2005/7/24(主日礼拝)

朝ごとに声をあげてみいつくしみを歌います.
詩篇59:16〜17




序論:創世記に神様が天と地を創造された次第が記されています。1章を読むと、神様が一日のわざを終えるごとに「よし」とされ、そして「夕となり朝となった」という言葉が繰り返し出てきます。つまり、夕となり朝となった日を一日と数えています。神様は、夕から朝となったことを「よし」とされ、一日の働きを終えています。では何故、「朝から夕」となって、一日のわざを終えたのではなく「夕から朝」を一日とされているのでしょうか。

人を一つの宇宙にたとえて表現される事があります。この天地創造のわざを、私たち一人ひとりの人間に当てはめて考えてみましょう。夕が朝になった事とは、すなわち「夕(夜、闇)」の状態から、日の主であるイエス・キリストを受け入れて、「朝(光の子)」となった私たちを見て神様は喜ばれ、「よし」とされるのではないでしょうか。

 人生に往復の切符はありません。「朝の」の状態から、決して「夕」に戻らないように、常に最善を尽くす生き方を貫きたいものです。今日の本文、詩編の記者は、「朝ごとに声をあげて神のみ慈しみを歌う」と言われました。私たちも今日与えられた御言葉を通して「朝」の恵みに与りましょう。

 

1.朝は「始まり、行動開始、出発」を意味します。

 朝はすべての働きと計画を実行する時です。事前に計画した事柄を開始するのが「朝」です。聖書の様々な所で、朝に成されたわざについて記されています。また朝の光は、「始めよ!」という霊的な神様の御声です(詩19:1〜4)。私たちは、この「朝」の声を聞くことができなければ人生を徒(いたずら)に過すことになります。昔の偉人たちも「朝は黄金を乗せてくる」という言葉を残しています。

 確かに聖書に表れた多くの「朝」に黄金の祝福がもたらされました。朝に悟りを得ることができ、勤勉に神様のわざに励む人はすべて祝福を受けたのです。詩篇の記者は、「正直な人が朝彼らを治めるであろう。」(韓国語訳)と述べています。共同訳では、「朝になれば正しい人がその上を踏んで行き」、新改訳には、「朝は、直ぐな者が彼らを支配する。」(詩篇49:14)と訳されています。

 また、朝は新しい時代の始まりを意味します。アブラハムは朝早く起きて、ソドムとゴモラの裁きの煙が立ち上がるのを見ました(創世記19:27〜28)。ロトがソドムとコモラの裁きからゾアルの地に逃れた時も朝でした(創世記19:23)。ソドムとゴモラはまさに夜(闇)の状態にありました。「朝」である救いを見ることができなかった人々は皆滅ぼされましたが、朝と出会ったロトは生き、新しい地で出発をしました。

 アブラハムが「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、燔祭の生贄としてイサクをわたしにささげなさい。」という啓示を受けたのは夜でした。(創世記22:1〜3)。その後の聖書の記述を見てみましょう。「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子、イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。」と記されています。神様から試みを受けたアブラハムは果たして夜をさまよっていたのでしょうか。いいえ、アブラハムは、神様の掲示を受けた時、すでに彼の心の中に神様の復活の御わざ、救いの御わざである「信仰の朝」を迎えていたのです。そしてアブラハムが神様の御言葉に従って、朝一番に、行動を開始した結果、神様から信仰の父として認められる祝福を受ける事ができました。

 イサクの息子ヤコブも、朝の恵みを受けた一人です。彼は、兄エサウから長子の特権を奪った事によって逃亡者の身となりました。その途上、ルズという場所に着いた時、日が暮れたので、そこで石を枕にして一夜を過しました。そこで彼は夢をみました。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の御使いたちがそれを上がり下がりしていました。そして、主が彼のそばに立って言われました。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東,北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこに行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう(創世記28:11〜12)」

彼は眠りから覚めた時、そこが神の宮であると悟り、朝早く起きて枕にしていた石を取って、それを柱とし、そこに油を注いで、その所の名をベテルと名づけました(創世記28:10〜22)。ヤコブは、一人父の家を離れる時、どのような心境だったでしょうか。家族と離れ、父の信じる神からも自分は離れてしまったと、絶望の中、すなわち闇の中をさすらっていたのではないでしょうか。しかし、夢の中に現れた神様の世界を、彼は「朝」に悟ることができました。彼ヤコブが、どこにいても、どんな時にも共にいて守り導いて下さる神様の臨在を悟ることができたのも「朝」の出来事でした。

 また、神様がイスラエルの人々を解放させるために、モーセをパロの前に送った時も朝でした(出7:15)。聖なる宮で祭司長が香ばしい香を焚いて灯火を整えるのも、「朝ごと」の務めです(出30:7)。ヨブも宴会の日が一巡すると子どもたちを聖別するために「朝早く」子どもたちのために、彼らの数に従って燔祭の生贄を捧げました(ヨブ1:5)。

 以上のように「朝」恵みがもたらされた記述をあげれば、枚挙にいとまがありません。朝は種を蒔く時(伝道の書11:6)逆に、夜は脱ぐ時、恥をさらす時です。私たちの信仰は、夜ではなく、朝の信仰でなければなりません。イエス・キリストに在る「朝」を悟ることができなければ、たとえ日中起きて生活を行っているとしても、夜を生きることになるのです。私たちは、御言葉なる光の朝を常に心に抱き、日々、出発の朝、目覚めの朝、開始の朝の信仰を持って神様のいつくしみを歌おうではありませんか。

 

2.朝は喜びと楽しみの祝福をもたらす時です。

 神様は朝、モーセに啓示を与えるために稲妻と雷と濃い雲の中にご自身を現されました(出19:9、16)。モーセとイスラエルの人々は朝、濃い雲の中から聞こえてくる御声によって戒めを受けました。カラスがエリヤのためにパンと肉を運んだのは朝と夜でした(列王上17:6)。イスラエルの人々は荒野の40年の間、欠けることなく毎朝マナを集めました(出16:12)。このように、朝を持つ人は、霊肉共に備えを受けることが出来るのです。

 アラム王がエリシャを捕らえる為、夜のうちに馬と戦車と大軍を送ってドタンの町を包囲した時、エリシャの召使が恐れて、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言いました(列王下6:15)。しかしエリシャにはすでに朝を迎えていました。彼を守るおびただしい天の軍勢が、アラムの大軍よりもはるかに多い事を召使にも見えるようにしてくださいとエリシャが祈ると、火の馬と戦車がエリシャたちを取り巻いて山に満ちているのを召使いは見ました(列王下6:13〜17)。

 モアブがイスラエルにせめて来た時、エリシャは谷間に水の溝を多く掘るようにしました。すると神様はその溝を水で満たしました。モアブの人々が朝早く起きて見ると、太陽が水を照らしており、モアブ人にはそれが血のように赤く見えたので、イスラエル人同士が互いに殺しあったと思い込み、気に乗じて分捕り物を取りに出ました。その結果モアブは、イスラエルの攻撃を受けて脆くも大敗しました(列王下3:16〜27)。神様は、朝、このような勝利をイスラエルに与えられたのです。

 霊の朝があればすべてが回復されます。朝ごとに啓示の祝福と平安の祝福が与えられるのです。朝をしっかりと捉えて、世の戦いに於いて、神様の大いなる勝利のわざが起こる事を体験しましょう。

 3.朝はイエス様のいつくしみと恩寵を味わう時です

 「いつくしみ」とは神様の品性を表す言葉であり、「慈愛、情け、哀れみ、恵み」という意味を持っています。「朝」は、その神様のいつくしみ、すなわち愛を味わう時です。詩篇の記者は、「あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。」と歌いました(詩篇90:14)。神様は、朝ごとにわたしたちの祈りを聞き、楽しまれるのです(詩篇5:3、88:13)。

結論:イエス様御自身が朝です(マルコ1:35)。イエス様は輝く明けの明星です(黙示録22:16)。この、イエス・キリストが心の中に宿っている人は、朝を持っている人です。あなたも朝の光を浴びて、新しい一日を開始しましょう。朝の祝福が、主に在る兄弟姉妹の上にいつも共にありますように、主の聖なる御名によって祝福します。


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