2005/5/22(主日礼拝)

イエスにある神の同労者を捜そう
ローマ16:3〜4



序論:どの時代も「人」を必要としています。しかし、実際ふさわしい働き人を求めようとすると、なかなかいないことに気が付きます。神様も、アダムが罪を犯した後、常に人を探していました。預言者エレミヤの時代にも神様は、義を行い真理を求める人を探しましたが、結局一人も探すことが出来ませんでした(エレミヤ5:1)。神様は罪の業を終結させ、死と苦しみと痛みと涙と失望を終わらせるために、いつも人を探しています。そして、ついに神様はパウロのような働き人を見出し、福音の御業を進めることが出来ました。

  1.使徒パウロの福音の同労者たち
 神様に選ばれたパウロの福音宣教の為になくてはならない人々がいました。それは、福音の同労者です。同労者とは、同じ心と目的を持ち、互いに助け合いながら働く者を意味します。「同労者」と言う呼び名は、その人の権威を認める表現です。同労者は政治的な目的を達成するために共に働く関係とは違い、尊い目的のために、自分自身を犠牲にして共に働く仲間を言います。さらに、福音宣教の為の同労者とは、「神の御わざを共にする人」「ひたすら天国の福音、イエス・キリストの福音のために働く人」の事です。パウロは、福音宣教の中で、キリストにある同労者ブリスカとアクラに出会う事ができました。この「キリストにある同労者」とは、イエス・キリストを救い主として心に迎え、神様の御心を行う為の助け人となって、御国の福音を伝える為に働きを共にする人です。パウロの同労者たちは、他にウルバノ(ローマ16:9)、ピレモン(ピレモン1:1)、テトス(第二 コリント8:23)、マルコ、アリスダゴ、デマ、ルカ(ピレモン1:24)などがいました。

私たちもパウロのように、イエス・キリストを宣べ伝える務めを行う中で、共にイエス・キリストにある真の同労者を見出すことが出来るならば、なんと心強いことでしょうか。

 2.主に在る夫婦ブリスカとアクラ
 ブリスカとアクラは小アジアのポントス出身のユダヤ人夫婦です。彼らはローマに移住して暮らしていましたが、ローマ皇帝クラウデオがユダヤ人を排斥しようと、男性をすべて追い出し、女性たちだけを残したのです。しかしプリスカとアクラは、夫婦が別々に暮らす事を善しとせずに、コリントに移り住みました。そこで、第二次伝道旅行中のパウロに出会うことになりました。
 彼らはパウロと同じように天幕職人
でした(使徒18:1−3)。自分たちと同じ仕事をするパウロに出会い、また、彼が使徒であることを知り、パウロの同労者として一生涯献身をしました。彼ら夫婦は、パウロが行く所々について行き、神様に仕えるようにパウロに仕えました。やがてクラウデオ皇帝が死ぬと、彼らは再びローマに移り住みました。

 プリスカとアクラはローマに着くと、自分たちの家を神様を礼拝する教会として捧げました。それによって、パウロが彼らの家に留まりながら福音を伝えることができました。彼ら夫婦はキリストにあってパウロと一つの思いを持っていました。彼らはパウロのために、自分たちの命さえも惜しむことをしませんでした。パウロに命の危険が迫った時、パウロの身代わりになろうとする程にパウロを大切にしました。その知らせを聞いた各地の教会も、彼らに対して感謝しました。パウロ自身、プリスカとアクラへの感謝の気持ちが余程大きかったのでしょう。信徒たちに書き送る際、挨拶するたびにアクラとプリスカの名前を挙げています。このことからも、パウロの彼らへの思いが伺い知れます。

 神様は、今もプリスカとアクラのような幸せを分かち合う夫婦の同労者を捜しています。聖書に自分たちの名前が6回も登場するとは、なんと恵まれた夫婦でしょうか。彼らは御言葉を受けるところにもいつも一緒にいました。恵みを求めるところにも一緒にいました。神様の御わざのためなら、同じ思い、同じ意見を持ちました。初代教会のある文書には、「アクラとブリスキラは私たちの中で最も理想的な夫婦であった」と記録しています。私たちも、夫婦が、そして家族が一致して神様に仕える恵みを与えられるように、祈り求めましょう。

3.神様の同労者になりましょう
 信じる聖徒は皆神様の同労者です(第一コリント3:9)。神様は御心を速やかに成し遂げるために、今も同労者を捜しています。国政に長けた人は政治家、教育に長けた人は先生、企業の手腕が備わっている人は経営者、家庭のやりくりの上手な人はお母さんであるように、クリスチャンは世を生かす熟練者であり、平和を作り出す事に長けた者であるはずです。そして、神様は、そのような使徒を捜し求めています。

 あなたは神様から探し出され、呼び出された大切な人です。あなたのこの世での働き、伝道する事も、家庭の中で家族の世話をする事も、職場で誠実に働くこと全てが、神様の為に働く神様の同労者なのです。掃除する人は、神様の家の清掃作業員です。農夫は、神様の農場の農夫です。食堂を経営する人は神様の食堂で働く人です。料理する人は神の家の調理士で、学校の教師は学生たちに神様の真理を教える同労者たちです。このように、私たち一人ひとりが召命意識を持って行うなら、自分の務めを崇高な思いで行う事が出来、生き甲斐を感じることが出来るのではないでしょうか。

 聖書は「食べるにも飲むにも何をするにもすべて神の栄光のためにすべきである」と語っています(第一コリント10:31)。一般的に、牧師を聖職といいます。しかし神様は、政治、経済、社会、文化などすべての領域で行われるすべての仕事を聖職として与えられました。ですから、与えられた務めに真心を尽くし、最善を尽くして働く時、それが神様から与えられた聖職となるのです。教会だけが聖なる場所ではありません。私たちの生活の現場に、いつも私が行う仕事の場所に、イエス様が共にいるか、いないかが問題なのです。イエス様がいる場所は聖なる場所です。神様のための務めには貴賎がありません。ブリスキラとアクラはそれを悟り、主に在るパウロの良き同労者となり、ひいては神様の同労者として、感謝と喜びを持って務めを行いました。

結論:何事をするにも感謝を持って謙遜な心で行いましょう。今、あなたは神様の御わざを、神様と共に行っているのだと信じてください。それがイエス・キリストに在る同労者の姿です。

 


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