2005/7/31(主日礼拝)

私たちを祝福し、守られる主。
民数記6:24〜27



「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを惠まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように」』。こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう。」                    −民数記6:24〜27−

序論:神様はわたしたちを愛して下さっています。そして、愛するが故に試みを下さいます。その神様の真の御旨は、私たちが幸いに生きる事を願っておられます。そして私たちに神様の御顔を照らし、平安を与えようと願っておられるのです。しかし、神様の御心を知らずに思いのままに生きるならば、神様が私たちに与えようとする平安を受け取る事も、守られる恵みを受ける事も出来なくなってしまいます。私たち自身今よりも幸せに生きることを願っているはずです。ならば、どうすれば更なる幸いな人生を送ることができるのでしょうか。今日与えられた御言葉に謙虚に耳を傾け、祝福と守りを受ける事が出来る智恵に与りたいと思います。

 

1.過去の苦い根を取り除かなければなりません

 苦い根があるならば必ず苦い実が結ばれます。ヘブル12:15節に、「気をつけて、神の惠みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」と記されています。では、どのような苦い根を取り除くべきでしょうか?

 まず「恨みの苦い根」を取り除かなければなりません。
恨み」とは、自分の現在の置かれた状況に対し、悔しさをもってすべて自分の不幸の原因を人のせいにすることです。「あの人のせいで私がこんな不幸に陥ったのだ」と、他者に責任の転嫁をします。また、「恨み」を持つ人の特徴は、常につぶやきます。聖書は、つぶやく者の人生は滅びである、と述べています。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。               −第一コリント10:10−
滅びを招く「恨みの根」は早々に断ち切らなければなりません。

 二つ目の苦い根は「憎しみの根」です。
つぶやきが
大きくなると、それはやがて憎しみに変化します。更に憎しみが増し加わると、殺人を犯す事になります。聖書にこのように記されているとおりです、「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」 −第一ヨハネ3:15−

 三つ目の苦い根は「傷の根」です。
つぶやきと憎しみがある人は、常に傷を負っている人です。傷は過去の否定的な写真のようなものです。「私はあの人から侮辱を受けた。私はあの人のせいで恥を被った。あの人のせいで私は失敗した。あの人のせいで私は敗北を味わわされた。私は間違ってないのに不当な扱いをされた。」などと、常に過去の否定的なことを思い出しては、その傷がうずき痛みを覚えます。体のほんの一部が傷ついてさえ、私たちは晴れやかな気持ちで過ごす事はできないでしょう。このような傷があれば尚更、平安を得る事など到底不可能です。

「恨み」「憎しみ」「痛み」、これらの苦い根が私たちの日々の歩みの枷(かせ)となります。この「苦い根」を取り除く以外に、私たちが幸せな人生を送ることは決して出来ないのです。苦い根によってもたらされる実は苦いものでしかありません。苦い根の上に築き上げた人生は、脆くて倒れやすいのです。このような「苦い根」を取り除いてこそ、私たちは幸いな人生を送る事が出来るのです。では、この「苦い根」を取り除く方法は何でしょうか。

2、苦い根を取り除く方法

 1)第一は、心のチャンネルを変える必要があります。
TVのチャンネルを変えると、たちまち今迄見ていた画面が消え、新しい画面が映し出されます。私たちの心には二種類のチャンネルがあります。一つは「否定」というチャンネル、もう一つは「肯定」というチャンネルです。「肉のチャンネル」と「霊のチャンネル」と言い換える事もできるでしょう。

今まで否定的な思いで人々を見てきた心のチャンネルを、未来の肯定的な事柄、肯定的な出来事、肯定的な思いで人々を見るように切り替えなければいけません。ローマ8:5〜6節に「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」と言われています。私たちが肉の思いを持ち続ける事によって得る物は「死」である、と聖書は警告しています。しかし、心のチャンネルを「霊」に切り替える時、私たちは死から命に移され、心の平安を頂く事が出来るのです。心のチャンネルを変えるのは誰ですか?それはあなた自身です。

2)第二は赦すことです。

神様は私たちに、隣人を赦すことを求めておられます。ある時、弟子のペテロがイエス様に質問しました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか、七たびまでですか」と聞くと、イエス様は「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」とお答えになりました。

しかし、私たちの現実はどうでしょうか。「いや、私は決して赦さない」と、あくまでも自分の信念に固執し、こう言います「私がその人のせいでどれほど大きな傷を受けたのか分かりますか?その人のために私がどれほど苦しみを受けたのか分かりますか?私は絶対ゆるしません」。しかし、どんな傷を受けたとしても、どれほど苦しみを受けたとしても、それでも私たちは赦さなければならないのです。何故でしょうか。それは、私が隣人を赦してこそ神様が私を赦して下さるからです。もし、私たちが兄弟を赦す事が出来ないならば、神様の私に対する許しを受けることが出来ないからです(マタイ18:35)。

あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。 −マタイ18:35−

私たちが人を赦す事は、すなわち自分自身を守る術でもあります。つぶやきや憎しみは「毒」と同じです。毒が私たちの内に蔓延するとやがて死に至らしめます。私たちが人を赦す時、それは「解毒剤」の役を果たし、毒が私たちの生活の中に広がるのを防ぐ事ができるのです。つぶやきや憎しみの毒を、人をゆるすことによって取り除き、幸いな人生を送ることが、私たちに与えられた本当の生き方なのではないでしょうか。。

 

結論:幸いな人生とは、神様に委ねる人生です。何故ならば、神様は私たちのすべての問題を解決して下さるお方だからです(マタイ11:28)。今、あなたの歩みにつぶやきや憎しみ、過去の傷がまだ残っていますか?そのような時、こう祈りましょう。「神様!私は、このようなつぶやきがまだ残っています。神様!私にこのような憎しみがまだ残っています。神様!私にこのような傷がまだ残っています。神様、ここから離れたいのです。ここから自由になりたいのです。どうぞ私の問題をすべて解決してください。」

「その足に口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」詩篇2:12節

今も生きておられる神様は、必ず私たちの問題を解決してくださいます。神様は、聖書の御言葉を通して、ご自分に委ね、御名を唱える者に祝福を与え、守ると約束して下さいました。この御言葉を信じて、神様にすべてを委ねましょう。そして私たちの中にある「苦い根」を御言葉と祈りによって取り除いて頂き、幸いな日々を過ごし、祝福に満ちた未来が広がることができますように、主の御名により祝福します。

 


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