2005/2/20

ノアの信仰に倣う
へブル11:6〜7、創世記6:9、22


序論:創世記を読むと、世が神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた時、神様が洪水によってすべての人を絶やそうと決心された次第が記されています。世の人々が洪水による裁きによって全て死んでゆく艱難の中、ノアと、ノアの家族は神様から指示された箱舟を造り、その後箱舟に入って命を保たれました。

はたしてノアはどのような信仰の持ち主だったので、神様の裁きから守られる事が出来たのでしょうか?そして、今、私たちはノアの信仰から何を学ぶべきでしょうか?イエス様が「ノアの時にあったように、人の子の時にも同樣なことが起るであろう」ルカによる福音書17章26節。と言われました。
 イエス様の再臨を待ち望みつつ、世の終わりの時に備えて暮らしている私たちも、ノアのような信仰を持つならば、ノアが神様の裁きを前持って知らされたように、私たちにも知らされるのではないでしょうか。そして、その時に備えて生きる事が出来、裁きを免れたノアのような祝福を受けることが出来ると信じます。今日は、ノアの信仰について、さらに深く掘り下げて学ぶこととしましょう。

 1.ノアの信仰の拠り所は御言葉にありました。
 ノアが箱舟を作る時、晴れ渡った日もあったことでしょう。ノアは、どんな気持ちでくる日もくる日も箱舟を造っていたのでしょうか。それは、彼の信仰の拠り所が神様の警告の御言葉にあったからでした。へブル11:1節に、「さて、信仰とは、まだ見ていない事実を確認することである。」と言われています。洪水による裁きは、ノアにとってはまだ見ていない事でした。しかしノアは、御言葉を信じる信仰によって箱舟を造り続けたのです。

 
箱舟の大きさ
「あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。」創世記6:14〜16


ノアの箱舟が全ての動物を運ぶことは出来ないだろうと考える人もいます。はたしてそうでしょうか?。ノアが作った箱舟は、長さが300キュビト、幅が50キュビト、高さが30キュビトと、非常に大きなものでした。その時代のキュビトの正確な大きさは分かりませんが、1キュビトはおおよそ42〜53センチであったろうと考えられます。
すると、その箱船の長さは120メータ〜159メートル、幅が21〜26メートル、高さは、12、6〜15、9メートル程の大きさということになります。また、約2万tの排水量を持ち、総トン数は1万4千tになります。その大きさから収容面積を割り出すと、240匹の羊を収容できる列車貨物台が522個分入る規模の大きさです。現在、世界中に生息する動物の種類が17、600の種類があるといわれています。そして、これらの動物の雄と雌を対にした数は3万6千200になりますが、箱舟の中に十分入ることができる計算になります。
例えば、羊の大きさであれば4万5千匹を収容するのに必要な貨物台は188個分となり、残りの分は食糧とノア家族の住まいと動物たちと放牧場所として使用しても、十分過ぎるほどの広さが確保出来ます。

 今の時代と違い、ノアの時代は機材や工具も何もかも不十分だったはずです。さらに言えば、おおよそ98年〜100年近く船を作ったならば、その間、風化した部分を修復しなければならなかったでしょう。それほどまでにしてノアを突き動かしたものは何だったのでしょうか。まさに、彼の神様の御言葉に対する信仰に他なりません。彼の信仰が御言葉に基づいていなければ決して守ることができなかったはずです。御言葉に対する絶対的な従順の信仰がなければ決してありえない務めです。
「ノアはすべて神の命じられたようにした。」 創世記6:22、7:5

 信仰とは、どんな時にも啓示された神様の御言葉に根拠を置くべきであるということです。聖書は
「信仰は神様の御言葉を聞くところにある」(ローマ10:17)。と言われています。信仰の真の根拠は神様の御言葉にあります。私たちも神様の御言葉に根拠を置いた信仰を持ち、世の終わりにノアのような祝福を受けましょう。

 2.信仰は行いを通して認められます。
 信仰の拠り所は御言葉でありますが、この信仰が真実であるか否かは、御言葉に答える態度にかかっています。神様の御言葉を信じるということは知識において成すことではありません。神様の御言葉を知っていると言うことが信仰ではないからです。「信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされる。」とヤコブ2:22節に言われています。信仰があってこそ働くことが出来ますが、行いを通して真実な信仰として認められるのです。
 信仰のある人とは神様から示されたならば、素直に御言葉のとおり従順する人です。
「ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造った。」と言われています(へブル11:6〜7)。ノアは恐れかしこみつつ神様の御言葉を受けたのです。この「恐れ」とは、私たちが日常的に覚える恐怖ではなく、神様の御言葉に対する真実で、畏敬の念を表すことを意味します。ピリポ2:12節に、「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」とあります。また使徒パウロも、コリント教会の人々に「神をおそれて全く清くなろうではないか」(第2コリント7:1)。と勧めています。

 聖書は私たち信じる者に、「神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として―事実そのとおりであるが―受けいれてくれたことである。」とあり、続いて「この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」(第1テサロニケ2:13)。と言われています。

3.ノアの信仰は裁きの基準として認められました。
 ノアは御言葉のとおり従順した結果、彼の家族を救い出すという証しを立てました。箱舟を作れば助かるという知識ではなく、「箱舟の中に入る」という行いがノアとノアの家族を救い出したのです。
 今日読んだ箇所に、ノアが、
「世の罪をさばいた。」と記されています。この御言葉はノアがこの世を裁いたということではなく、ノアと彼の家族が御言葉を信じて行ったという事実が世を裁くことになったのです。
 信仰のない人々は「私たちは神を信じられない」と言います。しかし、実際ノアとその家族が信じたこ事実が存在します。信じる人がいたということは、「信じることが出来なかった」という言い訳が成立しないのです。
 
「また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。」と言われています(第2ペテロ2:5)。ノアは家族だけに伝道したのではなく、その時代の人々に御言葉を伝えたはずです。その結果ノアの伝道がそのまま裁きを宣言し、世を罪に定めたことになったのです。
 洪水が起きたこのノアの時代は、今日私たちの状況と同じではないでしょうか?。
「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」(マタイ24:37)。と言われています。
「すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飮み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは氣がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」(マタイ24:38〜39)。
 これは食べることや飲むこと、また結婚の重要性を過小評価していいということではありません。問題はこのような日常生活に重きを置く余り、この時代に対する神様の摂理と、神様の警告の御言葉を聞く耳がないことが問題なのです。

結論:今日、世の多くの人々は日常的な生活に酔って、霊的な関心を失っています。神様に対する関心があありません。ノアの時代、人々の罪を見て「彼らを裁く」と心を定めた神様が、義人のために箱舟を備えたように、罪が満ち溢れている今の時代も御言葉による救いの道を備えて下さいました。
私たちに向かって神様が御言葉を語って下さる時、それがどんなに世の常識に合わないとしても、また、自分の思いと異なるとしても、神様の御言葉を恐れかしこみつつ受けて、信仰による従順の道を歩む皆様でありますように。そして、永遠の計画によって選ばれた人々を、霊の箱舟に呼び集めて神様の御言葉を成就するすばらしい御わざがありますようお祈りいたします。



日本ナザレン教団 赤坂教会



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