歩み出した私たちに最も適切な呼称は「望みの神」です。荒波で翻弄する私たちにとっては「望みの神」と言う聖なる呼称が最もふさわしく、また希望がある呼称ではないでしょうか。

詩篇146:5節に、「ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。」と記されています。詩篇39:6〜7節にも、「まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを收めるかを知りません。主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。」と告白する詩人たちを見ることが出来ます。
望みの神!今年こそ望みの神をお迎えして歩むべきです。まさに旅人のような私たちにとって唯一の望みは神様です。旅人はいつも不安な存在です。何時、何処で、何が起こるのかが分からないのが旅人の生活です。ペテロはそのような時代のクリスチャンに対して、「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」と言われています(第一ペテロ2:11)。
信仰の父と呼ばれたアブラハムも「あなたの年はいくつか。」と聞くパロの前で、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません。」(創世記47:9)と告白しています。

父を騙し、兄の相続を奪い取ったことによって家を出、野原で眠っているヤコブに望みの神が現れてヤコブの将来に対する約束と望みを与えられました(創世記28:10〜22)。
ヨブは酷い苦難を受けながらも、「彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう。」と告白しています(ヨブ23:10)。彼はわたしの行く道を神様が知っていると告白しています。如何に疲れ苦しい旅路を行くとしても、神を頼みとして歩む人の人生は望みが絶えないのです。

オックスフォード運動のリーダの一人ジョン・ヘンリ-・ニューマン牧師は、(JOHN HENRY NEWMAN/1801〜1890)1883年、32歳の時、イタリアからイギリスに帰国する予定が、船の切符が買えず3週間も足留めをくい焦っていました。その後、どうにかマルセイユと言うフランス船籍の商船に乗せてもらい、地中海を航海することになりました。その船はイタリアからイギリスに向けてオレンジを運ぶ帆船でした。ところが船は、途中の海峡で風が止んだために進むことが出来なくなってしまいました。それは1833年6月6日午後のことでした。炎天下、凪となった海上で帆船はどんどん熱くなっていき、ニューマンと彼の友人は不安に陥りました。
その時、船長がニューマン牧師にこのように言いました。「私の方がもっと辛いのですよ。この船には数百ケースものオレンジを載せているのだから。この太陽の日差しから一刻も早く逃れなければ、このオレンジは全て駄目になってしまう。しかし、私たちは神様が風を与えてくれなければ一歩も先には進めません。ならば、心配するより先に、風を起こしてくれるよう神様に祈ってほしい!」

この船長の言葉は牧師の言葉よりずっと信仰的でした。そこで彼らは、一斉にひれ伏して神様に祈りました。夜になり真っ暗闇の空に一つの星が輝き始めました。そして風が吹き始めました。すると船長はその星を見て航海を続けました。
その時の経験をもとにニューマンが作詞した賛美歌が今も歌い継がれています。
「たえなる みちしるべの ひかりよ いえじも さだかならぬ やみよに
 さびしくさすらう身を みちびきゆかせたまえ」賛美歌288
(韓国語賛美歌429)

神は旅路を行く全ての人々に望みをもたらせる神であり、苦しみの中にある人に希望をもたらせる神です。試練は全ての人々に来る避けられない課題です。
ヨブは、「人が生れて必ず悩みを受ける、火の子(火花)が上に飛ぶにひとしい。」(ヨブ5:7)と告白しています。アダムの子孫として生まれた人生は苦しみに出会って歩みます。モーセが詩篇90:10節の御言葉を通して、「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと惱みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」と告白しました。苦しみは何処にもあります。しかし私たちはこの苦難と逆境を通して神を知るようになるのです。(詩篇119:71,75,67、エレミヤ31:18〜19、ヘブル12:5〜11)。

「うきよのたびゆくみは まくらすべきいえなく うきとおそれ たえずあれど あまこそわが故郷」賛美歌475(韓290)

と歌われるように、どうしても苦難を避けられない人生であるならば、苦難の中にいる人々に常に望みを与えられる神様に私たちは望みをかけるべきです(詩篇107:28〜30、第一ペテロ1:3〜4、23、テトス2:13・祝福に満ちた望み、テトス1:2、3:7・永遠の命の望み)。

ヤコブ5:3節には、「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。」と言われました。
私たちは思いがけない苦痛を受けることが往々にしてあります。水害によって全ての財産を失う場合もあれば、火災によって人命と財産を失ってしまうこともあります。また、経済の破たんによって持っていた富みも一瞬にしてなくなる場合もあり、願ってもない病で命の脅威を受けることもあります。しかし、どのような場合にも、神様を真の頼みとして歩む聖徒には必ず逃れの道を与えてくださる神様です。さらに神様は、罪によって絶望におかれている最も悲惨な人生にも大きな望みを与えてくださいます。
ダビデのようなすばらしい信仰の持ち主も罪の誘惑には勝てませんでした。しかし、彼が涙して心から悔い改めた時、神様はダビデを赦し、聖なる王の位を守らせ続けました。ダビデはナタンの叱責を受けた時に自分の罪を素直に認め(サムエル下12:)「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。」と告白しました。これはダビデが罪びとにも望みを与えられる神様であることを知っていたからです。

姦淫の現場で捕らわれた女にもキリストは彼女の罪をゆるし、新しい望みを与えられたことをヨハネ8章は記録しています。
生涯殺人と強盗の行脚(あんぎゃ)を繰り返してきたであろう強盗さえも「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」と求めた時、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」とイエス様は言われました(ルカ23:39〜43)。
たとえどれほど大きな罪を犯した罪びとであっても神様の愛に絶望はありません。

私たちのこの肉体はいつかは終わりがきます。その終わりがいつになるか、それを知る者は私たちの中で誰もいません。しかし私たちは生きる為に生まれてきたのです。ならば、最後まで希望の神に望みを抱いて一日一日を歩みましょう。そして、わたしを愛し、わたしを救い、わたしの捧げる礼拝を喜んで受け入れる望みの神の前で忠実で善き働き人として歩むことを今日心に定めて怠ることなく前進しましょう。
「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」
この御言葉がこの一年を歩みだした皆様に、勇気と力となりますよう主の御名によって祝福いたします。



日本ナザレン教団 赤坂教会



NEXT BACKHOME