2005/7/17(主日礼拝)

主が与え、主が取られる
詩篇 118:19〜29、箴言14:4




序論:今日の本文は、救い主イエス・キリストを迎え入れたクリスチャンに対して、労苦と汗の価値を悟らせる御言葉です。箴言14:4節に「牛がなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」(新共同訳)と記されています。牛とは「勤勉」の象徴であり、飼い葉桶は「労苦、苦痛」を象徴しています。つまり、この御言葉は「労苦と犠牲なしに何一つ得ることが出来ない」と言う事を教えています。信仰者の間でよく語られる「ただイエス・キリストを信ぜよ」とは、ただ=何の努力もなしに、という事ではありません。「ただ」=ひたすら、前進的に、という意味です。投資があってこそ収益があるように、信仰の成長も、「たなぼた」で、上を向いてさえすれば得られるものではありません。血汗を流す努力の投資があってこそ洗練された信仰が与えられるのです。その為には、常に心を尽くして勤勉に、誠実に働く必要があります。救い主イエス様を迎え入れた私たちの生活が、今までよりも、さらに勝った信仰へと成長するには、それに相応する努力が必要である事を聖書は教えています。

 

1.すべての人に機会を与える主

 神様は私たちに多くのチャンスを与えて下さっています。イエス様を信じる信仰の機会、賛美と祈りの機会も下さいました。日々の生活に於いても、勤労の機会が与えられています。このような機会を与えられている者は、これらの機会を活かさなければなりません。智恵あるクリスチャンとは、神様から授かったものを正しく用いる人です。

 伝道の書に、最も祝福された人とは、「神様から与えられた富を享受する人」であると記されています(伝道の書5:19,6:2)。与えられた恵みを「当然のもの」と捉え、自分の好き勝手に用いる事ではありません。必要に応じて適切に使わなければなりません。与えられた恵みを、隣人を助ける為に用い、神様の尊い御わざの為に用いるべきです。その恵みの中で、各々の分に応じて喜び、楽しむことが、私たち信仰者のあるべき姿です。

 怠惰な(怠る)人は神様が人間に与えられた機会、時間、日をおろそかにしています。そのような人は、時間も、若さも取られ、いつの間にか身も心も老いてしまいます。そして、与えられたチャンスを逃してしまうことさえも気づかずに過ごしています。安逸をむさぼってはならない、と聖書は教えています。安易な思想によって生きる人は、チャンスを失うどころか、自分に与えられた祝福を、神様から奪っている泥棒です。なぜなら、機会も、時も、恵みもすべてが神様のものだからです。イエス様は自分に与えられた「ミッション」を決して無駄にはしませんでした。「私の父が今も働いているから私も働く」(ヨハネ5:17)と、神様から与えられた機会を最後まで用いられたのです。

 キリスト教は、生きている宗教、躍動する宗教です。体が備わっていることが生きていると言う証明にはなりません。動きがないのは、死んだ状態です。命があるものは、呼吸し、体のいたる部分が活動しています。そして常に新しい細胞へと変化し、成長しています。生きているからこそ活動することができ、働く事が出来るのです。聖書にこうあります「働こうとしない 者は、食べることもしてはならない」(第二テサロニケ3:10)。

 牛がなければ飼い葉桶は清潔である、と、聖書は逆説的な教えを私たちに示しています。清潔であるとは、空の状態なのであって、決して倉庫に穀物が満たされる事はありません。生きる為の糧がないのは、まさに災いです。つまり、努力(牛)なしには何をも得ることが出来ないと言う事です。外国のことわざにも「怠慢は貧しさの母であり、悪魔の枕である」と言うものがあります。

 私たちに与えられたチャンスを有効に活かしましょう。怠る事なく熱心に働きましょう。与えられた恵みを決して無駄にすることなく、隣人の為に、主の御用に用いる時、神様は益々多くのチャンスを祝福と共に与えて下さいます。

 

2.ない者から取られる主

 最近、人々の会話の中で「ない」「足りない」と言った言葉が語られているのを頻繁に耳にします。果たしてそうでしょうか?神様は私たちにすべてを与えておられます。それら「時間がない」と言ってる人にも神様は、すべての人と等しく時間を与えています。「お金がない」と言う人にも、富を得る力と健康を与えて下さっています。しかしながら、「ない、ない」と言います。確かに「ない」のでしょう。では、何故「ない」のでしょうか。

 聖書は、「天国は奪い取る者のもの」であると述べています(マタイ1:12)」。前述したように、「牛」は忠誠と犠牲を意味しています。これは誠実と勤勉な努力を促す言葉です。人が怠慢になるとその心の中に罪が生じ、ひいては滅びに至ります。弱い私たち人間の性質を知っておられる神様は、怠る結果もたらされる状況に対する防護策として、努力すべきであることを教えて下さっています。その為に、人々の生活に密着した視覚教材として「牛」を用いられました。申命記25:4節には、「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない。」と言われました。これは、私たちの努力が中断されないように、「勤勉」というムチを入れよ、との言葉です。

 パウロもガラテヤ教会に向かって、「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」と言われました(カラデヤ6:7)。つまり、蒔かなければ、何もない」という事です。「無ければ、無い」のです。「ない」という人は、「何も蒔いてません」と白状しているのと同じです。厳しいかもしれませんが、聖書はこのように述べています。「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」

ゲラサ人の地で、けがれた霊につかれた人を癒すことが出来なかった弟子たちに向かってイエスは「祈りなしにはできない」と言われました。すなわち、祈りも「ない」、力も「ない」なら実も「ない」ということです。このように信仰の世界ではないと言えば、あなたが言った通り何もなくなるのです。

今まで「持っていない」「足りない」「時間がない」と「ない、ない」人生を歩んできた人は、今日、与えられた御言葉の前に素直に自らを点検しましょう。そして、悔い改めの実を結びましょう。そして、「ない」人生にピリオドを打ちましょう。

3.ある者に与えられる主

すべて種があってこそ実を結ぶことができます。努力する過程があってはじめて得るのです。すべて蒔く行為があり、実を結ばせる過程に於いては、目に見えない人の苦労があります。大地に実りがあるのは、日や雨、風によって実らせる神様の見えない労苦があるからです。このように、労苦があって実が与えられるように、信仰によって「ある」時に、すべてが「有る」となるのです。

 韓国のことわざに「稲は主人の足音を聞いてこそ育つ」という言葉があります。このことわざは如何なる名誉や地位、物質、信仰などの所有は一日で出来上がるものではなく、長い忍耐と労苦と苦心の結果もたらされるという事です。神様の目は勤勉な人に注がれます。たった一つの御言葉でも漏らさぬよう熱心に受け止めて、礼拝を捧げる人に祝福を与えられます。アブラハムが神の前で忠実に働いた時、神様はアブラハムと契約を結ばれました(ネヘミヤ9:7〜8)。そればかりではなく、アブラハムを御自身の「友」として下さったのです(歴代下20:7)。これはアブラハムが神の前で「忠実」であったからです。このように何かを得ようとするなら勤勉で忠実な犠牲が必要です。その上で、「すべてがある」と言えるのです。

 

結論:私たちが、この世で成す最も重要な働きは神様の御名をほめたたえることです。そのために神様は、この世界を創造されました。そして私たち人間に、この世を征服し、治め、主管する力を与えられました。この事を受け止めて、与えられたこの大きな務めを忠実に行って行く時、私たちはすべてを持つ者となるのです。何故なら、宇宙万物を創造された神様の御言葉を持っているからです。この御言葉を信じ、持つ者は、すべてを持つ者となる祝福が与えられます。「ない」とつぶやく人生、「ある」と満たされる人生、あなたはどちらを選択しますか?

 


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