2005/6/12(主日礼拝)

神の聖なる山に住むべき者
詩篇15:1〜5




序論:聖書の中には、「山」を背景に神様の臨在や御わざが現れています。今日の本文、詩編15:1にも「神の聖なる山」が記されています。「神の聖なる山」とはどの山を指すのでしょうか?文字通り、私たちの目に見える「山」なのでしょうか。「聖なる山」について、聖書は以下のように述べています。

1)肥えたものをもって祝宴を設け、ぶどう酒をもって祝宴を設けられるところ(イザヤ25:6〜8)
2)主の道を教えるところで、もろもろの民が集まるところ(イザヤ2:2〜3、ミカ4:1〜2)。
3)試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石をすえてあるところ(イザヤ28:16)。
4) ユダヤにいる人々が逃げるところ(マタイ24:16)。
5)エデンの園(エゼキエル28:13〜16)。  
6) 花嫁の心(雅歌4:12)。
7)聖なる都エルサレムが天から降りて来るところであり、それを見れるところ(黙示録21:10)。
8)
神の御言葉が記された石の板を与えられるところ(出24:12)。

 このことから、聖書に記されている「聖なる山」とは、単なる表面的な特定の「場所」を指しているのではなく、神様の御言葉を受ける場所であり、御言葉の流れる場所、御言葉に従う場所が、「聖なる山」であることが分かります。「聖なる山」は、共同体としての教会を指しています。聖なる教会は、共に分かち合う場所です。まさに、神の国が教会において実現される場所なのです。神の国は「自分の物ではなく、あなたの物」とする場所です。そして、愛なる神様の教会も、また愛に根ざすべきです。愛とは、握るのではなく、開くものです。

 詩編15:1「神の聖なる山」に住むべき者は誰ですか」に続いて、このように記されています。「直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、・・・」このような者が、「神の聖なる山」に住むにふさわしい者である、と語っています。

 そして「神様の聖なる山」に住む為の資格は、神様を知る者、つまり「神様と交わりのできる者」です。交わりをするには互いに知ることが必要です。それによってお互いに親密さを増す事が出来るからです。使徒ヨハネもこのように述べています「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(第1ヨハネ1:7〜8)。

 では、私たちが、「直く歩み、義を行い、心から真実を語る者」となる為には、どのように行うべきでしょうか。神様の恵みとあわれみによって召し出された私たちが、御前でどう生きるべきかを、御言葉から共に学びたいと思います。

 

1.正直に生きる

 「直く(なおく)」とは「「正直」という事です。私たちは「神の聖なる山に住む」にふさわしくある為に、自分に正直であらねばなりません。自分に正直でない者が、どうして神様の前で正直になれるでしょうか。自分に正直でなければ神様との交わりを持つことが出来ません。「正直」とは、(1)純粋である(2)誠実である(3)完全であると言う意味を持っています。純粋に神様の御言葉を信じ、誠実で、神様の御言葉を疑いなく完全に信じ、行う者が、神様の前に正直(直く)な者と認められます。
直く歩む時、私たちは喜びと感謝をもって行う事ができます。その為には、真に神様を恐れ敬う信仰が必要です。

 あなたはすべての生活において、正直に行っていますか?信仰において正直に歩んでいるでしょうか。
主の日は誰の日でしょう。神様は、「主の日はあなた方の日ではなく、私の聖なる日である。聖別して守りなさい。その日祝福を与える。」と言われました。その主の日を「聖なる日」として守っていますか?「聖なる主の日」を聖別して守ることができない者に、神様が主の日の祝福を与えてくださるでしょうか?主の日を守らない者が、果たして「聖なる山」に住むことができるでしょうか?
また、日々 感謝する事、十分の一を捧げる事、教会から与えられた務めに忠実を果たす事において正直に行っているでしょうか?

私たちはこれらの問いに対し、常に良心に聞き従うべきではないでしょうか。良心に従う、という事は、私たちの行いを常に良心に照らして見ること。そして、少しでも良心に呵責を覚えたなら、今までの在り方を放棄し、神様の善しとされる行いへと転換することを言います。パウロはう告白しています。「わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」(使徒23:1)

 他にも聖書の様々な箇所で、「良心」に従って歩む行いについて記されていますので、読んでみましょう。(第一コリント1:12、第二テモテ1:3、第二テモテ3:9、使徒24:16、ヨブ27:5〜6、第一コリント4:4、第二コリント4:2、第二コリント5:11、ヘブル13:18)。

 信じる者は、どんな時にも良心の衣を着なければなりません。信仰生活において、正しい良心を保たず、良心を捨てた者は、「信仰の破船に会った」のと同じである(第一テモテ1:19)と、聖書は述べています。「良心」は神様のものであって、私たちのものではありません。私たちが良心に従わない生活をするならどうやって、イエス・キリストがうちにいるかどうかを立証できるでしょうか。キリストがなければその人は見捨てられた人となってしまいます。「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたのうちにおられることを、悟らないのか。もし、悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる」(第二コリント13:5)。

「これは神の御心に背くことではないか、私の思いは本当に純粋であったか、誠実さを失っていたのではないか、御言葉を疑っていたのではないか」と、良心が語る声に、耳を傾け、思いを新たにする私たちに向かって「あなたはわたしの子である」と、神様が認めて下さるのです。

2.義を行い心から真実を語る。

 義とは「正しさ」を表す言葉です。「義を行う」とは、神様との関係について言えば、自分と神様との間に結んだ約束を忠実に果たすことです。人との関係では、道徳的規範を遵守し、約束したことを忠実に守ることを意味します。聖徒は、心にも、言葉にも、行いにも真実を求められます。なぜなら、偽りは悪魔に属するからです(ヨハネ8:44)。人は騙せても、思いと心のすべてを見通される神様の前に、私たちは決して偽ることはできません。偽りは自分自身に死を招き、聞く者を滅びに導くのです。人類の祖先であるアダムとエバが悪魔の偽りの言葉に騙された事によって死が入ってしまいました(ローマ5:12)。

 また、真実な人は御言葉を信じます。そして、神様の御言葉を道標とし、避け所とし、御言葉によって清められ、御言葉に根ざし真実を語る人です。自分の全生涯が、御言葉によって成り、完成させられる事を信じ、神様の御旨に従って生きる人です。もし偽る者が天国に溢れたらどういう事になるでしょう。もはやそこは天国ではなくなってしまうのではないでしょうか。

 3.言行の一致。

 詩篇15編に「言葉と行いが一致するべき」と記されています。神の聖なる山に住む為には、私たちの言葉と行いが一つにならなければなりません。預言者アモスは腐敗した時代に向かって「公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。」と、イスラエルの人々を咎めました。

 涙の預言者と言われているエレミヤも、正義も公儀も無いイスラエルに向かって「エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす。」と涙と共に叫びました。

 言行一致とは、すなわち、「信仰の道に従う」生き方を貫く事です。信仰によって自分に勝ち、世に勝ち、罪に勝ちを治める事です。信仰によって始まり、信仰によって進み、信仰によって仕上げることが言行を一致させる事です。このように、言葉と行いが伴い、御言葉に従って歩む人が神の聖なる山に住むことができます。私たちがイエス・キリストと共に聖なる山に入る時、すべての不安も、恐れも、病も無くなるのです。

 誓った事は自分の損害になっても変えてはならないと聖書は語っています(詩篇15:4、申命記23:21)。ヤコブは神様との誓いを果たしました。その結果 神様は、ヤコブの神になって下さいました(創世記28:20〜22)。「行いのない信仰は死んだ信仰である」(ヤコブ2:17、26)と聖書は語っています。神様は生きておられます。死んだ者と生きた者の関係はありません。私たちが生きている時にこそ、神様との関係を持つ事が出来るのです。

結論:「主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、」(詩編15:1)。この「幕屋」は「聖殿」を指していると同時に「天国」の影でもあります。神の聖なる山に住む者と、神様の幕屋にやどるべき者は、共に「正直、公儀、誠実」を兼ね備えた者です。このうち一つでも欠けてはいけません。「聖」とはこの三つすべてを含みます。「すべての人と相和し、また自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、誰も主を見る事はできない。」とヘブル記者は語っています(ヘブル12:14)。

私たちは、誰しもきよめられることを願わない人はいないでしょう。しかし残念ながら現実は、思う通りに行う事が出来ないのも事実ですが、だからと言って、出来ないと初めから諦めてよいでしょうか。人にはできない事でも、神様にはできるのです。私たちが、『できる!』と信仰をもって、愛をもって、犠牲をもって行う時に、憐れみ深い力の神様が、恵みによって、私たちに「聖」を得させて下さると信じましょう。

 


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