2005/9/25(主日礼拝)

すべての者に果たすべき責任がある
ローマ1:14−16、マルコ16:15




序論:「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」
 この御言葉は、神様が血の代価を払って買われた地上の教会が受けた、イエス・キリストからの命令です。教会が受けた本質的な使命は伝道です。「福音」の文字的な意味は「よい知らせをもって来る者」と言う意味です(イザヤ52:7)。すなわち「伝道」とは「よい知らせを伝えること」です。

「よい知らせ」の中心はイエス・キリストです。「イエス」と言う名前は「己の民をそのもろもろの罪から救う者」と言う意味を持っています(マタイ1:21)。したがって伝道の主題は救いの福音であり、(エペソ6:15)この「よい知らせを伝えること」こそが私たち信じる者に委ねられた使命なのです。

このよい知らせを受ける場所と対象は全世界であり、すべての造られた者です。このよい知らせが保障する「永遠の命と救い」の約束を、福音を信じて受け入れた全ての人々にもたらせる務めが、私たち教会に託されています(Tヨハネ2:25)。この尊い役割を担う教会が、また一人ひとりのクリスチャンが、今日与えられた御言葉を通して共に原点に立ち返り、新たなビジョンを抱く時となりますように。


1.  福音を伝えるのは、罪をあがなう「Good news」だからです。

イエス・キリストがカペナウムへ行かれたとき、大勢の人々が集まりました。そこに、イエス様のうわさを聞いた四人の青年が中風の者を床の上に寝かせたまま運んで来ました。しかし、大勢の人に遮られ、家に入る事が出来なかった為、彼らは屋上に上がり、屋根に穴を開けて、病人を床ごとつりおろしました(マタイ9:1−9、マルコ2:2−8、ルカ5:18−26)。イエス様は彼らの信仰をみて「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」という御言葉とともに罪をゆるされました。

その言葉を聞いたある律法学者たちが「この人は神を汚している」と心の中で言ったのをイエス様は見抜き、罪をゆるす権威を知らせるために、「罪ゆるされた」と言うのと、「起きて床を取りあげて歩け」と言うのとどちらがたやすいか、と語られた後、中風の者に向かって「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われました。すると、すぐさま中風の者は起き上がり、床を取り上げて自分の家に帰りました。この出来事を見た一同は大いに驚いて神様をあがめました。

このように、福音伝道は病人を生かし、罪から開放させることができます。福音伝道には「罪のあがない」の恵みがあります。イエス様は中風という肉体の病よりも、むしろ霊魂の病に御心を留められました。罪が赦された者は、霊魂が癒されることによって、肉体の病をも完全に癒されたのです。イエス様が、この世に来られたのは、「義人を招くために来たのではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるために来た」のです(マタイ9:13、Tテモテ1:15)。

「伝道」は失われた一匹の羊を捜すために、99匹の羊を野原に置いて、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩けることです(ルカ15:4−7)。また、なくした一枚の銀貨を捜すために、灯りをつけて家中を見つけるまで捜すことが「伝道」です(ルカ15:8−10)。そして「伝道」は、家を出た放蕩息子を待つ父のようであると言われています(ルカ15:11−32)。イエス様の言葉によって、死んだ者を生かすことが伝道なのです。

 

2.福音伝道はイエスを愛するようにすることです

ある日、パリサイ人のシモンが家にイエス・キリストを招待した時、一人の女が香油を入れた石膏のつぼを持って来ました。彼女は伏して泣きながら、涙を持ってイエス様の足をぬらし、その足に口付けをし、自分の髪の毛でぬぐい、香油をイエス様の足に塗りました(ルカ7:37−38)。イエス様を招いたシモンが、この様子を見て、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」と心の中で言いました(ルカ7:39)。

その時、イエス様はたとえを用いてシモンに「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは 五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか。」と言われました。シモンは、五百デナリを借りた人が多く愛すと答えました。イエス様は、シモンに対して「彼女はより多くの罪をゆるされた故に、シモンよりも多くわたしを多く愛する」と示唆したのです(ルカ7:47)。イエス様はあがないの福音、信仰の福音、平安の福音、救いの福音を彼女に伝えられました(ルカ7:48−50)。

福音伝道は、イエスを愛するようにし、罪のゆるしを受けるようにすることです。あがないの福音、命の福音こそ、キリスト教の命です。私たちは今日もこのイエス様のみが宣言することのできる命の福音、希望の福音を持って出ていかなければなりません。

 

3.十字架の功で罪をあがなってくれます

 イエス・キリストの十字架の功に基づいてのみ、神様は私たちの罪をあがなって下さいます(ヘブル10:12)。その他、何ものをも私たちの罪の問題は解決する事は出来ません(エレミヤ2:22)。十字架の尊い血潮は、私たちの罪を一度で清く洗って下さいます。イエス・キリストの十字架の血潮の功を信じる瞬間、原罪、遺伝罪、自犯罪などすべての罪が赦されるのです(Tペテロ1:18−19、エペソ1:7)。神様は完全に聖なるお方である故に、どんな少しの罪でも見逃すことが出来ません。

 イエス様は、私たちのこのような罪の問題を解決し、完全に罪を取り去る為に来られたお方です。イエス様は、全人類の罪を背負い、病とむちに打たれる苦しみを受けられました(イザヤ53:1−8)。そして十字架刑の上で、私たちが受けるべき罰をその身に負われました。その事によって、救いのわざを完成させられたのです(ヨハネ19:30)。東が西から遠いように私たちの罪を私たちから遠ざけて下さいました(詩篇103:12)。

罪をいつまでも見えないように私たちの後ろに捨てられました(イザヤ38:17)。そして罪を消し去らせて下さり(イザヤ43:25)、雲と霧のように私たちの罪を消されたのです(イザヤ44:22)。ミカ書にこう記されています。「だれかあなたがたの不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにたがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、」(ミカ7:18−19)。

 神様は、御自身のきよさと愛、祝福と慈しみのご性質のために私たちの罪を持つことも、覚えることもしないと言われました(エレミヤ31:34)。神様は私たちの不義をゆるし罪をことごとくおおわれるのです(詩篇85:2)。伝道はこのような神様の大いなる愛を告げ知らせる大切な働きです。


結論:伝道は、救いを受けた私たちが、神様に対して責任を果たすことです。使途パウロは自らを「果たすべき責任ある罪人」と告白しています(ローマ1:14)。そして、その「果たすべき責任」は福音を伝える事であると悟り、彼の生涯を福音伝道の為に明け渡したのです。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」と言う主の命令に、「はい、今日も出て行きます」と答える皆様でありますように、主の御名によってお祈りします。



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