2005/6/26(主日礼拝)

この都で10人の義人を捜しだせるなら
創世記18:22〜23、箴言29:2




序論:「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものから受けて、恵みに恵みを加えられた。」ヨハネ1:16
恵みの上に恵みがさらに加えられると、聖書は語っています。恵みとは神様から与えられる祝福です。砂漠に雨が降らず、肥沃な地が雨によって更に潤されるのと同じように、恵みのある所に恵まれた人が集まります。「類は友を呼ぶ」という言葉があるように、似た者同士が集まるものです。今日与えられた御言葉を通して「神様は義人を捜しておられる」ことを知る事が出来ます。私たちが、その義人のうちに加えられる事を願うなら、まず、自分自身が義とせられるべきではないでしょうか。何故ならば、「義人のいる所に義人が集う」からです。

本論 創世記を読むと、ソドムとゴモラの町が神様の怒りに触れ、硫黄の火によって滅ぼされた次第が記されています。アブラハムが、甥のロトが住んでいたソドムの町への神様の裁きから免れさせて頂く為に、御前で畏れを持ちつつも神様に談判している姿を聖書から読む事ができます。アブラハムは、神様の怒りを身に受ける事を覚悟しつつも、最終的に「10人の正しい者がいれば、その町は滅ぼさない」と神様の譲歩を引き出すことができました。そのアブラハムの、親族やそれらの町に対する愛はいかばかりであったのでしょうか。しかし、そのアブラハムの熱意と神様の寛大さにも関わらず、ソドムとゴモラの町には正しい者10人を見出す事ができず、滅ぼされる結果となってしまいました。

 ソドムとゴモラの町は、どのような町だったのでしょう。
聖書によると、 ソドムとゴモラの町は潤うエジプトのようで、エデンの園のようであったことを明記しています(創世記13:10)。
ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。−創世記13:10−

その町は繁栄の極みにありましたが、彼らは神の前で大きな罪人でした(創世記13:13)。

ソドムの人々はわるく、主に対してはなはだしい罪びとであった。 −創世記13:13−

凝視するに耐えない程堕落しきった町、悪臭が漂うほど腐敗した町、(第二ペテロ2:7〜8)高慢な町、それがソドムとゴモラの町でした。(エゼキエル16:45〜50)。

 BC 3〜4年頃、キュニコス派の哲学者*ディオゲネスとい人物がいました。彼は、祖国を存亡の危機から救う事のできる一人を捜すために、真昼にも関わらず灯火を持ってアテネの町をさまよい歩いていました。今、私たちの時代も、まさにそのディオゲネスが生きた時代の様相を呈しているのではないでしょうか。男女間の正しい性の在り方が壊れ、性犯罪や青少年犯罪など、耳を疑う程の様々な犯罪が私たちの周りに起こっている現在、私たちは、これらソドムやゴモラの町の滅びを対岸の火事と思って見過ごしてよいのでしょうか。

 平成15年の日本の人口は約1億2千万人、東京都の人口は約840万、埼玉県の人口は約695万人いるそうです。この国の中に、果たして神様が捜し求める10人の義人がいるのでしょうか?私たちの住む町に、10人の義人を見出すことができるでしょうか。私は時々新宿駅を利用しています。おびただしい人の群れが毎日この新宿駅を行来しています。その光景はさながら海に逆巻く波のようです。これらの人々の中に、神様の御心を求める人が何人いるのでしょうか。

更に言えば、私たちの教会ではどうでしょうか。この教会に神様の求める10人の正しい者がいるか?と聞かれたなら、私たちは如何様に返答するのでしょうか。「はい、神様。ここに、この町に、この国に10人の義人がいます!」と自信をもって言える人がいるでしょうか?神様は預言者エレミヤに、「エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす。」と言われました(エレミヤ5:1)。「ひとりでもあるか?ならば捜してみよ」とは、裏を返せば「一人もいない」という事を言わんとしているのではないでしょうか。しかし、その神様の御旨の中には「どうか一人でもいてほしい」という悲痛なお心があることを、私たち主に在る者は悟るべきではないでしょうか。

 ソドムとゴモラの町は、その罪過の故に神様の裁きを受けましたが、神様はロトと彼の家族に救いの御手を延べられました。ただ、非道の者どもの放縱な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。(この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。」−第二ペテロ2:7〜8−
神様とアブラハムとの約束は、「10人の正しい者がいれば」でした。しかし憐れみ深い神様は、ロトを顧みてくださり、救い出して下さったのです。

 神様は今も義人を求めて御声を発しています。エデンの園で「あなたはどこにいるのか」とアダムを捜している神様の御声、ノアの洪水の前に聞こえた神様の御声、そしてソドムとコモラの滅びの直前に、アブラハムが聞いた神様の御声です。神様が探し求めておられるのは、どのような人でしょうか。私たちもこの神様の御声を聞く事ができますようにと、祈りつつ、共に御言葉に耳を傾けたいと思います。

1.神様は公儀に忠実な正しい指導者を捜しています

 神様が捜し求めておられるのは、国と民族を心から愛する真の指導者です。真実な指導者は、危機が迫った時、その人々と共に悲しみ、苦しみます。イスラエルの民をエジプトから導いたモーセを見ましょう。モーセは、パロの娘の子として、将来、王になるはずの人でした。しかし、同胞の民を愛するが故に、すべてのエジプトの栄華を放棄して神様の民イスラエル人らと共に苦しむ道を選びました(ヘブル11:24〜26)。

 信仰によって、モ―セは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 −ヘブル11:24〜26−

 モーセが民族を愛する真の指導者であるという事が、イスラエルの人々が神様の前で罪を犯した時に証明されました。モーセが律法を受けるためにシナイ山に登っていた時の事です。イスラエルの人々は、自分たちで勝手に金の子牛の像を作り、それを拝みました。その事で、神様は怒りを発せられ、彼らを皆殺しにすると言われましたが、(出32:1〜10)モーセは自分の命をかけて神様の前で執り成しの祈りを捧げたのです(出32:11〜14、31〜32)。
執りなしの祈りは、神様の前に生きているからこそ 捧げる事ができます。言葉と行いが一つにあって、生きた信仰を持ったリーダーが立つなら、その家庭は、その教会は、その町は、そして、この国は、栄えの恵みを頂く事ができるのです。

 まさに、悲しむ者と共に悲しむ指導者。自分の身を呈して、群れを守ろうとする、このモーセのような指導者を神様は捜し求めておられるのです。真に国を愛する人は人を選びません。派閥を選びません。ただこの国の一人一人を胸に抱いて、祝福に満ち溢れる国、神様に愛され、喜ばれる国づくりをしようと努力する人です。
 使徒パウロもそのような指導者の一人です。彼は同胞の救いを心から願い、このように告白しています「わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。」(ローマ9:1〜3)肉親や民族、そして祖国を愛し、歴史の主である神様の御わざを信じて、民族の真の自由と平和の為に祈る者になりましょう。受難の民族と運命を共にし、民族の痛みを共に味わい悲しみを共に味わい、悲しむ人々です。

 私たちの周りには、時として過ちを犯す人もいます。神様の御心に従わない人を裁くのではなく、かえって心に痛みを持って、それらの人々の為に叫び祈る者を神様は捜しています。(第二ペテロ2:8)そして、モーセやパウロのように苦しみの中からも自分の民を愛しながら献身する者となり、神様に見出されることができますように。

2.真実で正しい聖徒を捜しています。

 正直で真実な聖徒とはどのような人でしょうか。それは、「良心的な人」です。パウロはすべてのことに、神の前で良心に従って行動したと告白しています(使徒23:1)。彼は自分の良心を、神のみまえと、すべての人の良心に向かって自分を推薦するほど、良心に恥のない福音を伝えていました(第二 コリント4:2)。

パウロは議会を見つめて言った、「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた。」 −使徒23:1−

恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。  −第二コリント4:2−

 教会の指導者、リーダー、代表者、執事、すべての人々もまた、使徒パウロのように良心に従って生きる人にならなければなりません。真の牧者、真のリーダー、真の役員、真の働き人とはまさに良心の人です。この良心の人こそ国を、また教会を、兄弟姉妹を家族を愛することができるのです。国や、地域、そして教会に於ける、あらゆる奉仕の中で最も優れた奉仕は、良心に従って行う奉仕です。

 良心の人は真に国の柱のような人です。そして、良心の人は民族と国家存続にとって必要な聖なる木の株です。神様はそのような人を捜しています。私たちはユダヤ人から祖国愛を学ぶ必要があるのではないでしょうか。歴史の中で、イスラエルの民は敵国バビロンに捕われて行きました。シオンを思い出して涙を流す彼らに対し、とりこにした者らが余興の為に「琴を弾き、シオンの歌を歌え」と強要しました。しかし、彼らは「異邦の国で主の賛美を歌うことなどできない」と心の痛みを語っています(詩篇137:1〜9)。彼らの主に対する信仰の節義(せつぎ)と気概(きがい)は驚くべきものがあります。彼らは、これら信仰の良心によって、決して主に捧げる讃美をおろそかにすることはありませんでした。私たちは、このようなイスラエルの民の信仰から多くを学ぶ事ができます。

結論:神様は義人を捜しています。神様の関心は常に義人にあります。ソドムとコモラが滅ぼされたのは何故でしょうか。神様が見てよしとされる10人の義人がなかったからです。神様は、悔改めて、神様に立ち返る義人を捜しています。今程切実に正しいリーダーが求められる時代はありません。神様は、国を心から愛し、仕える義人を捜し求めています。私たち一人ひとりが、神様が捜し求める義人となって、国を愛し、民族の救いの為に祈るべきではないでしょうか。

ディオゲネス(英:Diogenes、紀元前412年-紀元前323年)は古代ギリシア哲学者アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。シノペ生れ。犬儒派キュニコス派)の思想を体現して犬のような生活を送り、「犬のディオゲネス」と言われた。また、大樽を住処にしていたので「樽のディオゲネス」とも言われた。


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