大胆な信仰で約束を受けるまで忍耐しよう |
あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モ―セと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモ―セがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。 ヨシュア1:5〜7 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。 ヘブル10:35〜39
序論:信仰の歩みは、後ろを振り返ったり、左右にそれたりすることなく、ひたすら天の父がいる御国を目指して力強く前進します。神様は、私たちが常に前進し、キリストに在って成熟した信仰を持つ事を願っています。 私たちは、過去、現在、未来、という時間の流れの中に生かされています。そして、私たちは現在(今)こそが確かなものとして認めるでしょう。しかし、思いの中ではどうでしょうか?ある人は、過去に捕われて生きています。彼らは過去に執着し、生活のほとんどを過去の経験に基づいて選択します。しかし、過去に固執する生き方は、向上や進歩などの発展を妨げる結果となります。私たち信仰者は過去に執着すべきではありません。とはいえ過去に神様から受けた恵みを忘れてはなりません。恩を忘れる人が尊ばれる事はないでしょう。詩篇の記者も「わたしに賜わったもろもろの惠みについて、どうして主に報いることができようか。」(詩篇116:12)と唱っているように、過去に神様から与えられた恵みは常に思い起こす必要があります。ヒゼキヤ王は神様の恵みを忘れてしまい、恵みに報いることをしなかったために、神様の怒りをかってしまいましたが、後に悔改めました(歴代下32:25〜26)。 では、クリスチャンの望ましい信仰のあり方は何でしょうか? 1.確信を持ち、雄々しくあること。 クリスチャンが持つべき信仰の武器は、「信仰の大胆さ」です。恐れるテモテに対し、使徒パウロは、「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」と勧めました(第二テモテ1:7)。 モーセはカナン偵察のために、イスラエルの十二部族の中から12名の偵察者を選んで送り込みました。偵察者のうち、十部族の者たちは恐れを抱き、否定的な報告をした為にイスラエルの人々は恐怖に捕われて「エジプトに帰るほうが、むしろ良いのではないか」(民数記14:1〜4)と過去に戻ろうとしました。しかし、ヨシュアとカレブだけは信仰による前進的な報告をしました(民数記13:28〜33)。 「彼らはわたしたちの食い物に過ぎません」(民数記14:9)と、大胆な報告をしたヨシュアとカレブをイスラエルの民が石で撃ち殺そうとしたその時、神の栄光が現れてその場を抑えました(民数記14:10〜12)。その結果、神様への不信の罪を犯したイスラエルの人々は、皆、荒野で死に、ヨシュアとカレブだけがカナンに入る事が出来ました(民数記14:23〜24)。神様の守りは、大胆な信仰者の上にあります。 信仰の大胆さは恵みに満たされる時に生じます。そして、信仰による確信と自信を持つ事が出来ます。私たちは決して信仰の確信を捨ててはなりません。何故なら、その確信には大きな報いが伴うとの約束があるからです。(ヘブル10:35)。神様は、モーセに引き継いでイスラエルを率い、カナン征服に向かうヨシュアに、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。」と、そして「強く、雄々しくあれ」と激励されました(ヨシュア1:6〜7)。 神様が私たちに求めておられるのは、敵を打ち負かす強さではありません。神様を信じる大胆さです。その信仰による確信を持つ私たちに代わって神ご自身が戦って下さるのです。その神様を信じる私たちが何を恐れる必要があるでしょうか。神様が共にいて下さる私たちに、誰が挑んでくることができるでしょうか? 信仰の確信や、大胆さを失わせるものは何でしょうか。世の思いや人の言葉によって、信仰の歩みを止めてはなりません。信仰生活における大胆さを捨てた結果得るものは何もありません。神様の約束はことごとくキリストにあって、「しかり」なのです(第二 コリント1:20〜21)。
2.どんな環境の中でも神の御言葉を保つこと。 信じる者たちは、どのような環境の中にあっても心の中に神様の御言葉を抱いて守らなければなりません。オベデエドムの信仰から学びましょう。彼は、ウザの割り込みによって恐れの対象となり、王ダビデさえも敬遠した「神の箱」を引き受け、三ヶ月もの間、彼の家で大切に保管しました。オベデエドムの家に災いが降りかかったのでしょうか?いいえ、神様はオベデエドムを多いに祝福なされました。(下サムエル6:11〜12)。神の箱の中には十戒、すなわち神様の御言葉が入っていました。神様の箱、すなわち御言葉を受け入れたオベデエドム本人のみならず、彼のすべての所有に祝福がもたらされました。 神様の御言葉を常に心の中におさめているなら、その人は神の箱がある至聖所となります。私たちは、神様の真の御言葉を心の中に受け入れ、それを忍耐強く守らなければなりません。殺伐とした疑いだらけのこの世の中で、人の心は不安に怯え、予測し難い未来に対する恐怖心に捕われています。学者たちは「人類のすべての憂患と病は未来に対する恐怖による」と述べています。心の中に神様の御言葉が臨在していれば、不安や雑念に縛らて悩む事はありません。神様の御言葉がいつも共にあり、受けた恵みに感謝し、教会生活を送るなら、心配や思い煩いや、憂いが襲ってきても打ち負かされることはありません。恐ろしさが私たちの心を占領する事もなく、かえって御言葉の励ましが与えられ、平安が心に満たされます。そして心身共に健康な日々を送る事ができるのです。 エジプトから出たイスラエルの人々の中で、ヨシュアとカレブの二人だけがカナンの地に入ることができたのは何故でしょうか。彼らは神様の御言葉を正しく信じ、従ったからです。神様の契約の御言葉を、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして信じました。その信仰の中には、闇の力やサタンの力の入る余地は微塵もなかったのでしょう。 あなたの心の中には何がありますか?恐れですか?不安ですか?「神様が共にいる」という信仰の確信を大胆に持ちましょう。その中に、神様の限りない愛と恵みの力が働かれます。イエス様は、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。」と言われました(ヨハネ8:29)。インマヌエル(主が共におられる)の信仰によってすべての不安と恐れを追い払いましょう。 結論:クリスチャンの確信に満ちた生活と言うのは、現在与えられている務めを忠実に行い、予測のできない未来に対しても「神の栄光の為に」という確かな目的を持つ大胆な信仰をもった生活です。私たちが、確信を、大胆さを決して捨ててはならない理由は、神様の御心を行った後、約束のものを受けるためです。 「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」(ヘブル10:35、36)
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