2005/10/23(主日礼拝)

私たちが持つべき優れたもの
マルコ11:12〜14, マタイ21:18〜22



翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見當らなかった。いちじくの季節でなかったからである。そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。             −マルコ11:12〜14−

朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見當らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。              −マタイ21:18〜22−

 

 上記の御言葉はイエス様が朝早く、弟子たちと共に都に帰る際の出来事を記した内容です。弟子たちは、いちじくの木がイエス様が言われたとおり、たちまち枯れてしまう光景を目撃しました。イエス様の御言葉の権威を目の当りにした弟子たちの驚き様は大変なものだったでしょう。私たちも、この聖書の記述を通してイエス・キリストの優れた神性を知る事が出来ます。聖書には、イエス様が成されたたくさんの御わざが記録されていますが、この時もイエス様はまさに自らの全能の力を示されました。

 この「実のないいちじくの木」は、信仰の形は茂った葉のように整ってはいるものの、真の実のないイスラエルを象徴するものだと言えます。そして、実のないいちじくの木が、イエス様の御言葉によって枯れてしまったように、実のない信仰の結末が如何なものであるかをイエス様は、この御わざを通して私たちに示唆しておられます。今日私たちは、この時語られたイエス様の御言葉について、更に深く掘り進み、恵みに与りたいと思います。

 イエス様は、いちじくの木によって御わざを示された時、驚く弟子たちに対し、更に優れたものについて三つ語られました。私たちが、この三つの「優れたもの」を持つ時、いちじくの木の出来事以上の事を実現することができるのです。では、私たちが持つべき三つの優れたものとは何でしょうか。

 

1.山を動かす信仰です 

 ペテロが、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」と言った時、イエス様は「神を信じなさい。と言われました(マルコ11:21)。これは、「信仰」が如何に優れたものであるかを意味してします。すなわち、いちじくの木が枯れたことが、「信仰」によって成されたわざであることを教えているのです。聖書は、様々な箇所で「信仰」の優れた力について記しています。

「そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『拔け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。」 ルカ17:6

「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」 マルコ11:23

「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。」 ヤコブ1:6〜7

「イエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」  マタイによる福音書 17:20

 では、私たちに必要な信仰とは何でしょうか?それは、「御言葉のとおり成る」と疑うことなしに信じる事です。そして「神様にできない事は何もない」と信じる事、それが信仰です。信仰は人間の不可能を可能にする力です。信仰とは「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること(ヘブル11:1)なのです。

 信仰を例えるとすると、「卵を見た時、その中から鶏の鳴き声を聞く」というように表現出来るでしょう。ユダヤ人のラビ(ユダヤ教の教職)の学校では、学生たちからあの先生は山を動かす人だと言われる事が、最も優れた教師を表す賞賛の言葉との事です。

神様を信じる私たちクリスチャンこそ、このような優れた信仰を持ち、山を動かす力を示すべきではないでしょうか。

 2.確信して求める祈りです 

 次にイエス様は、祈りに対して言われました。マタイ21章21〜22節に、「イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」と言われました。

 また、マルコによる福音書11章24節でも「あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」と言われています。これは、信仰と祈りの終局を明らかにした御言葉です。すなわち、祈りの結果をすでに信仰の目で捉える時、与えられるということです。故に、「信仰」と「祈り」は決して切り離すことは出来ません。信仰のない祈りは答えられる事はありません。

 これらの事から、信仰の優れた者は祈る者であり、祈る者は信仰の優れた者であると言えます。祈りは神様の大いなる優れた力を借りてくる行いです。しかし黙って拝借する訳にはいきません。神様の許可が必要です。その許可を得る方法がすなわち「確信」なのです。私たちが日々このような優れた祈りを持つならば、神の御わざによって多くの奇跡を呼び起こすことができるのです。

 

3.人のあやまちをゆるす赦しです 

 イエス様は、ペテロに信仰と祈りの優れた力について語られたすぐ後に、赦しについて語られました。「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。マルコ11:25
私たちが持つべき優れたものの三つ目は、この「赦す事」です。

 何故、人の過ちを赦す事が優れたものなのでしょうか。それは、私たちが犯した過ちを赦される秘訣だからです。しかし、私たちが人のあやまちを赦せないとしたら、神様からの赦しを決して受けることは出来ません(マタイ5:23〜24)。「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。マタイ6:15マタイ18:35でも、赦すことの必要性について述べられています。

私たちの主、イエス様ご自身も十字架上で極限の苦しみの中で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。(ルカ23:34)」と赦しを祈られました。

 どんなに優れた信仰があったとしても、どんなに優れた祈りが出来るとしても、私たちの過ちが赦されなければ何になりましょう。この優れた赦しの力を受けてこそ、私たちの信仰も祈りも豊かな実を結ぶ事が出来るのです。

結論:信仰と祈りと赦しは偉大なるものです。これらの優れたものを持っている人は山を海に動かすことが出来るとイエス様は語られました。私たちを取り巻く環境が如何に問題が山積しているとしても、これらの優れたものを持つ事によって解決の道が開かれる事を信じましょう。そして私たちが、如何に過去の過ちに苦しんでいたとしても、神様の赦しを受ける事が出来るのです。皆様の生活の中に、そして家庭や教会の中に、優れた信仰、優れた祈り、また、赦す事によって神様の大いなるわざが成されますよう主の御名によってお祈りします。

 

 


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