2005/10/2(主日礼拝)

あなたがたを全く知らない
マタイ7:21〜25




わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。ーマタイ7:21〜25ー

序論:世の終わりの時、神様の御前に出て多くのクリスチャンはこう言うでしょう。「この地上でイエス様の名のもとに病を癒し、神様の御言葉を伝えました。教会のために一生懸命奉仕をしました。神様のために献身さえもしました」と。しかし、その結果神様から「あなたがたを全く知らない」と冷たく言い放たれたら、何と恐ろしいことでしょうか。更に神様はこう言われます「不法を働く者ともよ、行ってしまえ」。

この言葉は、神様の御名によって悪を働き、その名を売り物にし、神様の御心とは関係なく自分たちの私欲を肥やし、自分の名声を高めて神の栄光を横取りした全ての人に対する最後の裁きの言葉です。神様は今、この聖書の御言葉を持って、世の終わりに生きる私たちに警鐘を鳴らしておられるのではないでしょうか。何故ならば、この最後通告が実際に私たちの前に提示されたならば、もはや挽回の余地は残されていないからです。今日、私たちは与えられた御言葉を真摯に受け止めなければなりません。では、どうすれば、この警告の対象とならずに済むのでしょうか。

 

1.天にいます父の御心を行うべきです

 今日の本文から語られる神様の御言葉に注意深く耳を傾けなければなりません。イエス様は御言葉を通して、「わたしに向かって主よ、主よと言う者が皆天国に入るのではない」と明言されました。すなわち「主の御名を唱えることが信仰生活のすべてではない」と言う事です。

 私たちは、いかにも容易く、習慣的に、かつ機械的に「主よ」と、呼び求めてはいないでしょうか。困難に直面した時、或いは感謝した時や嬉しい出来事があった時に、しごく当たり前のように主の名を口にします。これらの行為が正しくないと言うのではもちろんありません。しかし、この、「主よ」と呼ぶ思いの中に、私たちのすべてである全能なる神様、創造主であり、永遠の命の主であり、私たちの存在の源なる神様を真に畏れ敬う心を持って御名を呼んでいるかどうかが問題なのです。

「また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。」(マタイ13:47〜48)

 この御言葉は、この世の中から御言葉の網によって引き上げられた魚であるクリスチャンを示しています。神様の聖なる御名を汚し、侮っていながら自分の都合によって、その御名の力を必要とする時には「主よ」と求めることを神様は忌み嫌われます。また、信仰の確信と信頼が欠如したまま、懐疑の心を持って習慣的に呼び求める憎むべき行為を神様は咎めるのです。

 「不法を働く者どもよ」と神様は語られます。御国においては病人を癒す事も、伝道することも、教会の奉仕を行うことも、教師や牧師になることも必要ないからです。天国で必要とされることは、神様の御心を行う事です。神様の御心を行う者とは、その聖なる御名と御言葉の力に、絶大な信頼を持ち、真に畏れ敬う心を持って御名を呼び求める人です。私たちがこのような信仰によって歩む時、神様は決して「あなた方を全く知らない。行ってしまえ」と言われる事はないでしょう。

 

2.エリヤの使命と同じように主の道を備えるべき

 ルカ1:17と75に、再び来るエリヤの使命について記されています。その使命とは、この世で生きる限り、主の前にきよめと正しさを持って、恐れる事なく主に仕える事でした。すなわち「主の道を備える」事が彼に与えられた使命であり、彼の存在目的のすべてでした。そして、「荒野で叫ぶ者の声」として、神様と人とをつなぐ綱の役割を果たす事が彼に与えられた最も重要な使命なのです(イザヤ40:3、詩篇19:4、マラキ4:5)。

 バプテスマのヨハネは、この使命を全うする為にイスラエルの人々にバプテスマを施しました。彼が施すバプテスマの目的は、罪の贖いと悔改めへと導くことでした。この二つの事は、イエス・キリストに会う為には必ず通過しなければならない重要なポイントです。

 ヨハネは、それらの目的をもって民を教えました。罪によって固くなった心を耕さす必要がある事、正しい良心を持って神様を捜し求め、天に属する民となるべきである事をイスラエルの民に訴えました。彼ヨハネの最終的な使命は、民がキリストと真に一つに結ばれる道を開く事によって、律法を終わらせる者となることでした(ローマ6:3〜4、第1ペテロ3:21、マタイ11:13)。

しかし肝心のイスラエルの民は、悔い改めのバプテスマを受けず、自ら神様の御心に背く愚かな者となってしまいました(ルカ7:29〜30)。私たちは再び来られる主を待ち望む者として、エリヤに与えられた使命を全うするごとく、自らの心の畑を耕し、主が来られる道備えをしなければなりません。そのような者を神様は「御心にかなう者」とせられるのです。

3.エリヤの霊と力を持ってくるバプテスマのヨハネを受け入れることです

 ヨハネは自らを「私は荒野に叫ぶ声である」と言いました(ヨハネ1:19〜23)。ここでいう「声」は、詩篇19:3〜4節に「地に響き渡り」の「響き」と同じ単語が使われています。また、この「響き」は、「綱」という意味があります。この事から「荒野に叫ぶ声」が、神と私たちを繋ぐ綱としての役割であることが分かります。

 イスラエルの人々は、今現在も天に移されたエリヤを待ち続けている故に、救い主が既に来られた事を認めません。しかし、バプテスマのヨハネの特徴や(列王下1:8、マタイ3:3〜4)、ヨハネの父ザカリヤの聖霊による証も(ルカ1:17)、ヨハネ本人の答えも(ヨハネ1:19〜25)、イエス様の御言葉も(マタイ17:10〜13、マルコ9:11〜13)、ヨハネが来るべきエリヤであることを示しています。ザカリヤの子バプテスマのヨハネこそが、エリヤの霊と力とを持って、この地上に再び来ると預言されたエリヤたったのです。

 しかし、徹底的に聖書を研究し、律法の書を片時も離さずに朗読していたはずのイスラエルの民は、彼の存在目的を悟る事が出来ずに、捕らえて獄に幽閉し、挙げ句の果てに抹殺してしまいました。その結果、イエス・キリストに苦難を及ぼす事となったのです(マタイ11:13〜14、17:11〜13)。イエス様はこう語られました。「偽善者よ,あなたがたは天地の模樣を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか」(ルカ12:56)。

何故でしょうか。それは彼らが霊的に眠った状態だったからです。ヨハネはエリヤの霊と力を持って荒野で叫びました。彼はイナゴと野蜜を食べました。らくだの毛衣を着ていました。既に、これらいくつもの類似点が示されていたのです。また、直接尋ねてヨハネに「あなたはエリヤですか」と質問した者はいましたが、霊的に彼の存在を知ることが出来ませんでした。彼らイスラエルの民は、目があっても見ることが出来ない盲人となって、滅びの道に立ってしまったのです。私たちは、これらの出来事を他人ごとのように考えていいでしょうか。

 

結論:私たちは常に祈りと御言葉によって常に目を覚ましていなければなりません。さもないとイエス様は私たちにとって盗人のように来てしまいます。再び来ると預言されたエリヤがバプテスマヨハネであった事を悟った人がいたでしょうか(マラキ4:5〜6)。バプテスマのヨハネの心の中に入らずに、彼がエリヤの霊と力を持ってきた事実をどうやってわきまえ知ることが出来るでしょうか。

 これらの事は、再び来るイエス・キリストを待ち望んでいる私たちにとっても同じ事が言えます。確かにイエス様は「あなたがたが見たとおり雲に乗って再び来る」と言われました。多くの天の御使いときよめられた多くの群れを伴って雲に乗って(ある箇所では「雲に包まれて」)来ると記されています。この「雲」が一体何であるか、自然現象に現れる雲なのか、それとも霊的な雲なのかを知らなければ、イスラエルの民が「主よ、主よ」と呼びながら、エリヤや救い主を呆然と天を見上げて待ち続けているのと同じような過ちを犯しかねないのではないでしょうか。

 先ほどヨハネがエリヤの霊と力とを持って来たのを知る為には、ヨハネの心の中に入らなければ悟り得ないと述べました。同じように、私たちがキリストの中に入って、すなわち神様の御心を知る者とならなければ、決して再び来られるイエス様をお迎えすることは出来ないのではないでしょうか。まさに、御心にかなう者として日々歩む事こそ、イエス様に会う事が出来、天にいます神様の懐に迎え入れられるのです。その為には、与えられた御言葉と祈りによって常に霊的な目を覚ましていなくてはなりません。

  イエス様は言われました。「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時がくるであろう」(ヨハネ16:25)。

 祈りつつ物事を思慮深く推し測るならば、御言葉の悟りを得、恵みを握ることとなるでしょう。その事によって、裁きの時、余りある恵みの中で主の前に出て行くことが出来るのです。その時、父なる神様の身前で「あなたがたを全く知らない」と言い渡される者ではなく、「よくやった。忠実な僕よ」と言われる皆様でありますように、主の御名によってお祈りします。

 

兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盜人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に 産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 -1テサロニケ5:1〜3 -

人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。 - マタイ16:27 -

ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。-マタイ24:27-

そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして 力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。-マタイ24:30-

そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。- マタイ24:33 -

 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。-マタイ24:37-

そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の 現れるのも、そのようであろう。-マタイ24:39-

だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。-マタイ24:44-

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。-マタイ25:31-

わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との 栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。- ルカ9:26 -

あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。- ルカ12:40-

いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。 - ルカ17:24 -

あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、 地上に信仰が見られるであろうか。 - ルカ18:8-

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。- ルカ2:27 -

そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 - ヨハネ14:3 -

イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。 そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。 - ヨハネ14:23 -

 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同樣に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。-1テサロニケ4:14-

見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン- 黙示録1:7 -

わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である。黙示録22:6 -

この預言の言葉を朗?する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。 - 黙示録1:3 -

 


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