2005/5/29(主日礼拝)

テラがハランで死んだ後
<創世記11:31-12:4, 使徒7:1-4>




 私たちは、自分の思い通りにならない事を生活の中で多く体験しています。もし、全てが人の思いのままに出来るのなら、貧しい者も、苦しむ者も、病に思い煩う者もないでしょう。慈しみ育てた子どもさえも親の思いのままに、期待通りには成長してくれないものです。これが私たちのいる世の実情です。しかし、信仰によって歩む私たちは、世の流れに染められる事なく、神様の智恵と力によって、主に在る思いの通り生きなければなりません。では、どのようにしたら、妨げられる事なく、神様の善しとされる道を前進する事ができるのでしょうか。
今日与えられた御言葉、創世記11:31-12:4, 使徒7:1-4を通して、その術を学び、共に恵みに
与りたいと思います。

1. 父、テラ

 創世記12章を読むと、アブラハムのもとに神様が現れて、そこで言われた「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」とアブラハムに指示する様子が記されています。
新約聖書の使徒行伝7:1〜4にも、神様がアブラハムに現れ、語られた内容が記されています。「そこで、ステパノが言った、兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、」 

 ここで、注意しなければならないのは、
創世記12章に記述してある「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われたのは二度目の指示だった、という事です。一度目の指示は、使徒行伝に記されている、ステパノが聖霊に満たされて語った、「父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、」でした。創世記11:31〜32にこのように記されています。「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナン地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。」 
アブラハムが神様からの命令を受けてメソポタミヤを出たにも関わらず、ハラン(*脚注:旧約聖書のカランと同義語)で遅滞していた為に、神様がもう一度指示されたのです(創世記12:1)その後、「アブラムは主が言われたようにいで立った」創世記12:4、とあるように、指示を受けてすぐ出発している様子を見ると、遅滞するアブラハムに、神様は業を煮やして厳しく語られたのではないでしょうか。

 では、なぜアブラハムはハランに留まって動かなかったのでしょうか?その原因は、アブラハムの父テラにありました。「テラ」の原語を調べてみると(1)延期する(2)留まる(3)遅滞するという意味を持っています。先ほど読んだ 使徒7:4の「そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させた」とあるように、信仰の先祖アブラハムも父テラの存命中は、ハランを出て神の指示する所への新たな出発ができませんでした。

 アブラハムの父、テラはどのような人物だったのでしょうか。
テラは、偶像を作り、偶像を拝む者でした。そして、神様の指示ではなく、自分の偶像崇拝や利得の為、そして自分たち家族の生活の為にハランに留まっていました。テラは、神様の御心にかないませんでした。アブラハムは神様の指示を受けましたが、父テラが足枷(あしかせ)となってハランを出ることが出来ませんでした。神様に従おうとするアブラハムにとって、父テラは妨げとなり、新しい出発を延期させ、留まらせ、遅滞させる結果となりました。神の御心を行おうとする時、このような妨げあれば何事も進まないばかりか、実現もできなくなります。

同じように、私たちの信仰の歩みや生活の中に、この「テラ」のような妨げとなるものがないでしょうか?この(1)延期させ(2)留まらせ(3)遅滞させるものがなくならない限り、決して新しい出発をすることはできず、進歩、成長、成功もありえません。このような「テラ」がある限り信仰生活は常に困難を来すこととなるでしょう。ではどうすべきでしょう、答えは明らかです。私たちの前進の妨げとなる「テラ」を無くすことが問題の解決になるのです。


2.なぜテラを無くさなければならないのか?
ヨシュア記24:2に、指導者ヨシュアが最後の時を目前にして、イスラエルの人々にこのように語っています。「ヨシュアはすべての民に言った、「イスラエルの神、主は、こう仰せられる、『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていたが、わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、川の向こうから連れ出して、カナンの全地を導き通り、その子孫を増した。わたしは彼にイサクを与え、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、所有とさせたが、ヤコブとその子供たちはエジプトに下った。

また、14節にも「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい」と言われています。「川の向こう」とはすなわち、唯一の生ける神ではない、偶像の神々によって支配されていた場所です。そこでは、真の自由はありません。

私たちは一刻も早く川を越え、神様による恵みに溢れる地に渡らなければならないのです。しかし、「テラ」の妨げは、私たちの自由を奪います。私の人格も、わたしの人生も、夫婦間も、親子間も、何事でも前に進ませないように妨げるのです。問題の解決が出来ないばかりか、一歩も先に進む事が出来ず、神様の御心を行わせません。そして、悩み、苦しむ中から立ち上がって出発する事を妨げるのです。神様は、すべての憂いや心配はゆだねるように言われていますが、テラはゆだねられないように妨げます。神様から来る恵みと祝福を留めるのがテラなのです。このようなテラと私たちはずっと暮らすべきでしょうか?いいえ、速やかに無くさなければなりません。

しかし、神様が共にある所、神様の御言葉がある所では、(1)健康の恵み(2)平安で栄える祝福(3)長寿の恵みが伴います。これは聖書に一貫した神様のお約束です。このような恵みが約束されているにも、今日まで私たちをこの世、ハランに留まらせているのは何でしょうか?アブラハムにとっては肉親でした。父であるテラを断ち切れないアブラハムの弱さもあったことでしょう。その躊躇して二の足を踏んでいるアブラハムに対し、神様はもう一度力強く語られます。「あなたの土地と親族から離れ、あなたにさし示す地にいきなさい」と。

アブラハムが、父テラの亡き後出立することが出来たように、私たちも、心や、性格、そして信仰の中に共にいる「テラ」が死ななければ決して新しい出発はできません。ですから、私たちも、速やかにテラを切り離して神様の示す新しい地に向かって進まなければならないのです。

3.テラを無くす方法
私たちが神様に近づくなら必ず私たちを守ってくださるのです。
「われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。」申命記4:7   
私たち
が神様に近づくならば、私たちの内にあるテラは無くなり、神様から大きな恵みを受けることが出来ます。神様の恵みの中には憂いがありません。私たちがいつも心配して、悩みが絶えないでいるのは、心の中にテラがあるからです。このテラを無くす為の方法は、祈りです。「心にあるテラを切り離してください」と切に祈り求めましょう。

結論:私たちの信仰の歩みにテラがあれば、賛美の喜びも、祈りの喜びも進歩もありません。そして、御言葉を受けることを妨げます。教会にいても心ここにあらず、で恵みを受ける事ができません。今日与えられた御言葉を深く心に留め、「テラ」と決別することを心に決め、神様に祈り近づきましょう。神様の御心にかなった新しい信仰の出発ができる皆様でありますように、主の御名によって祝福いたします。

 


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