代々の年を思いなさい |
今日与えられた「代々の年を思え」の御言葉は、神様からの命令です。私たちが代々の年を思う事によって、神様は何を私たちに悟らせようとするのでしょうか。今日は、創世記に示されているアダムの系図を通して、いにしえの時から代々の年に示されている神様の御旨を探って見ようと思います。
ここで、更に細かくアダムの子孫たちの年代を整理して順に追ってみましょう。 さて、以上の内容を読んで何かお気づきになったでしょうか。 アダムは、これら子供たちや孫たちに、故郷のエデンなど自分の素性や生い立ちについて一切語らなかったのでしょうか。私たちも、子供や孫に自分の昔話しをすることがあるでしょう。祖父アダムと695年もの長い年月を生きた孫エノスは、こう質問したと思います。「おじいさん、おじいさんはどこで生まれたの?。」と。マハラレルは535年アダムと共に過ごしました。アダムから色々と教えられたのではないでしょうか? 新約聖書の中に、生前金持ちだった男が残して来た家族の所に行って、地獄の苦しみについて、ラザロを遣わして伝えてほしいと嘆願している記述があります。アダムは、自らの罪で永遠の命を失い、神様と断絶し、喜びの地エデンを追われた苦しみの経緯を愛する子や孫にどうして伝えなかったと言えるでしょうか。決して子供たちや孫たちが繰り返してはならないと、同じ苦しみを経験をさせてはならない、と思ったはずです。そして子や孫たちに、不従順がどれほど恐ろしい結末を招くかということを、アダムは生きている間に子や孫たちに厳しく教育したことでしょう。 神様は、「いにしえの日を覚えことを覚え、代々の年を思え、また長老に父に聞け」と語られました。アダムの子孫たちは、いにしえから伝わる訓戒と教えを覚えていたでしょうか。代々の年について、父から父へと伝え聞かせていたでしょうか。しかしながら、アダムと同じ時代を生きたレメクの後に生まれたノアの時代は、もはや罪が世に満ちていた状態でした。神様がノアに世の裁きを告げ、洪水をもたらせた時に御言葉に従い箱舟に入ったのはたった8人だけでした。神様の命令である、いにしえの日を覚え、代々の年を思っていたなら、より多くの人々がノアの箱舟に乗れたはずです。 [創6:5-7] 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。 人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。しかし、ノアは 主の前に惠みを得た。 10代目のノアは、アダム以後1056年に生まれました。502歳にセムを生み、洪水以後350年間生き、息子娘を生み、950歳に死にました(アダム以後2006年・創世記5:32、9:28〜29)。アダムが死んで126年後にノアは生まれたので、ノアはアダムと同じ時代には過ごす事はできませんでした。洪水による裁きの日は、アダムから1656年後の(ノア600歳)2月17日、アダム没後726年の時です。その裁きの日からさかのぼる事7日前にノアは裁きの日を知らされました。(創世記7:4、6〜12)。そしてノアは神様がすべて命じられた通り行いました(創世記7章5節)。 私たちは、この事を通して深い悟りを得なければなりません。神様が「いにしえの日を覚え、代々の日々を思え」と語られた理由は、今日、世の終わりを生きる私たちに対する警告の御言葉でもあります。ともすれば、うっかり見逃してしまいがちな聖書の記述の中に、神様の英知が記されている事を心に留めるべきでしょう。そして、父の言葉に、長老の言葉によくよく耳を傾ける必要があるのです。御言葉の真理を悟ることができるように神様に切に祈り求めましょう。 そのように、切なる祈りを持って聖書を拝読するなら、神様の恵みと知恵を受けることができ、聖霊の助けによって御言葉の悟りを受けることが出来るでしょう。この世が如何に悪に満ち、裁きの時が来たとしても、ノアのように恵みを受けたならば、必ず神様の守りが与えられるのです(ルカ21:36)。 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。ルカ21:36 「人の子が来るとき、信仰を見るであろうか」 ノアは人類の先祖であるアダムを見ることは出来ませんでした。しかし、先祖から聞いたことを思い、覚えていたことでしょう。今を生きる私たちが成す事は何でしょうか。世の終わりに人の子(イエス様)が来られた時、信仰を認められる唯一の術は、「常に目を覚まして祈り、いにしえのことを覚え、代々の年を思い、父や長老に問うこと」です。そして如何なる時にも心の中にイエス・キリストの十字架による救いを抱き、イエス様と共に生きることです。 結論:新旧約聖書は、神様の愛による救いのわざについて記されています。その救いは十字架上で完成されました。それ故に、十字架なくして救いはありません。十字架のない信仰は偽りの信仰であり、十字架のないクリスチャンは、神様の御わざを知りながら滅んで行ったノアの時代の人々と同じです。十字架だけが道であり真理であり命なのです。この真実を聖書は私たちに教えています。私たちは、これらのいにしえの日の出来事を通し、また、代々の日々に神様が成された御わざに思いを馳せて、日々目を覚まして祈りつつ主の来臨を待ち望みましょう。そして、この十字架による救いの御わざについて、私たちの子や孫に、愛する者たちに語り伝えましょう。その時、インマヌエル(「主は共におられる」の意)の神様がノアに与えたように、私たちにも恵みを施して下さることを信じましょう。
|