2005/5/15(主日礼拝)

 使徒パウロを奮い立たせたのは?  
使徒28:11〜16



序論:囚われの身としてローマに移送された使徒パウロに勇気を与え、奮い立たせたのは果たして何だったのでしょうか。今日、与えられた御言葉を通して、私たちもパウロのように、勇気を持ち、奮い立つことができるよう共に恵みに与りたいと思います。 

 「勇気」とは、「勇ましい意気」或いは「物事を恐れない強い心」を意味します。ローマに着いた時のパウロの歳は70歳を過ぎていました。ひたすら神様の栄光を示すために生きてきたパウロは、ユダヤ人たちの策略によって罪人として鎖に縛られローマに移送されました。その時、ローマにいた信徒たち数人が、パウロがローマに来ると言う知らせを聞き、パウロに会いに来た様子が今日の本文に記されています。

1.迎えに来たローマの聖徒たちによってパウロは勇気を持ちました。
彼らはパウロに会う為に、命も惜しまずにアピオ・ボロ広場とトベス・タベルネまで迎えに来ました。その聖徒たちに会ってパウロは力と勇気を受けることが出来、神様に感謝と賛美を捧げました。ローマからアピオ・ボロへは約70キロ、トベス・タベルネまでは57キロもの距離があります。彼らは罪人として囚われているパウロに会う為に遠路はるばる来たのです。

 その時のパウロの状況を鑑みて下さい。パウロは熱烈な歓迎を受ける為にローマに到着したのでもなければ、英雄として迎え入れられたのではありませんでした。彼はイエス.キリストのために言葉で言い表すことの出来ない苦労の末、死を迎えるためにローマに護送されているのです。彼らがパウロに出会った時、パウロの両手足は鎖によってつながれていました。さながら晩秋に落葉した枯れ木のように、今や人生の終わりに立たされているパウロです。このような状況において人は感謝と勇気を出すことができるのでしょうか?。しかし、パウロのローマ到着の知らせを聞いて、過去パウロを通して恵みを受けた聖徒たちが駆けつけてくれたのを見て、パウロは勇気と大胆さを持つことが出来ました。この水を得た魚のように意気揚々としたパウロの姿を見てローマの兵士たちは実に驚いたことでしょう。
つい今しがたまで意気消沈していたパウロが、幾人かの聖徒たちに会ったとたん、顔に生気が戻り、喜んで神様を誉めたたえ、御言葉を大胆に語るのを見たのですから。

2.愛する対象がある時、感謝があり勇気が出ます
 パウロは、どれほど疲れていた事でしょう。暴風に遭い、さまざまな苦労を余儀なくされ、体は鉄の鎖によって自由が奪われていました。しかし、そんなパウロが駆けつけた聖徒を見て、「ローマにも私が愛すべき人がいる。」と知った時に勇気が心の中から湧き上がったのです。そして、神様の前に感謝をしました。私たちも、愛する対象がある時に感謝と喜びがあふれ、勇気を持つ事ができます。

神様は「独り子を与えるほどにこの世を愛された」(ヨハネ3:16)と聖書に記されています。私たちを愛すべき者として下さっている神様も、その事によって奮い立って下さるなら、なんと喜ばしい光栄な事でしょうか。

 あなたには愛する対象がありますか?。あなたの側には愛するべき者がたくさんいるのではないでしょうか。愛する対象を持たない人はとても悲しい人です。パウロの生涯は、イエスに出会い、使徒となったことによって、多くの人々から裏切られました。ムチで打たれました。石で打たれました。憎まれ、そして捨てられました。
しかし、パウロはこのように告白しています。「あなた方の魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、私の自身を使いつくそう。私があなた方を愛すれば愛するほど、あなた方はますます愛されなくなるのであろうか。」(第二コリント12:15)
愛すればするほど誤解を受け、憎まれるのは本当に辛い事です。しかしパウロは、コロサイ教会の人々に向かって「今わたしは、あなた方のために苦難を喜んで受けている」と述べています(コロサイ1:24)。彼らを深く愛するがゆえに、囚われの身でありながらも、内には喜びが湧き出たパウロはまさしく使徒とされるにふさわしいでしょう。そして、私たちも、パウロが得た湧き出る喜びを、愛する対象を見いだす事によって得る事ができるのです。教会で、仕事場で、そして生活の場で愛する対象を見つけてください。愛する対象が多くいるならば、私たちの持つ喜びは計り知れないでしょう。あなたの側に愛するべき人がいることを、どうか心に留めて下さい。

 私たちは、愛する者に対して何を成すべきでしょうか。愛する者にこそ伝道すべきではないでしょうか。伝道することは、その人の全人格に対する崇高な愛の表れです。パウロが苦しみの中でも、感謝と勇気を失わず持ち続けることが出来た理由は何だったのでしょうか?非難中傷を受けても、叩かれても、打たれても、人々を愛し通す事が出来たのは、パウロがイエス・キリストのアガペーの愛(無償の愛)を持っていたからに他なりません。イエス様は、ご自分を十字架につけ殺そうとする人々にさえも愛を示され、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と祈られました。パウロの霊的な世界は、まさしく人が容易に図り知ることが出来ない深さがあります。パウロが「あふれるばかり慰めを受け、あらゆる艱難の中にあって喜びに満ち溢れている」(第二コリント7:4)と告白することが出来たのは、このイエス・キリストの愛によって満たされた所以でしょう。そしてパウロの生涯は、このキリストの愛を、愛する者らに伝え歩んだのです。

もし、教会の中に、愛する対象がないとしたら、その場所は乾ききった荒野になってしまいます。聖徒とは誰を指すのでしょう。それは、愛する人を持つ人です。教会の成長を願うのは何の為ですか?それは、多くの人々を愛する為です。

3.教会はイエスと同じ志を持つ人々の集いです
 教会は、永遠の命の御言葉であるイエス.キリストと一体となる人々の集いです。すなわち、イエス様の死は私の死でもあるのです。イエス様が私の罪の身代わりとなって死んでくださり、もう一度「生きよ」と新たに生かして下さったのです。なんという幸せでしょう。そのイエス様の愛を悟り、私も主のために自分に死ぬ時、主は復活の霊として永遠の命を私たちに贈り物として与えてくださいます。パウロはコリント教会の信徒たちに「同じ心と同じ思いで堅く結び合っていてほしい」と言われました(第一コリント1:10)

私たちの教会も、いつも同じ心と思いによって堅く結び合う教会であってほしいと心から願っています。教会とは同じ思いと心が一つになったイエス・キリストの体です。どんな小さな器官でも、傷ができたなら体全体が痛みます。

まさに、イエス・キリストを信じることが知られるだけで身に危険を及ぼしたその時代に、パウロに会う為に勇敢にも馳せ参じ、兵士に捕われているパウロとの再会を喜び涙ながらに挨拶を交わしたその人々は、確かに、イエス・キリストに在って堅く結び合って、思いを同じに持った信徒たちでした。彼らはパウロの友であり、信仰の同志でした。パウロは彼らを見て勇気が湧き上がりました。それと共に、彼らの主に在る信仰を見て、自分が亡き後も、彼らがしっかりと信仰によって歩んでいく事を確信したことでしょう。

結論:パウロがコリントの町に着いた時、神様が「この町には、わたしの民が大勢にいる」と言われました(使徒18:10)。パウロが愛する対象、すなわち伝道する対象がたくさんいる、ということです。私たちも、やがて御国に行く時がきます。しかし、今、この世界には私たちが愛する人々がたくさんいることを決して忘れないで下さい。そして同じ一つの思いを持って、互いに足りなさ、弱さを補い合い助け合いながら、互いに勇気を奮い起こさせる信仰の同志となって、イエス・キリストの福音を伝え歩む者となることができますように。


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