2005/6/19(主日礼拝)

教会はキリストにあってきよめられる
伝道の書5:1〜5




序論:伝道書の著者ソロモンは、伝道の書を通して、先ず自然界について語り(伝道の書1:4〜11)、次に伝道者である自分の経験を語っています。(伝道の書1:12〜2:23)その後、世にある様々な不義について語り(伝道の書3:16〜4:16)世相や人生が如何に嘆かわしく、空しいものであるかと語りながら、人は正気を取り戻すべきであると示唆しています。更に伝道者は、人生の空しさを語り(伝道の書1〜4章)次いで、彼らが捧げる形式的な礼拝に対する訓告をしています(伝道の書5章)。

 今の時代も、教会に出て儀礼的な礼拝は捧げるけれど、心から神を熱く愛することも、恐れることなく、「礼拝を守りさえすればいい」と、形式的な礼拝を捧げる人が少なくないと思います。このような形式的な礼拝に満足する人々に対して神様は、嘆き、悔改を求めています。

 これほど人生が空しくなった原因はどこにあるのでしょうか。人の空しさの本質的な理由は、神様を離れたところにあると、神様は、ローマ1:21節を通して語っています。人生の空しさを克服する術について、伝道者は、「日の下でのべての人生を清算すること」。そして、 神を離れたすべての思いと思想と理念を切り離し、ひたすら神様だけを恐れることだけが生きる道であると教えています(伝道書5:7)。

なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。      −ローマ1:21−  

夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。    −伝道の書5:7−

 今日、与えられた御言葉は驚くべき事実を私たちに語っています。世の空しさを克服するための信仰生活が、ともすると、再び空しさに陥る恐れがあるという事です。私たちは「神を恐れる」という思いで、熱心に信仰の生活を守っています。しかし、その実、心を尽くさず、真心を持たずに捧げる礼拝はすべて偽りとなり、空しさとなる、と聖書は語っています。では、空しい信仰生活を克服するには、どうしたらよいでしょうか。

1.神の宮に行く時には、その足を慎むが良い。

 イスラエルの人々がエジプトを出て480年経過した後、ソロモンによって神殿建設が開始されました。神様は、アブラハムとイサクとヤコブなど、先祖たちがどのように神様に仕えたのかをソロモンに悟らせるために、アブラハムが一人子イサクを捧げた場所を指定し、そこに神の聖殿を建てるように命じられました。7年かけた神殿がいよいよ完成し、落成式が行われた時、神様は喜びのあまりにソロモンの神殿を神の栄光で満たしたのです(列王上8:10〜11)。神様はソロモンの祈りに答えると同時に、もし心を尽くさないで形式的に礼拝を捧げるなら、「わたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。」(列王上9:1〜9)と警告しました。

そして祭司たちが聖所から出たとき、雲が主の宮に満ちたので、祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。     −列王上8:10〜11−

 これらの事から、伝道者は「神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。」と教えています。神様はシナイ山の燃える芝の中からモーセを呼ぶ時、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである。」と言われました(出エジプト3:5)。ヨシュアにあらわれた主の軍勢の将もヨシュアに、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である。」と言われました(ヨシュア5:13〜15)。

 「足を慎む」とはどういうことでしょうか。エペソ書6:13からの御言葉の中に、神の武具について記されています。「平和の福音の備えを足にはき....」とあるように、聖書に於いて「足」は、信仰の歩みを意味します。
「足を慎むがよい」と、モーセや、ヨシュアに云われた「靴を脱ぎなさい」という神様の指示も同じ脈絡の意味を持っています。また、イエス様が十二弟子の足を洗われたのも、同じ意味をなしているでしょう。蛇足ですが、ピラトがイエス様に極刑を言い渡す際に手を洗いましたが、これは、この事について、私は何ら関係を持たない、という意思表明です。つまり、手を洗う、足を洗う、という行いは、今までの自分と決別することを表します。

同じように、「足を慎む」や「靴を脱ぐ」も、過去に自分が歩んで来た道との決別と、新たに出発する姿勢を表す行為です。すなわち、「足を慎むが良い」というのは、古い習慣や、自分の思い、不信仰や、真心を尽くさない礼拝など、形式だけの信仰を切り離すこと。そして、聖なる神様の前に出るにふさわしく、思いを新たにし、聖別された者として神様の前に出なくてはならないという事を意味しています。

 神の宮に行く=礼拝を捧げる時、私たちは、今までの形式的な礼拝を悔い改め、心を尽くし、真心からの礼拝を捧げること、それこそが、空しい信仰を克服する術なのです。

2.神様の御言葉を聞く

 神様がイスラエルの人々に神の聖幕を建てるように命じられたのは何故でしょうか。それは、イスラエルの人々の中に住み、彼らに会うためです(出エジプト29:41〜43)。旧約のモーセの時代には、移動する幕屋が神様の住む聖所でした。ソロモンの時代にはソロモンの建てた聖殿に住まわれました。そして、イエス・キリスト以後、すなわち今の時代は、私たちの心の中に神様の宮を建てて住むことを神様は願っています(第一コリント3:16、6:19〜20)。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。−第一コリント3:16−

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。−第一コリント6:19〜20−


 この世における聖幕や聖殿の不完全さを知っておられる神様が、聖霊を通してイエスを信じる心をそれぞれの心の中に与え、十字架の血潮を持ってそれぞれの罪をきよめ、聖霊の印を押して下さるのです(第一コリント1:21、エペソ1:13、4:30)。聖殿が影であるならば今日の教会は実体です。聖殿が待ち望みであるなら今日の教会は出会いです。

この世は、自分の知惠によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知惠にかなっている。そこで 神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。  −第一コリント1:21−

あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。  −エペソ1:13−

神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。−エペソ4:30−

 神様は愚かな者が犠牲を捧げるより、神の宮に入り神様の御言葉を聞くことを喜びます(伝道書5:1)。ここでいう愚かな者とは、1)愚かで道理をわきまえない人。2)智恵の反対側に立っている人。3)暗闇を歩む人(伝道書2:14)。4)何もしないで益にならない人(伝道書4:5)。「やらなければ、やらなければ」と言いながら、結局何もしない人です。私たちは、愚かな者にならないで、御言葉を悟る者となりましょう。思慮の浅い行動をやめて、聖なる御言葉を心に受け留めて、きよめられた行動を取るべきです。何故ならば、聖なる宮に神様は住まわれるからです。「しかし、主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ。」(ハバクク2:20)。

近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。  −伝道の書5:1−

知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。 −伝道の書2:14−

愚かなる者は手をつかねて、自分の肉を食う。 −伝道の書4:5−

 御言葉を聞く時に大切なのは、先ず何よりも「心」を傾けることです。心を傾けることによって目と耳も明るくなり、神様の恵みを受けることが出来ます。イエス様を招いたマルタは食事の準備にせわしなく動いていましたが、マリヤはイエス様の足元でイエス様の御言葉を聞きました(ルカ10:38〜39)。イエス様は、マリヤがよりよい選択をしたと褒めておられます(ルカ10:40〜42)。

一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。−ルカ10:38〜39−

ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。 −ルカ10:40〜42−

 キリスト教は御言葉を聞く宗教です。信仰が与えられるのも、イエス・キリストの御言葉を聞く事によって与えられると聖書は教えています(ローマ10:17、カラ3:2,5)。また、「従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる、」と、神様に喜ばれる姿勢が「御言葉を聞く」事であると聖書は教えます。(サムエル上15:22)。耳のあるものは御霊が教会に語る御言葉を聞くことができます(黙示録2:7、11、17、29、3:6、13、21)。イエス様も御言葉を語られた後「耳のある者は聞くがよい。」と言われました(マタイ11:15、13:9、43、ルカ8:8、14:35)。

したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。−ローマ10:17−

わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。  −ガラテヤ3:2−

すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。 −ガラテヤ3:5−

サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、はん祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。  −サムエル記 上15:22−

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。  −黙示録2:7−

 聖書の中で「神は言われた」という言葉が頻繁に出てきます。教会は御言葉を伝えるところです。すなわち、神様のご性質を伝えるところが教会です。この御言葉を聞くことが私たちにとっての祝福となります(申命記11:27)。御言葉を聞く瞬間、死から命に移ります(ヨハネ5:24〜25)。どのような罪もすべて赦されます。しかし、反面、御言葉に聞かない場合「神の言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。」と記されています(申命記18:19)。預言者たちの語る御言葉を聞かなかった人々を獅子は殺した、と聖書は如実に記しています(列王上20:36)。神に属する人は神様の御言葉を聞き従います(ヨハネ8:47)。羊が羊飼いの声を聞き分ける事が出来るように、真理に属する主の羊は、主の御声に聞き従うのです(ヨハネ10:3、18:37)。
神様の御言葉に聞く時に、まさに私たちは、主にあってきよめられた信仰を持つことができます。その時に、空しさを克服することができるのです。

もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。  −申命記11:27−

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。 −ヨハネ5:24〜25−

彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。 −申命記18:19−

彼はその人に言った、「あなたは主の言葉に聞き従わないゆえ、わたしを離れて行くとすぐ、ししがあなたを殺すでしょう」。その人が彼のそばを離れて行くとすぐ、ししが彼に会って彼を殺した。 −列王上20:36−

神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。 −ヨハネ8:47−   

門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。 −ヨハネ10:3−

そこで ピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」  −ヨハネ18:37−

 

結論:イエス・キリストの血潮によって購いだされた聖徒にふさわしく、キリストにあってきよくあるべきです。教会生活の本質は「きよめ」です。神様の前に、足を慎み、神様の御口から出る一つひとつの御言葉によって、空しい信仰生活から脱却し、主に在ってきよいクリスチャンになりますように、主の御名によって祝福いたします。


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