人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか |
今、私たちを取り巻く環境は、ますます悪化の一途を辿っています。聖書に預言されている終末が、刻一刻と迫っている感を拭い去る事ができません。世界各地で起っている様々な異変を、終末の前兆ではないかと捉え、世界各地から流される様々なニュースに耳をそばだてている人々も少なくはないと思います。また、私たちキリスト者のみならず、イエス・キリストを信じていない人々の間でも、終末論が取りざたされています。 とは言え、終末論を殊更に強調したり、逆に、現実に目を背けて終末論を完全に否定する、といった極端な方向に走ることなく、今、私たちが信仰によってなすべき事は何か、またどう生きるべきかを、常に聖霊の導きに委ねつつ、御言葉の智恵を頂いて歩むべきではないでしょうか。 今日与えられた御言葉を通して、人の子が来る時、私たちが信仰を持っている者と認められる為には、どのような信仰によって生きるべきかを学び、共に恵みを分かち合いたいと思います。
1.御言葉の成就は「今日」であるという信仰によって生きる。 神様はいつも「今日」という時間の中で御わざを行われます。「今日」私が信じる時に、その信仰は力となって「今日」私を生かします。御言葉が私たちの内に成就するのも「今日」なのです。常に信仰は「今日」であって、将来または明日の約束ではないことをしっかりと心に留めなければいけません。 兄ラザロの死を前にして、悲しみの直中にいたマルタとマリアの行動が、私たちに一つの教訓を与えています。マルタとマリアは、信仰の主、いつも変わることのない御言葉そのものであるイエス・キリストと共にいて、主から直接御言葉を受ける恵みを与えられていました。しかし「今日」現れる御言葉の御わざを信じることができませんでした。彼女たちの信仰は、肉親の死の前では脆くも崩れさってしまったのです。マルタはこう語っています「終わりの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています。」と。御言葉の成就は将来であって、「今日」ではないと信じていたマルタをイエス様はいさめられました。(ヨハネ11:23〜27)。今日生かす御わざこそが、御言葉の御わざなのです。 ノアは、神様から与えられた「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたはいとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中に部屋を設け、アスファルトでそのうちとそとを塗りなさい。その造り方は次のとおりである。(創世記6:13〜15)」と語られた、ただ一度の御言葉を100年変わることなく、「今日」成し遂げられる出来事として信じ、箱船を造り続けたのではないでしょうか。そして毎日、その御言葉を反芻しながら歩んだ事と思います。神様の御言葉に信頼し、自分自身を完全に委ねて「今日」を歩んだノアの心の耳には、まさに、洪水による裁きの雨音が来る日もくる日も聞こえていたのでしょう。 エノクの場合も同じです。過去、人類の歴史において、死を見ずに御元に移された人物が2人います。その内の一人がエノクです。彼は、その子メトセラを通して、常に終末の裁きを見ていました。彼に臨んだ裁きの基準となる息子メトセラを目前にして、エノクは日々「今日」神と共に歩みつつ、300年を生きたのです。起伏なき信仰、少しのずれもない信仰をエノクが持ち得たのは、彼にとって終末が、いつ来るとも知れない未来の出来事ではなかったからであると、私たちは、今日聖書を通して知る事ができます。 彼ら信仰の先人たちが「善し」とされたのは、神様の御言葉を今日成し遂げられる御言葉として信じ、畏れながらその御言葉に仕えた結果であります。私たちも、このように「今日、御言葉が成就する」と信じる信仰を持って日々歩むなら、必ず人の子が来られる時、地上にある信仰者として守られ、認められるでしょう。 2.最後に与えられるラッパの恵みを受けると信仰を守ることが出来ます。 神様の愛は変わる事がありません。神様は、人類の歴史6千年常に変わらない愛を持って、魂の救いの為に御手を広げておられます。造り主である神様を忘れて生きていた人間に、神様は先ず僕たちを送り込み、心の畑を耕させる恵みを与えられました。その恵みを退けた私たちに対し、神様は大きな忍耐を持って一人子を遣わされました。その御子を信じ、その名を呼ぶならばその者たちを生かす、という恵みを与えてくださったのです。しかし、その御子さえも十字架につけて殺してしまいましたが、今も神様の恵みは変わる事無く、イエス様の御名を信じる者に対して更なる恵みを与えて下さるのです。 私たちがイエス・キリストを信じて救いを受けた時の恵みがあります。また、救われた私たちの信仰を成長させる為に与えられる恵みがあります。そして、成熟した信仰を持って、隣人を生かす時に働く恵みもあるのです。このように、神様から与えられる恵みにはそれぞれ段階があります。神様は、終わりの時、父の栄光を持って、人間の救いの実りを見る為に、この地に再び訪れると約束されています。(マタイ21:33〜43、ヘブル9:28)。その時に、神様が持ってくる最後の恵みがあることを聖書は明確に示しています(ペテロ1:13)。 それだから、心の腰に帯びを締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる惠みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。 −ペテロ1:13− 私たちは、この恵みを受けてこそ永遠に生きることが出来るのです。ノアは最後の恵みを受けた者でした。罪がはびこった世に、洪水による裁きが刻一刻と迫り来る中、裁きの崖淵で最後の恵みを手にした者がノアでした。裁きの時を目前にして、最後の恵みをつかんだのです。最後の恵みとは何でしょうか。それは「終わりのラッパの恵み」です。 ノアは、信仰によって100年後に降る雨の音を聞きながら歩みました。そして、裁きが行われる直前に、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。」という終わりのラッパの音、すなわち神様の御言葉を聞いたのです。しかし、ここでもしノアが与えられたラッパの音に響きがなかったらどうなったでしょうか。第一コリント15:52にあるように「響きと共に」ラッパの音を聞かなければならないのです。御言葉を聞いても、響き=感動がなければ、その恵みに与る事はできません。私たちは常に、感動を受けつつ御言葉をいただきましょう。その時、ノアに聞こえた「終わりのラッパの音」を響きと共に私たちが聞いたなら、「ラッパが響いて、死人はくちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」という聖書の御言葉が成就するのです。神様は最後の火による裁きの時を定めておられます。(第二ペテロ3:7)。この、火による裁きから、救われる恵みを頂かなくてはなりません。 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。 −第二ペテロ3:7− 3.目を覚まして、最後の救いの扉が閉まる音を聞く者が信仰を守ることができる。 ノアが聞いていたのは、大雨の音だけだったのでしょうか。ノアの耳には、よもや神様が箱舟の扉の閉じる音も聞こえ、眠れない夜を過ごしたのではないでしょうか。迫り来る洪水の濁流に押し流され、箱舟の扉にすがり泣き叫ぶ人々を、信仰の目で見たノアは、箱舟を造りながらも決して口を閉ざす事はなかったでしょう。ノアの悩みと苦しみを理解する者は、家族の他誰もいませんでした。義を伝えるノアに対し、当時の人々は、ノアを馬鹿にし、罵声を浴びせ、或いは冷笑を浮かべただけで、ノアの声に耳を傾けようとはしませんでした。しかし、箱舟のドアが閉ざされる瞬間までノアは伝えることを諦めはしなかったはずです。 私たちがノアのように、最後に「バタン!」と閉じる箱舟の扉の余韻(ひびき)がいつも脳裏をかすめ、人々の泣き叫ぶ声を信仰の耳で聞くならば、決して口を閉ざすことはできないでしょう。私たちの愛する者たちの魂の救いの為に、日々信仰の箱舟を造りながら、命の福音を伝えるべきです。(創世記7:16)。 そのはいったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。 −創世記7:16−
結論:すべてのものに始まりがあり、終わりがあります。そして、この世界もかならず終わりの時が訪れるでしょう。しかし、私たちには永遠の希望があります。その希望を得る為には、箱舟の閉ざされる扉の音を心の耳で捉えなければなりません。イエス様はこう語られました。「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食い,飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも,そのようであろう。(マタイ24:37〜39)。」また、マタイ25:1〜10節には、愚かな5人の女のたとえが記されています。愚かな女は、灯りは持っていたが、油を用意してませんでした。そして、女が油を買いに行った間に花婿が来て、門は閉ざされてしまいました。私たちは、門が閉ざされてしまい、呆然と立ち尽くす者とならない為に、最後の恵みを慕い求めましょう。そして、恵みの油で常に満たされた者となりましょう。 「今日」という信仰を持って、義人ノアのような者となり義を伝えましょう。敬虔に箱舟を造りましょう。そして箱舟の門が閉ざされる音を心の耳で聞きましょう。これこそが、私たちが生き、この国と民族、そしてすべての人類が生きる真の道です。最後の恵みを必ず手にする皆様でありますように、主の御名によって祝福します。 |