2005/10/16(主日礼拝)

感謝の心は救いの実
申命記26:10-11、歴代上16:34-36



序論:「感謝」は、してもしなくてもどちらでもいい、というような選択事項ではなく、神様から命じられた事柄です。神様は、イスラエルの民がエジプトを出て荒野の旅路を終え、カナンの地に入った時、部族ごとに土地が分配された地で得た産物の初物を携えて、感謝の意を示すように求められました(申命記26章)。

「神の恵みによって救われたことと神様の導きの中で与えられた祝福の日々を覚えて、奴隷であったあなた方を鷲の翼に乗せて来させたことを感謝しなさい」(出エジプト19:4、詩篇136:16)

旧約時代、すべての男性は年に3度エルサレムに上り、神様の定められた場所で祭りを守らなければなりませんでした。今日読んだ御言葉は、カナンの地で收穫するすべての産物の初物を捧げる方法を具体的に示しています。

 感謝することはイスラエルの民にのみ与えられた要件でしょうか?そうではありません。神様の愛とあわれみによって世というエジプトから、イエス様の尊い血潮によって神の民とせられた私たちも霊的なイスラエルです。そして、イスラエルの民に求められたように、私たちにも感謝することが求められています。では、「感謝すること」とは何でしょうか。聖書から「感謝」について学び、共に恵みに与りたいと思います。

1.感謝の心は信仰と救いの実です。

 1)感謝の心は、完全に救われた事を信じる者の口から出る告白です。そして感謝の心には、全ての事において神様の摂理を疑うことなく信じる信仰が宿っています(ガラテヤ2:16、コロサイ2:7)。 

 感謝についてパウロは、「また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ2:7)と語っています。また、絶えず感謝するべきことを教えています(第1テサロニケ2:13)。私たちが日々生かされることも感謝であり、神様の守りと導きのわざが与えられている事も感謝できるのではないでしょうか。

 不満不平は感謝の根を切り捨ててしまいます。感謝しない人は人生の根を切り捨てる人です。神様は実のないいちじくの木の生存権を奪われました。もし私たちが「感謝」という実のない人生を歩むなら、果たして神様はそのまま生かして下さるでしょうか。(マタイ21:19)。「憤りは骨を腐らせる」と詩編の著者は述べています。私たちが感謝のない、喜びのない、不平不満ばかりで日々を送るなら、私たちの霊肉は弱まってしまい、生存までも危うくなってしまうのではないでしょうか。そればかりではなく、不平不満を聞かされる人々の根までも悪影響を及ぼしかねません。

 2)感謝は神様を愛する心の表れです。逆に不満不平は、神様を愛していないという心の表れです。神様を愛する人は、信仰生活においても感謝が溢れます。教会のどんな奉仕においても喜んで働きます。何故でしょうか。それは、神様の愛がその人の中に満ちていて、その喜びを表さずにはいられないからです。

 3)感謝は、すべてのことに満足できる信仰を持っている人が示す行動です。感謝は信仰、すなわち霊的な豊かさを維持するよう助けてくれます。そのような感謝する人の心には常に豊かさが満ちています。そして、感謝する人の心にはいつも希望があります。

感謝するということは豊かな祝福をすでに持っていることを意味します。感謝のあるところには、益々豊かさが増し加えられるのです。ですから、神様は私たちに目をさまして、感謝のうちに祈り, ひたすら祈り続けなさい。」と言われるのです(コロサイ4:2)。

感謝がある者と感謝がない者の差は歴然です。聖書はこのように記しています。「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。」と。(マタイ24:40〜41)。取り残されるのは、感謝のある者でしょうか?感謝のない者でしょうか?

信仰は、神様から与えられた恵みであり祝福です。そして、感謝はその恵みの上に更に増し加えられる神様からの祝福なのです。

 

2.感謝の心は祝福された心です。

 感謝は誰もが自らの努力によって出来るものではありません。もし、人が感謝の心を持っているとするならばその人は神様から祝福された人です(詩篇75:1)。何故なら感謝は神様から与えられてこそ出来ることだからです。生まれたままの人は、心の中に不満や不平、恨みを一杯満たしたまま疲れ果てて生きています。

口を開いたと思ったら暗い話ばかりする人がいます。それはまるで太陽や月が昇っていても雲に冴え切られたように、すべてを否定的に、悪い方向に話しを持って行ってしまいます。今の時代がまさにそのような状況を生み出して行っているのではないでしょうか。とても憂慮すべきことです。しかし、そんな暗い世の中にあっても私たちクリスチャンこそ感謝をもって世を照らすべきではないでしょうか。

「主の御名は近くにあるから感謝です」(新解約・詩篇75:1)と詩編の著者は述べています。私たちに感謝が与えられているのは神様からの恵みです。そして、その恵みによって感謝する時、神様の御名がますます私たちの近くに来るのです。

 

結論:この一年も残すところ二ヶ月半となりました。この一年も神様が私たちに感謝の心を与えてくださったことを覚え、残された日々も感謝のうちに過ごしましょう。感謝は救いと信仰の実です。「救われた喜び」と「神様への愛」そして「霊的な豊かさ」これらの収穫から得た「救いの実」を携えて御前にお捧げしましょう。その時、私たち信じる者の生涯に限りない祝福が豊かに増し加えられるでしょう。皆様お一人ひとりが感謝の満ちた幸いな日々を過ごされますように、主の御名によってお祈りいたします。

 


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